ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ②

そうだった。私はバイロイト音楽祭について書くつもりではなかったのだが、このバイロイト音楽祭というのが、実はくせ者なので書かざるを得なかったのだ。クラシックファンならばこの音楽祭のチケットが世界一入手困難なプラチナ・チケットであることは誰でも知っている。実のところはわからないが、口から口へ伝えられるのは、申し込んで5,6年は無理というものだ。しかし、現実には一年ほど前であればこのプラチナ・チケットは取れるのだが、それが誰でもというわけにはいかない。

2009年の10月に本当に清水の舞台から飛び降りるつもりで、(音楽祭は7月25日から8月末までほぼ毎日公演がある)旅行会社に申込みをした。最大手の会社である。6ヶ月前に申込んだのだが、4月になって本格的な予約をするまで予約の予約をしてくれるというので申込みをして安心していたのだが、一向に連絡がない。不思議な気持ちで音楽雑誌を買ってみて、本当に目が飛び出る思いでその広告を見つめた。

その会社の広告にその年のバイロイト音楽祭の日程と、公演曲がはっきりと明記されている。

怒り狂って電話をしてみると、あの担当者はおらず若い女性の声が伝わってきた。

私には怒り狂ってしまうと言葉が出てこないクセがある。

“もしもし”という声が聞こえるが声が出ない。何回かの“もしもし”を聞いて怒りが爆発した。

「う~、なんなんだ、あんなに前に予約の予約を入れて安心したのにこの仕打ちはなんなんだぁ~~~~。」

相手もあまりの怒鳴り声におたおたした様子が伝わってくる。前回の“ばばあ”の横柄な態度と異なって

「そう申されましても、申込みをされている方が多くいらっしゃいます。」

若い女性は、冷静に対応している。若い女性に弱い私は少し落ち着きを取り戻した。

「多くの方が申込みをされていますって、どうして皆、知っているんだぁ~~」

「恐れ入りますが、そちら様には『バイロイト音楽祭』の予定表と『ザルツブルグ音楽祭』のパンフレットはお届きになっていらっしゃいませんか?」

「何言ってるの!何も来ないじゃない。ずっと待っていたのに。」

もうすでに泣き声になっている。

「それで、予約状況はどうなっているんですか?」

一生けん命に気持ちを落ち着けているのだが、頭の中は真っ白だ。

次に浮かぶのはあのババアの声と上から目線の横柄な態度だった。あいつが予約の予約を失念したことは間違いない。

すっかり気落ちした私は、それでもこの女性にすがりつくしかない。

「え、15名の定員で14名様が埋まってるって何言ってるの、じゃあ1名だけの枠ってこと?」

「2名様ですと、1名の方がキャンセル待ちということに・・・」

「じゃぁ1名のキャンセルが出ないと2名で行けないってこと?」

「そういうことになります。でも毎年数名のキャンセルが出ますから。」

「出ますからって出なかったらどうすんのよ!」

「え、その時はご出発はご無理かと・・・」

白い状態が青い領域に変わっていくのが分かる。青いながらも、最も気になる

チケットのランクを聞いてさらにビックリした。

「申込みが最後になりますので後ろの方になるかと。」

「え、31列目ってすいぶん後ろじゃないの。」

「はい。31列目の後ろが最後列ですので、その壁の向こうは外ということになります。」

ガクガクと体の震えを感じながら

「えっ、そっちのミスでこうなったんだから、15席しかないって落ち着いていないで何とかもう1席チケットを確保しなさいよ!」

「はぁ、私どももそうして差し上げたいのですが、何しろバイロイト音楽祭ですので、私どもの会社でも15席が精一杯なのでございます。」

次の会社に電話するも、同様の答えが返ってくる。

どの旅行会社も似たり寄ったりであるが、全体の評価としては、最初に電話をした所が良いので、キャンセル待ちに落ち着かざるを得ない。諦め半分、ふてくされ半分・怒り最高の気分だった。

そんなある日、友人がやってきた。この人にも「バイロイト音楽祭」に予約の予約をしたことを自慢していたのである。

カバンの中から出したパンフレットを見て、私は唖然とした。

「これ、通りがかりに見つけたから持ってきました。もう予約しているから必要ないと思いますけど。」パンフレットの表紙には大きく「バイロイト音楽祭 ザルツブルグ音楽祭」という文字が見える。

苦しみぬいてきたので「バイロイト音楽祭」という文字を見ただけで異様な反応が起きるようになってしまっているのだ。

彼の手から無言でパンフレットをもぎとると、一気に全ページを見だしたのだった。

色々のツアーが所狭しと書かれており、出発日も3通り記されている。その他にもワーグナーの歌劇の組み合わせも多様である。早々に友人を追い返して電話に飛びついた。

「はい、こちら音楽鑑賞デスクでございます。」

「あのぉ~、今そちらのパンフレット、バイ、バイ、バイロイト音楽祭のですけど・・・。

「はい、お手元にパンフレットをお持ちでいらっしゃいますかぁ~?」

「も、持ってますぅ~」

「それでどういたしましょうか」

「どうするって、バイロイトに行きたいんです。2人で。」

「はい、2名様でおとりできます。」

この人はいともあっさり答えるのである。

「でも、31列目とかじゃないですよねぇ~」

「はい、当社では、前方のかなり良い席もお取りできます。ご利用料金によりますが、ある程度ご自由に選べるかと」

「だってバイロイト音楽祭ですよ、ああたぁ~。」

「はい。それよりもですねぇ~どちらかというと航空チケットが取れるかどうかの方が問題かと。バイロイトに行くのにはニュルンベルクから車で1時間程かかります。それはいいのですけど、この時期8月は大変混み合います。

それで飛行機の件ですが、ルフトハンザのご利用になります。

東京-ミュンヘン あるいは 東京-フランクフルトを飛んでおりまして。どちらかの空港で乗り換えていただいて、ニュルンベルクということになります。ただ最近、A380という大きな飛行機が飛ぶようになりましたから、恐らく大丈夫でないかと。」

「じゃあ本当にいけるんですね、バイロイトに」

「はい、何とかなると思います。」

その喜びは計り知れないのである。

「じゃぁS席2枚ずつ取って下さい。」

「はい、えっとあちらではカテゴリー1といいます。1枚8万5千円ほどになりますがよろしいでしょうか。」

値段など耳に入らないのである。

「じゃぁ6公演、全部カテゴリー1で2枚ずつお願いします。」

この会社の「バイロイト音楽祭」はエコノミーの航空チケット、ホテル、朝食付、2枚のカテゴリー3のチケットのみで合計89万円也だった。(今年のパンフレットを見ると10万円程アップしている)

東京-フランクフルト、フランクフルト-ニュルンベルク 全くの2人旅である。言葉も右も左もわからない日本人2人、やっとのことでニュルンベルクに到着した。

長い私の話もやっと、ここまで来たのだが、ここで待っていたのがこの話の主人公なのである。ニュルンベルク空港を出てタクシー乗り場にその人はいた。

「やあ、やあ、お疲れ様です。私○○です。」

と悪びれる様子もない。

私としてはとてつもない高額料金を払い、先のことを無視した無謀なバイロイト詣でなのである。何しろ、このためにローンを組んでいるから来月からその支払いに苦しまなければならぬ。添乗員もなく、やっとの思いで着いてみれば、おっさん1人の出迎えだ。またもや、89万円也が頭をのぞかせた。

ホテルまでは付いて来たが、それきりで「皆さんで楽しんで下さい、私はこれで失礼します。」と言って去って行ってしまった。その後、何回かお目にかかったが、それきりだった。

しかし人はわからないものでる。

このおっさん、とてつもない人だったのである。「パルジファル」はステージから3列目中央、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は前から5番目中央、「ニーベルンクの指環」4部作全て前方から15列目中央、と音楽ファンなら大抵の人が知っている4,5年待ちなどどこ吹く風である。更に驚いたのは、ツアーで一緒になって仲良くなった人々(現在も“バイロイト会”は続いて、年に1回5人で会っている。)の中に「パルジファル」のチケットを持っていない人がいた。皆からバイロイトに来て「パルジファル」を聴かないなんて考えられない、という話を聞いていた彼は、自分も聴いてみたいと言い始めた。冗談半分でじゃぁ○○さんに訊いてみたらというのを真に受けて○○さんに訊いてみたところ、明日の夕方に「パルジファル」のチケットをお渡しします、と言われたそうである。すると次の日の夕方、例の調子で飄々とした○○さん、「はい、どうぞ」と言ってチケットを渡して去って行ったそうだ。

その後私は、憧れのドレスデン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会、ウィーン・フィルハーモニーの演奏会と次々と回ってこの人のおそるべし実力を思い知ったのだった。どの公演も前から2~5列目ぐらいであり、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会では最前列中央に座らされて、周囲のドイツ人にジロジロと見られる始末だった。

こんなことから、今回も「音楽鑑賞デスク」の○○さんに連絡をしたのである。

特に、バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は、今シーズン限りで、この歌劇場を去ることになっている、ペトレンコの指揮、カウフマン、ゲルハウエル、パーペ、という有名歌手の出演で、5回の公演は即日完売になるだろうという。2月に前売りが始まったが、○○さんに言わせると、「そんな時にいいチケットは取れません」のだそうだ。

後日、「ああいい席取れました。前から5列目だったかな。中央です。あ、それから、パリ・オペラ座の方ですけど、ガルニエ宮のあれも前から3列目取れています。」

という電話をもらった。私の注文はどれもこれもチケットが取りづらいものばかりなのだが、「ちょっとやってみないとわかりませんけど」と言いつつ必ず最高の席を確保してくれるのである。

(7月5日の「パルジファル」は素晴らしい出来だった。)