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幽玄と古稀の旅行記 – 後場①

4月27日(土)から5月6日(月)は10連休ということで、世の中は落ち着かない。おそらく過ぎてしまえば、皆、何もなかった様に日常に戻るはずだ。今までだって、7,8連休はあったし、それなりに対応してきているのに、と思ってしまう。ただ、こういう考え方が良いとも言えないことは、ここのところの経験によってわかってきた。

4月27日からの我らの旅行は、ロンドンとパリで、昔よく言われた“ロン・パリ”だ。何十年も前、“ロン・パリ・ローマ”というツアーが流行っていて、特に若い女性に人気があった。つまり、1週間ほどで、イギリス、フランス、イタリアを周遊するというわけだ。それも、ヨーロッパを代表する大都市を3つも周るのだから、今風に言えばコスト・パフォーマンスが良い。そんなことを思い出したのは、ロンドンとパリに行くことになったからだ。私は日本史ファンであるが、世界史となると全くダメで、加えて地理すらよくわからない。恥を忍んで言えば、ドイツ音楽好きであることを公言しているのに、ドイツがヨーロッパのどこにあるのか、あるいは、ウィーンにも随分行っているのに正確な位置を知らない。ただ救われるのは、音楽を好きになったおかげで、地名や街の名前はいやに知っているのである。例えば、私の好きなオーケストラの1つである「バンベルク交響楽団」について言えば、バンベルクという人口10万人に満たない小さな街にオーケストラがあることに興味があり、調べてみたことがある。この位の人口の街に世界的オーケストラがあること自体がまず不思議で、それにも興味を持っていたから、このオーケストラが来日にした時にパンフレットを買ってみたのである。このオーケストラの名前は、日本では大抵の音楽ファンは知っている。それは来日する回数がやたらに多いからだ。恐らく数年に1度は来日している。パンフレットを読んで驚いたのは、このオーケストラの来日公演の演奏回数が、ゆうに100回を超えている事である。通常では来日公演の数は来日して5,6回、地方の公演を含めても10回位だから、100回以上の公演をしたというのは想像を絶することなのだ。ドイツが何処にあるのかも定かでない人間が、本場のホールでこのオーケストラを聞こうというのだから尋常ではないが、この街、とても不便なところにあることだけはわかった。東京から飛行機でなら、まずミュンヘンでルフトハンザ航空の国内線に乗り換えて、ニュルンベルクへ。そこから鉄道を使うのだが、これの本数が多くない。地図で見るとニュルンベルクから北東に行けばバイロイト(これも小さな街)、北西に行けばバンベルクで、同じくらいの距離がある。ニュルンベルク空港からバイロイトまで車で1時間半ほどだから、バンベルクまでも同じくらいだろう。視点を変えてみよう。バンベルク交響楽団の人々が日本に来るためには、バンベルクから車でニュルンベルク空港まで行って、国内線でミュンヘンに行き、そこでルフトハンザの国際線に乗り換えて東京まで来ることになる。ただ、現在のニュルンベルクは小さな街だから、ニュルンベルク―ミュンヘン間の便数も少ない。現に私たちがバイロイトに行った時も、ニュルンベルク行きの便に乗るのにミュンヘン空港で2時間以上の待ち時間があった。バンベルク―東京はこれほど不便ではあるが、ドイツの人々から見ると、美しい自慢の古都である。その街自体が世界遺産になっている。いくら美しい世界遺産の国でも、一流のオーケストラであるバンベルク交響楽団を維持することが出来ずに、海外の演奏旅行に出るようになったという。それでも彼らはオーケストラを維持することに一生懸命なのだ。ちなみに10万人弱の市民は、その半数ほどがこの交響楽団の定期会員であるともパンフレットには書かれている。そんなことが発火点になってヨーロッパの地図が徐々に理解できるようになってみると、世界の問題がそれなりに理解できるようになってきた。

ロン・パリ・ローマと一言で言うのは易しいが、私にとってはローマ(イタリア)が殊の外、抵抗のある所なのである。イタリアに行ってみたいとは思うものの、どうにも実現出来ない所でもある。私は前場のモーツァルトの時代のことに僅かに触れている。

「当時のオーストリアの立場は、オスマン・トルコに近くまで迫られて、持ち堪える国民がいる一方、トルコに対する自虐的なブラック・ジョークも流行っていた時代だった」

と書いたまではよかったものの、それは何かで読んだのか、人伝に聞いたものか不安だったのである。大体オスマン・トルコというものがよく分からないのである。モーツァルトの歌劇によく出てくる悪者は、どうもこのオスマン・トルコ人らしいが、それすらもわからない。そこで関連書物を読んでみると、モーツァルトが生きた時代のヨーロッパのことも多少なりとも理解出来てきた。

  • 『オスマン帝国500年の平和』(林 佳世子著 講談社・学術文庫)
  • 『オスマン帝国』(小笠原 弘幸著 中公新書)

モーツァルトは1756年にザルツブルグに生まれて、1791年にウィーンで35歳で亡くなっている。この時代のヨーロッパはどんな時代かといえば、23歳の時にハプスブルグ家の女帝、マリア・テレージアが没して、33歳の時にフランス革命が起きて、パリのバスティーユの襲撃が起きている。ちなみにベートーヴェンは1770年、モーツァルト14歳の時に生まれている。2人の年齢差は14歳である。この位のおおざっぱな知識は誰でも持っているが、当時、オーストリアのウィーンという街が、オスマン・トルコの脅威に対してどう捉えていたかは、ただ漠然としてはいるが我々は知っている。しかし、そのオスマン・トルコがいつ、どこで生まれ、更に東ローマ帝国(ビサンチン帝国)に最後つうちょうを与えて解体させたのかはあまり知られていない。オーストリアのハプスブルグ家は、約600年間ヨーロッパを席巻した。西暦1300年の中頃に生まれた、オスマン帝国も600年もの間、地中海地方を支配し、19世紀になるまで生きながらえ、第一次世界大戦で完全に消滅した。あるいは、オスマン帝国の念願だったコンスタンティノープルの陥落は、どのように成し遂げられたか。(これによって、東ローマ帝国の終焉、つまり、あのローマ帝国が地球上から完全に消えた)強大な西ローマ帝国が400年代の中頃になくなって、その後、東ローマ帝国がどうやって1000年も生きながらえたのか、不思議でならなかったのである。そのオスマン・トルコが、モーツァルトの住んでいたウィーンの目前まで迫り、モーツァルト本人もそれを意識したから、ピアノ・ソナタ(トルコ行進曲付き)や、バイオリン協奏曲『トルコ風』を書いたのである。モーツァルトが活躍したのは1780~1790年頃だから、オスマン帝国も徐々に衰えてきた時期だった。1453年にオスマン帝国はコンスタンティノープルを陥落させた。若いスルタンのマホメッド2世によってである。キリスト教世界と、イスラム世界の覇権争いの結果だった。この時期から100年ほどが最盛期で、1770年~1830年にオスマン体制の終焉を迎えることになる。その後もいくつかの偶然が重なりあって、王家は存続するが、その混乱の中で西洋型の近代国家に生まれ変わったことが、19世紀まで生きながらえた理由だ。繰り返すが、体勢の終焉は1770年~1830年にやってきたのだから、我らのモーツァルトもベートーヴェンもその活動時期に重なる。はっきり言えば、2人の大作曲家の時代には、オスマン帝国は「死に体」だったのである。特にモーツァルトにしてみれば、恐れられていたオスマン帝国も風前の灯だから、少しぐらいおちょくってもどうもなかった、と言える。ちなみに、オスマン・トルコという国の定義は難しい。そもそもオスマン・トルコという呼び方に違和感があるのだそうだ。そして「オスマン帝国はバルカンの大国として出発した国であり、アナトリア(現トルコ)の多くはその後に征服された場所だった。アナトリアを故地とするトルコ系の人々が、アナトリアを拠点にオスマン帝国をつくった、とは言い切れない」―(『オスマン帝国500年の平和』若林 佳世子)

更に「このように、オスマン帝国は現在のトルコに限定して捉えられるべきではない。オスマン帝国下では、トルコ系の人々の大半が、バルカンやアラブの人々同様被支配民だった。―「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としか言いようがない。」

という、何やら分かり辛い説明なのだが、そう理解すると、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のコンスタンティノープルとオスマン帝国(アジア側)間の行き来は古来頻繁にあったことになる。コンスタンティノープルという、ヨーロッパとアジアが接する金角湾を通って黒海に向かう、ジェノバとヴェネツィアの大型商業船がイタリアに利益を与え、又、それによってそれなりの見返りを期待したオスマン側の存在もあった。しかし、オスマン帝国が念願のコンスタンティノープルの陥落を決意してから、キリスト教世界とイスラム世界との激しい覇権闘争になった事は知られている。つまり私にとって、ジェノバとかミラノとかヴェネツィアといった都市は、世界の歴史を大きく変えたところという認識が強い。どうもそれが小骨のように意識に突き刺さっているから、ロン・パリ・ローマというわけにはいかないのかもしれない。

ロンドンの話に戻すのに時間がかかり過ぎた。

コッツウォルズ

コッツウォルズとは「羊の丘」という意味だそうである。ロンドンから西に約170kmの所にある。この羊の丘には沢山の村がある。一概に“村”といってもそれぞれで、本当に小さな素朴な村もあれば、かなり開けた村もあり、観光バス用の広い駐車場を持ち、観光客目当てと思われるレストランが多くある所もあって、日本で見るコッツウォルズ熱で作られた雑誌とは違う。基本的には、1日観光バスの行動が中心で、昼食時に停車するのはレストランがいっぱいある村であるし、コッツウォルズの入口にはバイブリーという写真でよく見る小さな村が存在している。私の感想で言うなら、うまい具合に配置された(あるいはそのように運行された)その一帯は、上手な時間の配置のもとに作られたコース料理の様でもある。最後に着いた村は、チッピング・カムデンという村だった。この村は確かに見ごたえがあり、また、その蜂蜜色の建物も色とりどりであり、旅人の心を最高点に押し上げてくれるほど美しい。ロンドンから日帰りのバス・ツアーは、この村で40分の停車の後、直ぐにロンドンに取って返す。我々は何といってもコッツウォルズに行くことが目的だから、ここに一泊した。ちょうど村の中心部には、古くて、素朴で、小さな建物がある。何ともつまらない、四方に扉のない吹きさらしのこの建築物は、ただただ存在している。それもそのはずで、この小さな建物が“市場”なのである。羊毛とか毛皮が取引される重要なところで、昔も今もその目的に使用されている。このチッピング・カムデンだけが、コッツウォルズの中で飛び抜けて歴史を感じさせて、村というよりは小さな町を思うのは、どことなく、農業よりも商業の方に趣があるからかもしれない。日帰りバスで40分程の時間を与えられても、“村”の半分しか周れず、細長い村の中心部に停車される為に、どちらかの方角に行くしかない。しかし、この村の端と端に見どころがある。片方は教会であり、片方は藁葺屋根の豪邸が多くあり、庭がとても美しく管理されているところだ。正に“イギリス”がここにある。この藁葺屋根の邸宅も、コッツウォルズの写真によく出てくるものだった。つまり日帰りで来た人々には、教会か藁葺屋根の豪邸の選択が求められることになる。私達4人全員は、この「チッピング・カムデン」に魅了された。1人や2人ではなく、4人全員がである。淡い蜂蜜色や、濃い色のもの、あるいはその両方が混ざり合った色調の石は、この地方特有のものらしい。この落ち着いた村には、また高級車が良く似合う。駐車禁止ではないようで、道路のいたるところに判で押したような角度で車が並んでいる。同じベンツやポルシエでも、日本で見るより遥かに景色になっている。茅葺屋根の豪邸がこの村に多いのは、羊毛の取り引きから得る利益が関係あるそうだ。1泊した後、すっかりチッピング・カムデンが気に入って、あの「ストラットフォード・アポン・エイボン」に向かう。シェイクスピアの生誕の地であり、彼の生家と彼の遺骨の埋まっている教会も現存している。この地は、4人で旅行に出るきっかけになった所である。チッピング・カムデンから車で向かうこと約30分。羊の丘には沢山の羊がいる。車が停車したのは、いやに通俗的な街だった。4人の目は固定されて、しばし無言。運転手は、ここで降りろと言っているらしい。と言われても、4人は無言のまま。暫くして、すごすごと4人は動き出した。前方を見ながら指を指しているのは、この道をまっすぐ行ったところにシェイクスピアの生誕の家があるという意味らしい。ふてくされて4人は直進するも、人間の多さと混雑ぶりは並大抵ではない。混雑ぶりというのは、人間が多くいるという意味ではない。喧騒という意味と、その愚劣な状況を言っているのだ。確かに、進行方向左手に、写真で何度も見慣れたシェイクスピアの家はあった。それは周囲の店やらティールームやらレストランやら土産物屋等に挟まれた異様な空間だった。ぽつんと存在しているシェイクスピア生誕の家は、仕方なくそこに建っているようにも見える。シェイクスピアの家は午前中だというのに、人でごった返している。そこは手慣れた工員によって処理される工場の様だ。コンベアに乗せられた見物人はまとめてゴミ袋に入れられ、出口に向かう。その先には、言うまでもないが土産物屋があって、そこを通らなければ出口にさえ行かれない。眩暈と、息苦しさから逃れようと先に進もうにも、自分の意志が通用しない。やっとの思いで脱出すると、出口付近でいざこざが始まったようで、警察官が出動してきた。ストラットフォード・アポン・エイボン(エイボン川の側のストラットフォード)だから、エイボン川の岸辺の教会に埋葬されているシェイクスピアに出会いたいと思う気持ちは、一気に消失した。川岸に近付くにつれて、想像していた田舎の川などどこにもなく、近代的に造成された“川”が広い幅をもって流れている。観光船はその出番を待っていて、その向こうには観覧車が見えたようだった。アポンエイボンの街は、近代化が進んでいて、駅前はビル建築が進んでいる。我々は同じ気持ちになって、その場から逃げる決意をした。念願のストラットフォード・アポン・エイボンに滞在したのは1時間もなく、一目散にロンドン行きの電車に乗り込んで、全員ホッとしたのである。ストラットフォード・アポン・エイボンは、シェイクスピアの故郷で、生誕の家があり、彼もこの地に眠っていることは事実である。かたや、あのザルツブルグという小さな田舎町も現代に甦って、モーツァルト生誕の地として、ザルツブルグ音楽祭という世界的音楽祭をつくった。これも事実である。音楽祭では盛大に盛り上がるが、年間を通してひっそりとしたモーツァルトの“聖地ザルツブルグ”に比べると、ストラットフォードの方は、恐らく年間を通して観光客を呼びこみ、その人数は市役所の壁に貼られたグラフに記入され、毎年その増加を良しとする企業の様子を想像してしまう。それはそれで間違ってはいないだろうが、純真な観光客を裏切るような宣伝を、いや、観光雑誌や“いかにも田舎”を装って口伝することが、はたしてウィリアム・シェイクスピアを喜ばせているかを考えてみる必要はある。と、書きながら思い出したのは、シェイクスピアという人が意外にも商売人であり、他人に金銭を貸していた証書などが残っているのを知ると、単純な見方は控えた方が良いという思いもあらわれた。彼の人生を見ると、おおよそ“聖人”などとは異なる人物の様に見える。それは非難の意味ではなくて、人間的な人間という意味だ。よく知られているように、シェイクスピアは18才の時に26才の女性と性的交渉をもった。相手は妊娠して、慌てて結婚をする。現在では“できちゃった婚”等と言うが400年も前のことだ。数年後にはロンドンに出て、俳優を志す。劇作家の才能も見せて、戯曲も書いた。それが世界的に後世に残ったのである。最近の研究から(シェイクスピア・オフィシャル・ガイドブック)、33才の時にニュー・プレイスという建物を、おおよそ120ポンドでウィリアム・アンダーヒルから買い取ったことがわかってきた。この建物は、ストラットフォードでも1、2を争う豪邸であった。ストラットフォードとロンドンの二重生活であったが、この区間が当時から開けていて、3日程で行き来が出来たという。彼の亡くなる3年程前に、ロンドンでの生活をやめて、シェイクスピアはストラットフォードに戻る。引退後のシェイクスピアは、ストラットフォード市に何件もの投資を行い、その他にも、個人に対する証書も現存している。つまり、投資にかなりの才能を発揮したことになる。現代の我々は、芸術家=清貧の人というイメージを持ちやすいが、もし彼らが清貧の人であるなら、“芸術”という分野は存在しない可能性がある。むしろ、人間の本質を見抜く力があってこそ、成り立つ世界であると言ってもいい。そんなことを考えてみると、あながちストラットフォードの街の発展は、シェイクスピアの生き方とさほど違和感を持たなくて済む。とは言っても、チッピング・カムデンとストラットフォード・アポン・エイボンの感触は異なっているのは致し方ない。

ロンドン行きに飛び乗った我ら4人、誰の顔にも安心感が漂っている。日本を出発する半年も前から、ストラットフォード・アポン・エイボンに憧れて、その為に色々な努力をしてきたのである。何しろ10連休を利用しての旅だから、そう易々とはいかない。4人分の旅行枠を取る事が大変で、すったもんだした挙句の出発だった。それにしてもこの4人組は、大きな感性になると素早く同じ方向に反応し、その判断も同じで、そこには違和感というものがない。車中では何事もなかった様に、遅くなった昼食の話になっていた。終点の駅で降りてから何を食べるかについてだ。シェイクスピアの時代には3日の行程だったものが、2時間足らずで移動できるのは、ストラットフォード・アポン・エイボンがそれなりの街になっていたからかもしれない。コッツウォルズの中でももっとも有名なバイブリーという村からだと、駅に出るだけでも小旅行の様子をていするのである。

ロンドン

コッツウォルズから帰った日の夜、コベントガーデンのロイタル・オペラ・ハウスでの公演は、新作バレエ『フランケンシュタイン』だった。この日を1日ずらすと、バレエ『ロミオとジュリエット』が観られることは記した通りである。ロイヤル・バレエにはこのところ、3年連続で来ているので、嫌味なくらい我ら2人はどっしりと落ち着いている。やはり苦労はするもので、色々と恥をかいてきた歴史は、何よりも重いのである。T夫婦は初めてなので、どこか初々しくて可愛いなぁと思い、微笑んで着席した。今日はオーケストラ・ピットから5番目ほどなので、まぁまぁの席ダナーなどなどと、心の中で思う余裕すらある。しかしこういう気の緩みが得てして、悲劇を誘うのである。例えばいやに体のデカイヤツとか、変に首の長いヤツ、またあるいは座席から乗り出すババアとか、前の人の頭が邪魔になるのかいつも左右に首を動かしているヤツ、あるいは胴が長く足が短いくせにその意識のないヤツ、など様々である。こんなヤツが自分の前に座られでもしたら、もう完全にアウトで、その公演は寝ているか、僅かな隙間をぬって鑑賞するほかない。私たちは比較的というより、わりとこういう輩に出会うのである。だからライブには行きたし、前の障害物は恐しで、ビクビクして行くことになる。ビー、と開演のブザーが鳴ると、舞台全体が見渡せていたのも束の間、ドスンと座ったのは、デブの女と男。これが先程挙げたことを全てやるのである。特に私の席は通路側だったので、前に座っているバカデカイ男は、右側に動けることをよしとして、左右に動くわ、デカイ頭で前方を遮るわ、座席の前に乗り出すわで、もうやりたい放題なのである。私が何よりも願ったのは、このヤローの首を斬りたいの1つであった。休憩に入ってロビーで会うと、T夫婦も同じことを言っていた。特に日本人からすると、ただでさえ大きいヨーロッパ人の中でも、さらにデカイヤツに出会ったが最後、もう諦めるしかない。殊に『ロミオとジュリエット』は舞台の中央で主役2人が踊るから、その場面は前のデカイアタマに遮られて、ズボッと黒い丸が出来て何も見えず、見えるのはその外部、つまり、端役のダンサーの踊りのみなのである。こんな苦しい修行の様な事をされても、首を斬ってはいけない法律があること自体間違っている。相手がこちらに不利益を与えるなら、こちらもそれに対抗する権利は存在するのだから。それでも、アタマノデカイ・クビナガ・デブ・ノリダス男は、第3幕になると疲れてきたようで、右側の方にぐっと体を曲げ、動かなくなったので、その隙間から中心部を見ることが出来たのだが、その時は墓場でロミオとジュリエットが死を迎える場面だから、結局楽しみにしていたプリンシパルのダンスは、ほとんど見ることが出来なかったのである。

その二重の非劇が始まる前、最近出来たロイヤル・オペラ・ハウスの新館で夕食をとることができた。このレストランは、ロイヤル・オペラの観客のみが利用できるものであるが、何しろ1700人程を収容するオペラ・ハウス専用のレストラン、バー、軽食コーナー等があって、開演1時間ほど前になると、満席状態になる。バーとか軽食コーナーはともかく、レストランは本格的で、味も良いし、作りたての料理を出す。この3階にあるレストランだけでも、30席以上はあるようで、PM7:30の開演に少しの遅れも許されない。コンサートはもとより、オペラでもバレエでも、開演のブザーが決定的で、その後の入場は禁止なのである。だからレストランのスタッフも責任重大である。日本の高級ホテルで、100人も集まる結婚式でも手一杯で、同じ料理なのに冷えていたり、硬かったりと、寂しい思いをすることがある。あれだけのワインを客の注文に合わせて出し、客の方も自分の好きなものをその場で注文するのだから、厨房の方はどんなシステムで動いているのか、考えてみてもわかるはずもない。

幽玄と古稀の旅行記 – 間狂言

ベートーヴェンが第6交響曲を『田園』と名付け、それが驚くことにハイリゲンシュタット近くの(すっかり区画整理の出来た)小川の風景だったり、小さな村での出来事の描写だったりという事実を知っても、どうも納得がいかない。“能”が幽霊の話を中心に成り立っている、と言われても同様だ。“能”は日本古来の芸術なのに、子供だましのようなことを言われてもと。しかしこれは本当の事で、“能”の中心を成しているのが、幽霊の話なのである。もう少し正確に言うと、“能”の中には大きく分けて“現在能”と“夢幻能”がある。そして大半の作品が、この“夢幻能”形式をとっているのである。では、この幽霊とは、一体どんなものなのか。少し難しく言うなら、主人公が超非現実的存在という事だ。つまり、シテ(主人公)が、神、男女の霊、鬼畜の霊、物の精なのである。前場(まえば)では、このシテが脇役(ワキ)が演じる名所を訪れた旅人や僧侶などに、その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てを持つ。“夢幻能”は、前後二場に分かれ、同一人物が前場は現実の人間の姿(化身)で、後場(のちば)は在りし日の姿や霊の姿で登場する。最後は、ワキの僧侶の祈りによって、祈り伏せられるというのが、よくあるパターンである。間狂言というのは、二場物の能で、前シテの退場後、後シテの登場までを繋ぐ狂言師の演技の事だ。

しかし、どうして私は突然、“能”のことを書き出したのだろう。それは、シェイクスピアのグローブ座に理由があった。450年程前のグローブ座は、4階建ての劇場で、1階平土間には椅子がなく、舞台をコの字型に取り囲む桟敷があった。ここには椅子席がある、ガッチリと造られた舞台の上には、しっかりとした天井があって、ステージに雨がかかることはない。しかし舞台と桟敷以外は剥き出し(天井がない)だから、風雨どころか寒暖の調節も出来ない。ステージは、1階客席の中に突き出して、大きく四角く、やや高い台が演技をする所である。こんな素朴な造りだから演出などという技は使えなく、シェイクスピアはいちいち場面を説明するように戯曲を作っている。片や能舞台の方は、屋根の付いた舞台だけが、見物の入るところに突き出している。ここもグローブ座と同じように、観客の為の椅子はない。その舞台は左側の橋掛かりと繋がっていて、役者はその橋を使って出たり入ったりする。舞台上には何もないのだから、役者の所作だけが頼りの舞台になる。となると、役者の一挙手一投足が全て能の内容に繋がってくることになる。腰から上をやや前方に傾けた姿は、それだけで能役者の重要な表現になり、足の動きによって制御されたその全身は、場に応じた美しさと直結することになる。一説には、能舞台の下には大きな壺が入れられていると言われる。それは、足を打ち付けることによる音響も大切だからだ。更なる深みは、ぐっと腰を落とした安定感で、これは重力によって地上に縛り付けられたような状態を生み出している。ゆっくりと動くか、ほとんど動かない体勢から、一瞬で立ち位置や姿勢を変える素早い動作は、こちらが息を飲むより素早い。しかし人間の体の構造からして、この何でもないように見える動きは危険でもある。

「能」は舞うだけでなく、謡(うたい)も重要である。能舞台の正面から見て右側には、舞台から張り出した部分に地謡が8人ほど並んで謡をする。能舞台正面には橋掛かりから伸びた後座(あとざ)があって、ここに、笛、小鼓、大鼓、太鼓の道具が並ぶ。足利義満の時代に、世阿弥によって“能”は発展した。

これに比べると、“バレエ”の歴史は浅い。とは言っても、300年とか400年の歴史はある。再三驚かせてばかりで申し訳ないのだが、バレエの元祖は、ルイ14世である。ルイ14世(太陽王)といえば、ベルサイユ宮殿で、正確に言えばルイ13世がこの宮殿の元になる離宮を1624年に造った。これをルイ14世が発展させたのが、今のベルサイユ宮殿だ。このルイ14世、ダンスにかけては「玄人はだし」であったらしい。彼の一声でダンサーが集められ、組織化された。元々バレエはイタリアが発祥の地であるが、大規模なグループの成立は、ルイ14世なくしてはなかった。当時は男性ばかりの集団で、女性の参加は認められなかったから、男だけの舞踏は現在のバレエからすると想像しづらい。1841年パリで初演されたアダンの『ジゼル』は、妖精・ウィリに魅せられた若者が、踊り狂って死ぬという伝説を元に王子・アルブレヒトと、村娘・ジゼルの悲恋を描いたロマンチック・バレエの代表作である。男性中心のバレエは、徐々に女性にも開放されていったが、下品にならないように、舞台上では足首が出ない長いスカートをつけていたという。『ジゼル』は、妖精・ウィリを中心とした妖精たちに憑り殺される王子の場面が後半の見どころで、この場で足首まで隠した長くて重いスカートで踊るダンサーは、妖精には程遠い。『ジゼル』に生命を与える為に考え出されたのが、足首が少し出る程の長さのスカートで、重量感のある生地ではイメージに程遠いから、白くて、そして薄く透けるようなものに変更された。これをロマンチック・チュチュという。現在我々がバレエのイメージとして持っているものは、短いチュチュとトゥシューズであるが、これはロマンチック・チュチュから更に発展したものであり、トゥシューズは本来「この世のものではないもの」とか、「妖精」用のシューズである。最近はこれを拡大解釈して、好んでダンサーが用いるのは、技術の向上によるものだろう。「バレエ」という言葉でイメージする、短いチュチュはクラッシック・チュチュという名前で、比較的最近のコスチュームなのである。かくいう私も、バレリーナ(ダンサー)と呼ばれる人々は皆トゥシューズを履いて踊るものだと思っていた。男性ダンサーでトゥシューズを履く人はいない。女性ダンサーでも、トゥシューズを履くのは限られた役の人達で、むしろトゥシューズを見ることはあまりないと言ってよい。「バレエ」と一括りに言うが、大きく分けると“古典バレエ”と“現代バレエ”に分類され、“現代バレエ”でトゥシューズの使用はほとんどない。そして、チュチュに代表されるように、重量を感じさせない為の工夫とか、軽やかなジャンプは「バレエ」の生命線だ。それに比べると、日本舞踊は重力の世界に属し、我が国最高峰の芸術の1つである「能」は更に重力界の出来事だ。摺り足は能の基本で、一歩進むたびに指先を揃えて上げ、その繰り返しによって動きに意味を持たせる。この僅かな動作によって、京都-江戸を瞬く間に移動することが出来る。上半身の動きは極力制限されるが、そのわずかな動きにこそ、深い意味が込められる。私は知らずうちに“能”と“バレエ”を比較しだしている。これは白洲正子の影響かもしれない。(白洲正子は少女時代から“能”を舞っていた名手であるが、ある時期“能”は男の世界のものだという理由で引退した。)そう見ると、この2つの芸術の間にある共通点があることに気付いた。一見すると全く異なった世界に見えるものが、意外と近しいこともあるのである。誰でも知っているように、能役者の立ち姿の美しさ、そこからの足の動き、更に上半身の動き、更には手の動きだけで、何もない舞台上に能役者の表現したい世界を現出させる。一方、「バレエ」の方は、跳び上がったり、何回転もしたりと、目まぐるしい動きで我々を圧倒する。

今から数年前、パリ・オペラ座の指導者がこんなことを言ったことを覚えている。大訳はこんな話だった。

「バレエは、フィギュアーではありません。何回転するかを競ってはなりません。」

大体こんなことだった。そしてある人は、こうも言っていた。

「表面的なことよりも、ダンサーが何を表現したいのかを、見なければならない。」

バレエ鑑賞歴の浅い私は、この言葉にいたく感じたのだった。意識を変えてみると、「バレエ」の素晴らしさは、静止状態の美しさであると同時に、静止画像の連続の美だ。そう思ってみると、姿勢が大切であることがわかる。それを中心にして、足や手の動きを見ると、その全てがなにかを表現する為のものであることもわかる。しなやかな腕と手が、どの位この芸術に必要なものか。能とバレエという、何のかかわりもないものが、私の中では合体してきたのだ。ただ違うのは、コスチュームの違いである。空中を飛ぶように作られたものと、どっしりと足を地に付けたコスチューム。これを能では「能装束(のうしょうぞく)」という。これは美しいというよりも、絢爛豪華と言った方が良い。その“美”は、それだけで芸術品だ。

どうやら私は、シェイクスピアのグローブ座から話を広げ過ぎたかもしれない。グローブ座の舞台には天井があって、桟敷以外は外。この外というのが、私に「能」を思い出させたのだった。更なる共通点は、張り出した四角い舞台だった。勿論これには幕というものがない。背景がないのも共通。舞台上に楽器を置いて、楽師たちによるライブの音楽。これも共通。ただ、シェイクスピアの時代の音楽というのが、あまり面白くない。というより、あまり必然性がない。なにしろ“オペラの元祖”と言われるモンテヴェルディの歌劇『オルフェオ』が1603年頃だから、シェイクスピアに責任があるわけではない。更に考えてみると、足利義満の時代の世阿弥の能には、必然的な音楽がつけられている。世阿弥の言葉に「先聞後見」という言葉があるが、これは「先ず聞いて、その後に見る」という意味である。その位、音楽との一体感を重視している。事実“シテ”だけでなく、楽器の演奏者、地謡によっても、相当能舞台の出来に差がつくことになる。

私にはこんな思い出がある。大学に入った頃、私の母は能をやっていた。彼女はド近眼だが気取っていたので、街を歩くのにも眼鏡をかけていない。だから、向うから歩いてくる人の顔が見えない。その為「ツンとして感じの悪い女」で通っていたのだが、能を始めてどうにも困っていた。面には目らしきものが開いているが、ただでさえその“目”から外は見えないらしい。見えるのは足元より数10センチ先のみ。勿論眼鏡をかけて面をつけるわけにはいかない。で、面をつけると、ド近眼の彼女はほとんど何も見えない。物事はよく出来たもので、能の基本は摺り足なのである。「大丈夫よ、能舞台って、床板の出っ張り具合で、どこにいるのかわかるのよ。」とのたまっていた。確かに、これには一理ある。というのは、シテ(主役)が面を付ける1つの意味は、自分と外界を分離して(僅かな繋がりは殆ど外部の見えない眼)、それによって、トランス状態を作り出すことだ。そんなことをしなくても、元々トランス状態で生活しているのだから、二重のトランス状態でさぞかし名演をしたかといえば、そんなことはない。ビデオを見ると、体がグラグラと左右に揺れていて、いつ舞台から落ちるか分からないという、恐ろしい光景が映し出されていた。母は能が好きで、よく謡っていてうるさかったが、私の方も例のごとくワーグナーの楽劇をボリュームを上げて聴いていたので、どっちもどっちであったが、ばあさんはいつも、「ワーグナーってうるさいねぇ。」とは言っていた。

「能」の基本にはなから反している私の母はさておき、この世界は、“楽器”と“舞”と“謡”で成り立っている。音楽の内容は、意外と多彩である。楽器は“囃子”といって、笛、小鼓、大鼓、太鼓だが、太鼓の使用は神や鬼、天女や妖精、または怨霊、あるいは戦いの場面で使われるから、通常は笛、小鼓、大鼓で行う。能が独特なのは、囃子方の出す掛け声で、「ヤ」「ヤァ」「ヤオー」「イヤーッ」「ヨーイ」など、そのタイミングや鋭さ等、能の緊張感を作り出す。そして右端の8人の地謡の低音は、いやがうえにも全体をひきしめる。

私には、この地謡の低音とその響きが、ワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』の合唱を思い出させるのである。それが、あれだけ嫌っていた能にはまる原点だった。間狂言は、夢幻能の前場(まえば)と後場(のちば)を繋ぐ狂言師の演技だった。そのことに話を戻すことになろうとは考えてもみなかったのだが、どうもここのところ幻の様に、モーツァルトの音楽が浮かんでは消え、或いは、彼のオペラの旋律が、断片的ではあるにしろ繰り返されるのである。それは単に“いい音楽”だからというのでもない。加えて、ウィーンの街を、はつらつとした若いベートーヴェンが飛び跳ねるように歩いている姿も見えるようになってきた。恐らくそれは、モーツァルトのことを調べて文章にし、彼の住んでいたマンションを訪ねたり、ベートーヴェンゆかりの劇場(アン・デア・ウィーン)でパパゲーノ門に触れたり、折角だからというのでモーツァルトの曲を沢山聴いている所為かもしれない。ただそれが、如何にも生々しく感じられるが、どことなく不気味なのである。これはひょっとして偶然にしても、多くの大作曲家の“墓”に参っていることに関係するのかもしれぬ。バッハ、ワーグナー、マーラー、ウェーバーなど、超有名人の墓地に迷い込んだことによるのだ、と自分に言い聞かせてみると、やっと落ち着きを取り戻すことが出来る。あるいは、昔、学校の音楽室に飾ってあった“絵”の人達が、そこから抜け出して、私の頭の中に定着してしまったのではないかと考えてみるが、ただ1人、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだけは、正面に立っていて、何かを言いたそうな視線を私に向けている。その様子は、どことなく、恨めしい感じと、寂しさが混じったように見える。私の頭に過ったのは、死に直面したモーツァルトの状況だった。金の為に必死に作曲する彼は、持てる力をすべて出し切っても、『レクイエム』を完成させることができなかった。そして死んでしまうと、簡素な葬儀のみで、土中に埋められてしまった。煙るような雨の降っている中、共同墓地の入口で、関係者は全員引き返してしまったのだ。2人の墓守によって土がかけられた彼の棺桶は、泥だらけになって埋められた。そんなことになったのは、皆が言うように、彼は愚かであり、統一のない、殆ど愚劣な人間だからなのだろうか。

モーツァルトは200年以上前に活躍した人だ。歴史に興味のない人からすると随分昔であるが、実のところそれ程過去の事ではない。モーツァルトの住んでいたマンションも、ベートーヴェンが歌劇『フィデリオ』を初演した「アン・デア・ウィーン」という劇場も、とても綺麗に保存されて、連日のように公演が行われている。ザルツブルグでは、モーツァルトが洗礼を受けた教会も現存していて、そこには彼の名前も記されている。それにしても、当人の墓がわからないという、少なくともモーツァルトほどの人の墓が何処にあるのかわからないというのは、驚くほかない。遺体を入れる為の穴を掘って、そこにごみクズの様に投げ入れたなど更に考えられない。映画『アマデウス』では、その場面も映像化されている。ここではさらに酷い。棺桶の前方に蝶番の付いた“蓋”があって、ゴミ捨て場のような穴に向かって、45°程傾けると、半分ほど蓋が開いて、そこからいっきに袋に包まれた遺体が穴に向かって滑り落ちる。つまり、この棺桶はまた別の遺体にも使うから、埋めてしまうのが惜しいのだ。墓掘り人夫は何もなかった様にその上に土をかけて、埋めてしまう。勿論墓標もなしに。そんなことをした人々に、ヴォルフィ(モーツァルト)は何を感じただろうか。もしモーツァルトが日本人であるなら、怨霊になって復活するのではないか?そんな例は沢山あり、それが能になっている。そして、これは夢幻能にはうってつけの題材である。