6月14日に語り芝居「ぼっこの会」15周年記念公演をせんかわ劇場で観劇。
さねとうあきらさんの追悼公演でもある。
この月は、コンサートが3回、芝居が1回あったので、いささか疲れた。
それでも、グザヴィエ・ロト指揮のレ・シエクルというオーケストラの「春の祭典」
(6月12日タケミツ・メモリアル)と「ぼっこの会」の公演は圧倒的に私を追いめた。
6月16日にはNHK交響楽団の定期公演で、アシュケナージと庄司紗矢香のコンサートがあったから、2日おきに外出していたことになる。さらに6月29日にはバンベルク交響楽団の「マーラー交響曲第3番」の公演がある(6月23日記)
とここまでは、予想以上の収穫を得て余裕を見せていたのだが、私個人としてはこれからが目玉なのである。
7月5日、ドイツのミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場でのワーグナーの神聖祝典劇
「パルジファル」のために半年前から準備をしていて、そのチケットが取れたから
「弾丸ツアーで」(3泊5日)で行くことになり、加えて、パリ・オペラ座 ガルニエ宮で
オペラ座バレエ「ラフィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)のチケットも取れ、
パリ2泊、ミュンヘン1泊の決死のツアーを組んだのである。決死というのは私にとって
少しも大げさではなく、とてつもなく時差に弱い者にはこの言葉しかみつからない。
過去にベルリン・ドイツ・オペラでもオペラ1曲を全て寝て過ごしたし、数年前に、憧れの
ドレスデン国立歌劇場での「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」の公演で後半のプログラム、
ブラ―ムス第1交響曲、冒頭のティンパニーで始まったのは覚えているものの、第4楽章
のコーダで目が覚めたという私にとっては笑えないほどの重症なのだ。
終演後ホテルのレストランで食事を始めたら、当日のコンダクターであるエッシエンバッハ氏も来られたのだが、考えてみればエッシエンバッハ氏を見に行ったようなものだった。
本題に入ろう。
「ぼっこの会」というのは にいくら近子さんの主宰する劇団である。偶然にも近子さんと
私は同じ年なのだが、知り合ってもうかれこれ30年位にはなる。その頃の私は大劇場の演劇が大好きで、蜷川さんの「ハムレット」や「マクベス」を観ていた頃にあたる。
だから初めて公演に誘われた時、会場に入ってみて、その狭さに驚き、又がっかりもした。
しかしそこで演じられるものは、どういうわけか終わってみると何か心に残るような感覚があった。誘われると行くこともあり、又行かないこともあったが、いつもどこかで
“やっているんだな”という気持ちも持っていた。
近子さんは、控えめな女性で、嫌味のない人である。にいくらさんの書かれた文章を引用してみる。
「ある公演でのこと。会場いっぱいにして、熱い視線を舞台に向けてくれていたのは、
障害を持った人達でした。傍らに車いすや杖を置いて-(中略)。
その時ふと、ベッドから離れられず、この会場にも来られない人達がいるはず・・・。カバン一つで何処へでも飛んで行き、元気を共有できる芝居を創りたい!」-(中略)
2003年さねとう作品のみを上演する語り芝居「ぼっこの会」が誕生したのです!
(注)さねとう作品-「さねとうあきら創作民話」
今回の公演は「つると平太」(鶴の恩返し より)で翻案、演出:ゆい きょうじ
でした。毎回感じるのは、前回と違うということです。
何が違うか?
力の必要のない所は、力を入れず、いざという時にその場を支配する その塩梅が違う。
私は芝居に詳しくはありませんので音楽で言うなら“静寂の中の集中力”つまり、
極めてシンプルであるということです。私の最も評価している作品(オペラ)は
ワーグナーの「パルジファル」です。最後の作品になった「パルジファル」はその美しさ、
力強さに特徴があります。4時間以上かかるオペラのほとんどの部分は静寂で、所々に盛り上がり、クレッシェンドがきますが、それもすぐ元に戻ります。大オーケストラと
大合唱団、それに大勢の歌手たち、凝った舞台の割には、表面だけ見ているとつまらない音楽にも聴こえます。現に音楽愛好家の中にもつまらない曲、というのと、最高の傑作という評価があります。
でも、北大路魯山人のいう最高の味は、“下関のフグ”にもいろいろ見方があるのですから
仕方ありません。
私は、にいくら近子さんと知り合わなければ、世の中にいろいろ人々がいることすら知らないで過ごしたはずです。
70歳なんてまだまだです。
私は、今回のパリ行きに備えてフランス語を勉強し始めました。そうなると、あれほど
億劫だったパリも楽しみになってきました。
進化する近子さんガンバレ!
ヒロシ様よりチカコ様へ