月別アーカイブ: 2018年9月

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ⑤

クナッパーツブッシュのエピソード

テューバ

ミュンヘン・オペラの楽団員は皆優れた人達であるが、テューバ奏者

クーゲルマンも素晴らしい存在であった。クナはテューバを重要に考えていたので、クーゲルマンにはいつも特に注目していたのだ。

「ジークフリート」を演奏していたある晩のこと、テューバのパートにいくつも出てくる難しい箇所を見事に吹き終えたところで、クーゲルマンは思った。

「今日はまずお誉めにあずかれるだろうさ。」幕が下りて、オーケストラの間を縫ってクナがそそくさと退場しようとする。ちょうどテューバの席にさしかかるとクナはしばし立ち止まり、楽器を見下ろした。いよいよ賞賛の言葉をもらえる、とクーゲルマンは待ち構えた。

クナはにこりともしないで言った。

「お宅の便器・・・・・・そろそろ磨き直したらいかがですかな!」

 

 

街の女

ある時、アン・デア・ウィーン劇場でクナは演奏会を指揮した。ワーグナーの<トリスタンとイゾルデ>「前奏曲と愛の死」を、マルタ・メードルが歌った。演奏会が終わると、クナが食事をいつもとっていたホテルは劇場からそう遠くはなかったので、彼はメードル他何人かと一緒にホテルまで歩いていった。

一行は途中、「街の女」がうろついている通りを横切らねばならなかった。女たちはクナッパーツブッシュのことなどもちろん何も知らない。その内の一人がクナに声をかけた。クナは無視して歩き続けたが、3メートル程行った後、くるりと向き直り、きょとんとする女にしゃがれた声で言った

「ごめんよ、ねぇちゃん。今日はムスコが一緒じゃないんでね!」

 

 

フランス語

バイロイトで<パルジファル>を練習していたときのこと、あるフランス人女性歌手の出来がひどかった。クナはオーケストラ・ピットから上の舞台に向けて例によって「このクソばばぁめが!」と怒鳴った。

しかし彼女はそれを解さず下に向かって

「フランス語デオネガイシマース!」

彼女がまたも演奏をしくじった時、クナは怒鳴った。

「フランス語のクソばばあめが!」

 

 

短い練習

クナッパーツブッシュは厳格だったが、慈愛深くもあった。

練習で彼は最小の労力で最大の成果を得たので、有能な音楽家から高く評価されていた。

ミュンヘンの演奏会でのこと。ブルックナーの第8交響曲のためにわずか1日の練習が予定されていた。クナは第1楽章を始めたが途中で止め指揮棒を置き、

その特徴的ななガラガラ声で言った。

「皆さんはこの曲をご存知だ。わしもそうだ。お互い辛いことは止めましょうや。ではまた今夜8時の本番で。」

練習はそれで終わりだった。

そしてその夜はいつものように輝かしい成功をおさめたのである。

 

(ミュンヘン・フィルハーモニーのソロ・ホルン奏者

               アルトゥール・アイトラー氏の小冊子より)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ④

今回は、ペトレンコ指揮の「パルジファル」を聴くためにミュンヘンに行ったことはすでに述べた通りである。私たちの鑑賞日は5回の公演の中で一番チケットが取れやすいだろうという7月5日に決まった。この日を中心にして、

パリ・オペラ座バレエを調べてみると幸運にも、ガルニエ宮で「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)が観られる。それとさらに幸せなことに、このバレエ団のエトワールであるジルベールがリーズを踊る日にピタリと当てはまっている。当日リーズの相手役が変更になっていて、さらに加えて、ルーベという超豪華なステージを観ることになった。

仕事の関係上、この2公演を観て、とんぼ返りすることになった。3泊5日の行程である。3泊といっても 東京―パリ は12時間40分かかるから日本を昼前の直行便に乗ってもパリに着くのは同日の午後5時半ごろになる。

入国審査と荷物を受け取って市内に入る頃は公演が始まってしまう。つまり

その日1日はまるまる無駄になるわけだ。そうなると時間を自由に使えるのは正味2日、その2日の夜の公演を観ようというわけである。

しかし、パリ・オペラ座の公演が終わってホテルに戻ると午後10時。

次の日の朝8時50分の便に乗らなければ昼にミュンヘンに着かないので、その3時間前、6時にホテルを出なければならない。我々は早朝4時に起きて準備をして出発した。

バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は午後5時開演である。そして、終演が午後10時20分。いくら好きな「パルジファル」だって、休憩時間を入れると5時間20分はキツイ。加えて、時差ボケ人間なのである。

歌劇場のすぐそばのレストランに予約をいれてあったので安心していたのだが、歌劇場を出ると、雨がポツポツと降っていた。急いでレストランの入り口に立った。案内された席は何と前回来た時と同じ席だった。

雨がポツポツと、同じ席と、食べ終わって小雨の中を同じ道を急ぎ足で通るのも、全く同じで驚くほかはない。前回は、クリスティアン・ゲルハーエルのシューベルト「冬の旅」を聴くために来たのだが、今回の「パルジファル」で

アムフォルタス王を歌ったのもゲルハーエル、これも同じであった。

前回のリートの時も歌劇場内は、ブラボーの嵐だったが、今回の「パルジファル」では、バイロイトと同じでドスドス、ドスドスと床をさかんに足で踏み鳴らし、あちらこちらからブラボーが飛び、最後はほとんどの人が立ち上がって、スタンディングオベーションだ。時差ボケと空腹で、皆が騒いでいる中で席を立って、レストランに駆け込み、ホッとしていると、後から後から人が入ってくる。みんな同じパンフレットを持っているので同族であることが知れる。完全な時差ボケ人間はビールを飲んでも、バイエルンの地方料理を食べても全く美味しくないのだった。

しかし、明日はどうしても行かなければならない場所があるのである。

朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。

しかし、こんな雨に負けてはいられないのだ。

私には目的がある。

恐らく、1965年10月25日、彼は77才の生涯をこの地で終えたはずだ。彼はミュンヘンに住んでいたと人は言う。もちろん、芸能人や世界的な映画スターでもないからどこに住んでいようが、人は興味がないだろう。生粋のドイツ人であり、生涯のほとんどを国内で過ごし、外国には出なかったらしい彼もフランスには行ったようだった。それは、パリ音楽院管弦楽団とのワーグナーのレコードも出ていることからも知れた。その後知ったのは、イタリアにも行っていてけっこう国外にも出ていることだった。そのレコードと出会った頃の私は、恥ずかしながら、ヨーロッパのことなどほとんど知らなかった。

「外国へ行かなかったって、フランスには行ってるじゃん」とつまらないことで反発して、そのレコードのジャケットを見ていた。今では航空会社にもよるが、日本から南ドイツに行くとなると、たいていフランクフルトかミュンヘンで乗り換えることになる。

これらの空港はフランクフルトもミュンヘンも国際空港である。現実に行ってみると、ターミナル間を電車が走っている程大きい。ミュンヘンという街は、古い建物と緑がとても多い。南ドイツの香りがプンプンと匂う。

現代都市のベルリンと比べると、同じドイツ?!と突っ込みたくなるほど違う。それに人間も違うらしい。ミュンヘンの人々はどこか、のんびりしていてやさしい感じがある。日本人からみると、いつも怒っているように見えるドイツ人は実はいい人達なのかも知れない。

ホテルを出ると、雨はしとしとと降り続いていた。空の1/3ほどが明るくなって、ほっとしたが、用心のために傘を持って出た。ホテルの傘だ。

トラム(市街電車)の19番に乗って、ウェバー・プラッツまで来た。ここでトラムを乗り換えろと地図は言っている。

実はこの地図、ライプツィッヒに住んでいる友人が作ってくれたものだ。

その地までのトラムの路線図、着いてからの目的地までの地図と丁寧である。

私たちは、同じドイツなのだからと、気軽に頼んでしまったが、ライプツィッヒとミュンヘンでは、違う。地図を見ながら、トラム17番というのを探すが、どういうわけ電車が来ない。電光掲示板にもその番号だけが出てこない。

よく調べてみると、17番の行く方向は線路が工事中であった。仕方なく、またトラムに乗ってホテルの前まで戻った。ミュンヘンは、流しのタクシーもあるという話だったが、走っているのは客を乗せたタクシーばかりでホテルから乗ることにしたのだ。

地図を見せて、

Bringen  Sie  mich  bitte  zu

ブリンゲン    ズイ   ミッヒ   ビッテ    ツウ

dieser  Adresse

ディーザー    アドレッセ

(この住所へ行って下さい)

とやってみた。

地図を見たものの、タクシードライバーは、ほとんど反応しない。

<こいつ、感じ悪し!>と心の中で思った。

それにしては、スイスイと広い道路を走っている。

妻と目配せして、帰りは違うタクシーにしようと決めた。細い道を入っては考え込み、首をひねって、もう一度見せろというジェスチャーをする。

ドライバーも困っているらしく、車を停めて人に訊いている。

<こいつ、ひょっとして。>

と思っていると、ついにその地を見つけたらしく、「kirche(キルヒエ)」

と言っている。タクシーの窓から見えたのは、小さな建物だった。

不信感を露わにすると、車内から前上方を指差している。確かに小さな十字架が見える。私の体に力がこもった。ここかも知れない。

周囲を見ると、ちょっとした高級住宅地で、前には幼稚園らしきものも見え、幼児の声がしている。この場所は、トラムの走っている線路からだとかなり遠いことはわかる。こんな所で降ろされたら帰るに帰れないという気持ちでいっぱいになった。

だいだいこんな所にある教会など誰が知るだろう。しかしわが家の事を考えてみても、近くのお寺に先祖は埋葬されている。もちろん大きな墓地には遠いところから人々はやって来るが、どちらかと言うと、それは比較的最近の傾向だろう。

裕福な家々のなかにある墓地は思ったよりかなり小さかった。雨が上がって、7月初旬の日が射して、緑が本当に美しい。

墓地の入口に立ってみて、タクシードライバーの気持ちが理解できるように思った。ミュンヘンの中心部にあるホテルから、ここを指示されても、誰だってとまどうだろう。それがあの態度であるなら理解出来なくはない。それで私は

気持ちを入れ替えて、ここで待って欲しい旨を彼に伝えた。

しかしかれの方もこの場所で良かったのかどうか迷っているようであった。おずおずと入口を入ってみると、右に回るように道がついている。友人がくれた墓地の地図だと、中心にある小さな教会を取り巻くように墓が並んでいる。そこへタクシードライバーが入ってきて、私たちが墓標の前で写真を撮っているのを見てニコッと笑った。

不確かな情報によると、あの指揮者のケンペもこの墓地に埋葬されていると言うが、こんな小さな教会に世界的指揮者が2人まで、という気持ちがケンペの墓を探す気持ちを萎えさせた。ただ、ケンペもミュンヘンの人だった。

昔、写真で見た墓は確かにあった。正面に立ってみると、左側に

ハンス・クナッパーツブッシュ、右側に生前のクナさんが“小リスちゃん”だか“小鹿ちゃん”と呼んだ愛妻、マリオン・クナッパーツブッシュが埋葬されている。彼と彼女は、10才違いでクナッパーツブッシュが亡くなった後、彼女は19年間生きていたことになる。

クナッパーツブッシュの墓の前に立った時、私の体は異常な反応を示しだした。

涙が出そうで出ない、ガクガク足が震える。声が出そうなる。呼びたい気持ちを抑えると、上半身が震える等々の反応だった。

私の反応にいち早く妻は反応して、その場から消えた。

私の引きつった顔は、明らかに1965年10月25日のことを思い出していた。

その場の光景とともに。

NHKの朝のニュースは、世界的大指揮者、ハンス。クナッパーツブッシュが亡くなったことを伝えた。呆然とした私は遠い日本から彼のことを想った。

15才と77才の歳の差を乗り越えて。

考えてもみなかったことが起こったのだ。私は早速『ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(ウェスト・ミンスター盤)』のジャケットからクナッパーツブッシュの写真をブロマイドにすることにした。

(ジャケットの左側がクナッパーツブッシュ、右側がブルックナー)

親しい写真屋に頼んで小さな枠を付けて、壁にかけられるようにした。

「こんなジジィの写真、ブロマイドにしてどうすんだ。お前おかしいんじゃない?」と下町言葉で言うから、「バカヤロー、お前なんかに何がわかるんだ」と怒鳴ってやったら、次の日に母親に苦情がきたらしい。

「お宅のお子さんだからまぁいいけど、それがうるさいんですよ。こんなんじゃダメだとか何だとかさんざん苦労しました。」

とこぼしていったらしい。

恐らくそんな時に、クナッパーツブッシュはここに埋蔵されたのだろう。

東京、ミュンヘン1万kmを乗り越えて、やっとクナッパーツブッシュの墓にきたのである。私はもう69才になっていた。

でも墓に来た充実感と、安心感は何にも変えられない。

(クナッパーツブッシュは聖ゲオルグ教会に隣接する、ボーゲン・ハウゼン墓地に埋葬されている。)

 

私の先祖の墓は仕事場からタクシーを利用すれば10分程で行ける距離にある。

しかし私はこの10年一度も行ったことがない。

又、今後も行くつもりもないのだが、私は本当の愚か者だろうか。

罪悪感を持って、人に訊くと、『けっこうそういう人もいるんじゃない』という答えが返ってきた。

その言葉が嬉しくもあり、悲しくもあった。