おらんだァー①

おらんだァー

日本からほぼ1万キロ。ヨーロッパの国々までの距離である。

「これだれんだぁ~」

「おらんだァ」

というのが、私の小さい頃よく下町で使われていた。たわいのない子供の掛け合いである。戦後すぐに生まれた私たちの世代、いわゆる“団塊の世代”では、特に有名だった。これを知らない人は、この世代にあらずと言っていい。まさかこの“おらんだ”に、自分が行くことになるとはつゆ知らず、生活をしてきた人間にとっては、青天の霹靂なのである。私が知っているのはKLMオランダ航空、チューリップ、風車、ぐらいなもので、大体ヨーロッパのどの辺りにある国かさえも知らなかったのだから世話もない。

私の父は東急百貨店勤務(元は日本橋白木屋に入ったが、後年、東急系列に買収)で、婦人服の専門をしていたらしい。どういうわけか、この父がなにかにつけて、“オランダ人はデカイ”というのも聴き慣れた言葉だったから、これもオランダに加えていいだろう。その後オランダとは何のかかわりもなかったのだが、18才の時に「さまよえるオランダ人」という歌劇を聴いた。ワーグナーの初期の歌劇で彼特有の「愛の救済」の物語である。この筋書きは、これから書き進める文に多少なりとも関係を持つから、簡単に記しておく。

「1843年に作曲されたこの曲は、バイロイト音楽祭では、初期のオペラとして上演され、それ以前の曲は、寡作という分類にされていて、上演はされない」

18世紀のノルウェーの港町。貞節を捧げる女性が現れるまで、7つの荒海を彷徨うことを運命づけられた、幽霊船のオランダ人船長が、7年に一度だけ許される上陸の機会に、港町の娘・ゼンタの献身的な愛によって、神への冒涜を解かれる、というもの。

この序曲は、初期ワーグナーの名曲で、よく演奏される。出だしから強烈な音楽で、小さなオランダ船が、荒れ狂う海の中をさ迷い歩く風景を描写し、コーダに入ると、オランダ人船長とゼンタの愛の救済の音楽が高らかに奏される。どう解釈しても、この曲には暗いイメージがあるが、ある意味でワーグナーらしいともいえる。繰り返し聴いているうちに、オランダ人→幽霊船→デカイ男→暗い、という連想になってしまっていた。その思いを持って、入国審査を済ませてホテルに着くと、PM4:00を過ぎていたから、外は真っ暗。予約していたレストランの中は明るいものの、街全体が暗く、レストランの多くある地域にも、人がいるようにも見えない。イギリスの「地方」も暗いが、それに輪をかけて暗いのである。レストランに入っても、ホテルに入っても暗いが、よく見ると、照明器具はかなり点いているが、一つ一つの光がとにかく暗い。正に幽霊船をイメージするよう。レストランでの食事も美味しいとは言えない。これもイギリスと同じである。それでもとにかく、次の日は、憧れのアムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団が聴けるのだから、多少の事はガマンが大事だと思い直す。今回の旅行は、コンセルトヘボゥ管弦楽団を聴くための、3泊の旅行なのである。(コンセルトヘボゥとは、オランダ語でコンサート・ホールの意)

明日11月22日は、「ベートーヴェンのバイオリン協奏曲」(バイオリン イザベラ・ファウスト)と、「シューマンの第二交響曲」。指揮はヘレヴェッヘ。いつものことだが、コンサートの演奏時間は約1時間20分、休憩20分。アンコールがあっても、約2時間だ。言いかえると1時間20分の音楽を聴くために来た、ことになる。同年の4月に行った、パリ、ミュンヘンの旅も、やはり3泊で、パリでオペラ座でのバレエの公演、その次の日にはミュンヘンの国立歌劇場で「パルジファル」、これがスケジュールの限界だった。大体、バレエ公演は2時間前後、オペラもほとんどが2時間半前後だが、ワーグナーの「パルジファル」は、なんと演奏時間が4時間を超え、休憩2回で、合わせて約6時間の拘束時間になるのである。下世話な話ではあるが、4月のパリ、ミュンヘンの時は、それなりに元をとったようだった。しかしそう考えると、今回のアムステルダム行きは、1時間20分のコンサートだけだから勿体ないことになる。が、しかし、私も抜け目がないのである。オランダといえば、レンブラント、フェルメール、ゴッホ等の国でもある。調べてみると、コンセルトヘボゥ(コンサート・ホール)の近くに、『アムステルダム国立美術館』と、『ファン・ゴッホ美術館』があり、アムステルダム中央駅から電車で50分程のところにハーグという街があって、そこには『マウリッツハイス美術館』、ハーグから更に電車で10分程のところには、あのデルフトがある。この街には美術館はないが、フェルメールの家があり、そこで父親が簡易宿屋と酒場を開いていたという。現在同地には、ほぼ同じ型の建物が造られていて、2階の角部屋には“フェルメールの窓”があり、その脇に『フェルメールの家』というプレートがはまっている。誰でも知っているように、画面の左側の窓から差し込む淡い光は、この窓からのものであるという。この窓は北側に開いていて、薄暗いオランダの空とあいまって、仄かな光の変化を部屋の内側に写し出していたとも言われている。

彼の30何枚かの絵の中に、風景画が2枚あるが、その2枚は、この、デルフトの風景なのである。1枚は“デルフトの小路”、もう1枚は“デルフトの眺望”。この“デルフトの眺望”の方は、現在でもその場所が残っている。ここは観光地としても有名で、フェルメールその人が、ほぼ400年弱前に立って観ていた風景を、我々も見ることが出来る。ここにも、その場所にその旨を知らせるプレートが立っていた。「フェルメールの家」との繋がりで言うなら、「レンブラントの家」というのもある。これもやはり町の中心部に現存している。ほぼ400年を経た建物は、驚くほど美しい。デルフトという小さな街と、アムステルダムという都会では、地価もかなり差があったろう。その地のほぼ中央部にあるレンブラントの豪邸は、工房も兼ねていたと言われる。「夜警」もここで描かれ、後年の作品もこの工房で画かれたのだそうだ。1639年、33歳だったレンブラントは、この豪邸をローンで購入し、弟子の数も40~50人いたと言われる。1656年、50才の時、破産宣告を受けたのは、肖像画の注文が減り、借金の返済が出来なかったからだ。美術品コレクションや、自身の作品の一部を手放すが間に合わず、豪邸も処分せざるを得なくなったのだ。更なる不幸が彼を襲う。62才の時だ。妻サスキアの残した一人息子、テイトウスに先立たれてしまう。26才だった。残された妻は身籠っており、翌年、レンブラントには孫娘が誕生した。それを見ると、急速に衰えたレンブラントは、困窮のうちに死去してしまう。50才で豪邸を手放して、街の西の外れ、ローゼンフラウトの家でのことだったという。63才だった。しかし、愛するサスキアが30才で亡くなった後、レンブラントは若い使用人に手を出したり、関係が切れる前に、また別の女性に手を出したりしている。それは裁判にもなって、有名にもなってしまった。そこだけを見れば、いわゆる結婚詐欺ともとれる内容である。ゴッホも自画像をかなり残しているが、レンブラントも相当残している。共に人生の厳しさを見事に表現しているが、レンブラントの最後の自画像は、見る者の目を固着させてしまう。あんな表情は、どうやったって出来るものではない。人間の内面にたくわえられた表情が、じわじわと滲み出ているのだ。良いことも、悪いことも含めて。そうだった。レンブラントは、人間の内面を表現する画家だったのだ。現在では”レンブラント・ライト”というほど、彼の使った光のマジックは有名だ。そのことを考えると、フェルメールも同じで、あの窓から入り込む光の具合を見事にとらえていた。

オランダの空と、寒さと、日の当たり具合は微妙で、直接の光はほとんど望めない。霧か霞がかかったような冬の1日は、朝9時頃にやっと明けて、もう4時を待たずに薄暗くなってくる。本当に、4日間の滞在で太陽光が射しこんだのは、30分もなかった。暗いか、明るくなってもボーっとした1日。我々日本人にとって、とても考えられるものではない。

アムステルダムに17年程住んでいる日本人の女性ガイド(Aさん)がこう言ったのはとても納得ができた。

「こちらの方は、仕事をしている中に休憩時間が何回もあって、のんびりしているんです。時間にもあまり頓着しないので、待ち合わせをしても、ピッタリとか早目に来ることはあまりないです。お店に行って会計をして、間違っていても向うから謝るということは少ないです。レシートを渡したんだから、チェックするのは客の方だ。だから間違っていたらその場で言うのが当然、と考えるのです。だからレジに並ぶと、客の方が一生懸命にレシートをチェックするのです。」

もう一人の男性ガイドBさんは、2年前に日本から家族5人(ご夫婦と女の子3人)で移住されたのだが、

「私は英語もオランダ語も話せないんです。でも思い切って、2年前に家族5人でこちらにやって来ました。なぜかって?どこでも良かったんですけど、でもオランダに決めたんです。女の子3人いるでしょう?あ、また1人増えますからね。子供の教育費を考えますよ。こっちは教育費ってものがないんです。」(奥さんは英語が話せるとも言っていた。)

17年住んでいるという女性ガイドAさん

「こっちは住みやすいんです。何しろ医療費が無料なんです。でもこっちの政府もしっかりしていて、何年間か住んでいて、オランダに貢献しないと、国外に出されちゃうって人もいます。国が色んなことをやってくれていいですけど、税金が52%とられるんです。こちらの王室は素晴らしいですヨ。ご夫婦揃って我々民間の人々と積極的に交流します。皆大好きなんです。こちらでは学校に試験ってものがないんです。宿題もない。で、子供たちに結果を求めるのではなくて、なにごとにつけても、どうしてそうするのかを訊く。それが教育の中心部を占めているようです。大学に行く、行かないなどどうでもよくて、好きな人は行けばいいし・・・・」

女性ガイドAさんと男性ガイドBさん共通の話

「日本で英語話せる人って、どのくらいいます?義務教育で。オランダで去年発表されたんですけど、この国、世界第2位で国民全員が話せます。それも、ネイティブにも負けないんです。ただ、通常は自分の国の言葉、つまりオランダ語ですけど。こちらでエクスキューズミーと言うと、すぐに英語に切り替えます。日本にいる時、『数学』なんて意味ないと思っていたんですが、こちらでは自分たちと思いは同じらしく、そんなもの必要なしというのです。とにかくこちらでは、日本で考えたことのないような発想をします。ところで、アムステルダムって所、つまり、アムステル川に沿ったダムという意味なんですよ。道路すれすれのところに運河が走っているでしょ?日本じゃ考えられないですよ。どこ行ったって、転落防止の柵なんて一つもないでしょ?ちょっと踏み外すと水の中ですよ。」

アムステルダム中央駅というのがとてつもなく巨大で美しい。日本の東京駅が、これを似せたと言うが、その規模は大人と小人の違いである。この周りは海だったのを、後年になって駅後方部の埋め立てをしたという。この中央駅を中心に後ろ側は海(つまり北海)。前面に5本の運河が走っていて、それが中央駅を取り囲むように走っている。なので、水の都と言うのだろう。この水路は、物の運搬のために必要なものだそうだ。

「運河に子供が落ちるでしょ?そしたら日本じゃ大騒ぎですよ。でもこの国じゃそれを見込んでましてね。学校の方針として、洋服を着て泳ぐ練習をするのです。風車って、何であるか知ってますか?あれは、治水の為のものなんです。オランダは水の高さと、街の高さがほぼ同じなので、溜まった、あるいは増えた水を掻き出すためのものなのです。そもそもネーデルランド(オランダ)って名前は、こっちの言葉で“低い土地”って意味です。あ、それから、こんなことがありました。最近、世界中に白くて大きな、4枚くらい羽の付いた風車みたいなのがあるでしょ?オランダは、あれが異常に多くあるんです。この間、日本のおエライさんが来て、何かの学会みたいなところで、その話のディスカッションっていうんですか?折角知り合ったんだから、一緒に出席してみないかって言うから出たんです。話はわかりませんでしたけどね。車に乗ってから訊いてみたんです。そしたら、こちらの質問に対して、まともに答えないって言うんです。それで再度訊いてみたら、こういう質問をしたというのです。」

日本側の質問

「あんなに大きいプロペラみたいなものをぎっしりと横に並べて設置して、危険はないのか。倒れたら誰が責任を取るのだ。」

おおまか、こんな感じだったそうです。

オランダ側の言い分

「どうしてそういう質問をするのだ。倒れてもいない物に危険があるというのがまずおかしい。我々は、倒れないように設計をして、設置をしている。」

と、険もほろろに答えたのだそうです。

男性ガイド(Bさん)

それを聴きましてね、なるほどって考えちゃいましたよ。そりゃぁ私も日本人ですから、日本側の気持ちもわかりますけど、オランダ側のように、倒れたら考えるって答えも面白かったですね。これにも、一理も二理もあると思いました。

つまり、積極的に考えるか否かなのだが、そこにオランダという小国が、世界一の海洋国になった理由があるように思えたのだった。これは、レンブラントもフェルメールにも関係のあることとも言える。世界一の海洋国だったということは、国が豊かになるということと同義語とするなら、このことがあって初めて、宗教画から市民社会中心の画家が誕生した理由であると考えることは出来ないものだろうか。

いつもの癖でこんなことを考えていたら、「風車」と「水車」が重なってイメージされてきた。私はオランダの風車を、治水の為のものだと言った。が、その反動で、日本の田舎にあった水車が出てきたのかもしれない。新ためて、小川のほとりにある水車がコトコトと音を立てる様を思い出してみると、これが治水のものであるはずがなく、何かをつく動力にしていることに気付いた。更に、シューベルトの三大歌曲集の中に、「美しき水車屋の娘」があり、青年が恋する娘は、確か粉を挽く水車小屋にいたはずだ。やはりヨーロッパでも、小川のほとりで動力として使われていたのだった。チューリップはオランダのイメージであり、風車もそうだ。それはのどかな風景であって、我々の心を和ませてくれていた。しかし現実のオランダは、暗い雲に覆われた灰色の空なのだ。女性ガイドAさんはこうも言った。チューリップって、オランダのものではないのです。それにジャガイモ、こっちのは美味しいですけど。これもアメリカって言いましたかねぇ。輸入品だそうです。それまでのオランダ人、にんじんが主食ってきいてます。流石の私も、にんじんが主食であったことに同意しかねるが、ニシンの酢漬けは、オランダの名物であり、好んで食することは知っている。豆のスープ(エルタン・スープ)等、豆も有名でアムステルダムに到着してすぐに食する機会をもった。

女性ガイドAさんはこうも言う。

「こちらの人は、食べ物あまり興味がないみたいで、お腹が満腹になることが大切なのです。」どこに行っても、煮込んだ料理とイモ、あるいはフライドポテトが大きな皿にうず高く盛り上げてある。誰でもあの量を食べるのかという質問に、あっさりとこう言った。

「あれだけの大きな体ですからねぇ。女性でも170cm以上はあるし、男性は190~200cmはあるでしょう。でも、街の中心部に行くと、大勢人々がいますが、それほど大きい人はあまり見かけないんじゃありません?ということは、ダム広場(アムステルダム中央駅の目の前の広場)辺りにも、多くのオランダ人がいるのでしょうが、殆どが観光客です。17年もこちらに住んでいると、一目でオランダ人を見極めることが出来ます。彼らの髪の毛は、あんなに黒くなくって、栗色をしているのです(栗色と言ったのかどうかははっきりしないが)。オランダ政府の目論見が見事に当たり過ぎて、外国からどんどん人々が入ってくる、これに市民はいくらか困っているのです。アムステルダムという街は、この数年で劇的変化をしています。街の中には、自動車、バス等の出入りを禁止するよう呼びかけています。いえ、政府の方針ではなくて、市民がそう訴えているのです。市街は、トラム、自転車のみにしようと。ですから、市民が政府を指導しているようなものです。」

確かに、アムステルダムは自転車が多い。自転車専用道路も立派で、車道の隣に自転車専用道路、そしてその隣に人の専用歩道がある。公害の少ない落ち着いた街を求める住人にとって、外国人の増加による落ち着きのない街は、迷惑千万なのだ。といっても、オランダ人はとても親切だという。東洋人などがちょっと困って道をさがしていると、すぐに何人も寄ってきて、世話をしてくれるのだそうだ。ただ、その奥には、自分の世界には立ち入らせないという気質もしっかりと持っている、とも言っていた。

何の知識もない私にとって、オランダという国は、どうでもよい国であったことは事実で、音楽を聴き始めても、レコードやCDに記されている“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”という名称は目にしていたものの、それ程の興味もなく、絵画に反応しだしたのも比較的最近だから、レンブラントやフェルメールもこんなものか、と見ていたのが正直なところだった。学生の時から好きだったのは、“ドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)”で、これにはまっていたから、何とか本場で(つまりドレスデン国立歌劇場で)聴けないものかと思っていたところ、一生行けないと考えていた“バイロイト音楽祭”に行けてしまったことから火が点いたのだった。驚くことに、数年の間に2回もドレスデン国立歌劇場に行って、充分その音楽を堪能して落ち着いてみると、“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”のことが、気になり始めたのだった。その気になって聴いてみると、地味ながら、どこかドレスデンの音楽から得る感覚を覚えるようになったことを、白状しなければならない。ドレスデンの音と、コンセルトヘボゥの音が、全く違うのは当たり前だが、確かに共通点もある。「上品な音と、音楽づくり」、この、言葉にするのが極めて難しい感覚は、“いぶし銀の音”という、わかったような、わからないような表現でなされる事が多い。音楽好き達も、これに似たり寄ったりの表現をするのだが、お互い通じ合うのである。元来オランダに行くという選択肢は全くなかったから、知識もない事は話した通りである。だからガイドさんの話を素直に聴いてきたのである。しかしその中には、「本当?」というものもあった。そこで、「物語 オランダの歴史」(桜田美津夫著中公新書)と、私は子供の頃から、長崎の出島にオランダ船が来たことに、異常に興味があったから、「東インド会社」(浅田實著 講談社現代新書)を読んでみたのである。確かに、風車についての説明の一部は正しいのだが、重要な事が抜けていたのである。「物語 オランダの歴史」(P.57)を読んでみると、

―元々風車は、干拓地の排水と穀物の製粉に使われてきた。ところが16世紀末頃、アムステルダム北方のザーン地方、つまり現在のザーンダム周辺に新しい工業用風車が出現する。輸入木材を製材する風車と、近郊の埋め立て地で栽培された菜種や亜麻仁から油を搾る為の風車である。―彼は風車の回転運動をクランクによって往復運動に変えることに成功し、製材の効率を30倍以上出高めたのである。―この製材業と結びついて、ザーン地方では造船業が急成長を遂げ、それにともなって、帆布、ロープ、タール、船用乾パンなどの製造業も盛んとなった。―

なんと、風車が製材業を活発にし、造船が急成長を遂げたのである。船舶が漁業に用いられるようになると、ニシン漁、捕鯨が活発になって、これを輸出品として運ぶ海運事業が興った。漁に出て操舵術に習熟し、沿岸貿易も行われるようになる。当時、ニシンは大切な輸出品であるから、一般の人々は内陸水路で獲れる、コイ、スズキ、ウナギを食していたという。オランダの黄金時代は17世紀である。オランダは「低地諸州の反乱」(スペインとの)で、ヨーロッパ各国で行われた、王権と身分制議会との主導権争いの勝者になった、珍しい国だった。議会主権国家は、王権の束縛から解放され、自由な経済活動によって他に例をみない繁栄を築いたのである。多数の商人は、自らの国が小さいことを充分自覚していた。独立した小国の発展は彼らの中心的テーマで、周囲の国々との競争にいかに勝利するか。結論は目の前にぶら下がっていた。海外貿易の技術も、船の操船技術も、日々の事柄で優秀である。しかし先陣を切ったのは、ポルトガルとスペインだった。それに刺激されて、イングランドも海外貿易に乗り出していく。1580年のスペインによるポルトガル併合は、オランダに決断を迫った。つまり、ポルトガルを通してアジア物産を入手していたオランダの前に、スペインが立ちはだかった形になったのだ。このような理由で、オランダは東インドを目指すようになる。1600年末にイギリス東インド会社、1602年3月にオランダ東インド会社が設立されるが、なんとイングランドの会社の規模に対して、オランダは10倍の大きさをもっていた。共に彼らの目的は、スパイス、特に胡椒(ペッパー)で、これがインドネシアで採れることから、目的地が東インドと言われていたのだ。当時のヨーロッパでは、香料が不足していて、産地の限られている物産は当然ながら高価な取引が出来た。そのことを抜きにしては、オランダ船が長崎の出島に来航した意味が分からない。相当な危険を承知の上で、ヨーロッパとインドを往復していた人々は、更にゴア(インド)から中国、と、日本への旅に興味を持つようになる。「東方案内記」の著者で、旅行家のリンスホーテンは、故国への手紙でこう記している。

「僕は、中国と日本へ行きたいです。そこはゴアからリスボンまでと同じくらい遠い国々です。往復3年の航路です。(中略)親友は、砲手としてそこへ向かいました。(中略)その砲手は以前にもそこへ行ったことがあり、これらの国々の素晴らしい話を沢山聴かせてくれました。」『日蘭交流400年の歴史と展望』より

それが1568年のことであるから、1600年に九州に辿り着いた、リーフデ号のイングランド人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)は、最初の来日外国人でない事になる。このアダムズを徳川家康が優遇したことは有名である。

最初の来日外国人、ヘリッツソーンは、2度目の来日の際、1585年夏から、約8ヶ月間長崎に滞在し、1590年4月にオランダに帰り着いている。

ところで、蘭学というと、私たちは医学と同義語として捉えるが、実のところ、西洋の学術、文化、技術、そのほか西洋についての知識一切を含めたものである。かつて、医術はポルトガル人から南蛮流術として伝わったが、今度はオランダ人から学ぶようになっていて、1649年に来日した医師、シャンベルゲルもオランダ人という触れ込みであったが、実はドイツ人である。その他医師として来日した人々は、現代風にみれば、ベルギー人、スウェーデン人であるが、オランダ語を使っていたのでオランダ人とされている。蘭学のもう1つの大きな柱は、砲術であった。1639年には平戸で鋳造した大砲を、江戸幕府に献上している。いずれにしても、蘭学から西洋の最新の学術、文化、技術を吸収していたことは事実で、出島が現代の野球場の広さであっても、それが幕府とほとんど直結していることを考えると、その後の日本にとっては、大きな意味をもったことになる。

どういうわけか、子供の頃から気になっていた長崎出島であったから、長崎旅行で見た出島の小ささに驚き、また、西洋のオランダという国からこんな所までやってきたのに、隔離されるような状態におかれたオランダ人にも、申し訳ないように思って過ごしてきた半世紀後、何と、その船が出港した港と、小さな帆船の復元船に乗ることができて、何とも言えぬ感情に浸ったのは致し方ないだろう。

国立オランダ海洋博物館に、その復元船はあって、それも東インド会社の所有していた物の精密な複製だった。この博物館は、1657年に海運補給庁として建築されたものを、改築して使われている。ここで繰り返しを許して頂こう。アムステルダム中央駅というのは、世界的に有名な建築で、その豪華さ、大きさは、周囲を圧倒する。姉妹駅の東京駅と比べると、子供と大人の差がある。この駅は意外や、海の上に建っている。1886年建築の駅は、西方に向かって正面になっていて、アムステルダムの街は扇の形をしている。つまり、要の部分が中央駅で、5つの運河が走る街は、裾野を広げているように見える。その裾野の一番広がったところに、コンセルトヘボゥ、アムステルダム国立美術館、ファン・ゴッホ美術館のある、ミュージアム広場がある。

この街を見ると、その歴史を感じざるを得ないが、中央駅の裏側に回るとすぐ海で、アムステルダム港だ。私はこんなアンバランスな景色を見たことがない。北海の寒々しい水の色は、覗き込みたくなる気持ちをさえぎってしまう。この港の比較的近距離に、国立オランダ海洋博物館があるから、この場所から東洋に向かう帆船が出港していたことになる。その帆船は大きくはないが、風車によって製材された、ガッチリとした木材でできていた。しかし、3、4艘がまとまって航海に出るが、全員が帰港できない状況の中、ほぼ定期的に出港し、数年を要する危険な航海の事を考えると、400年の時間はその距離を一気に縮めてしまった。直行便なら、東京?アムステルダム片道11時間前後である。