院長自己紹介・ブログ

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ⑤

クナッパーツブッシュのエピソード

テューバ

ミュンヘン・オペラの楽団員は皆優れた人達であるが、テューバ奏者

クーゲルマンも素晴らしい存在であった。クナはテューバを重要に考えていたので、クーゲルマンにはいつも特に注目していたのだ。

「ジークフリート」を演奏していたある晩のこと、テューバのパートにいくつも出てくる難しい箇所を見事に吹き終えたところで、クーゲルマンは思った。

「今日はまずお誉めにあずかれるだろうさ。」幕が下りて、オーケストラの間を縫ってクナがそそくさと退場しようとする。ちょうどテューバの席にさしかかるとクナはしばし立ち止まり、楽器を見下ろした。いよいよ賞賛の言葉をもらえる、とクーゲルマンは待ち構えた。

クナはにこりともしないで言った。

「お宅の便器・・・・・・そろそろ磨き直したらいかがですかな!」

 

 

街の女

ある時、アン・デア・ウィーン劇場でクナは演奏会を指揮した。ワーグナーの<トリスタンとイゾルデ>「前奏曲と愛の死」を、マルタ・メードルが歌った。演奏会が終わると、クナが食事をいつもとっていたホテルは劇場からそう遠くはなかったので、彼はメードル他何人かと一緒にホテルまで歩いていった。

一行は途中、「街の女」がうろついている通りを横切らねばならなかった。女たちはクナッパーツブッシュのことなどもちろん何も知らない。その内の一人がクナに声をかけた。クナは無視して歩き続けたが、3メートル程行った後、くるりと向き直り、きょとんとする女にしゃがれた声で言った

「ごめんよ、ねぇちゃん。今日はムスコが一緒じゃないんでね!」

 

 

フランス語

バイロイトで<パルジファル>を練習していたときのこと、あるフランス人女性歌手の出来がひどかった。クナはオーケストラ・ピットから上の舞台に向けて例によって「このクソばばぁめが!」と怒鳴った。

しかし彼女はそれを解さず下に向かって

「フランス語デオネガイシマース!」

彼女がまたも演奏をしくじった時、クナは怒鳴った。

「フランス語のクソばばあめが!」

 

 

短い練習

クナッパーツブッシュは厳格だったが、慈愛深くもあった。

練習で彼は最小の労力で最大の成果を得たので、有能な音楽家から高く評価されていた。

ミュンヘンの演奏会でのこと。ブルックナーの第8交響曲のためにわずか1日の練習が予定されていた。クナは第1楽章を始めたが途中で止め指揮棒を置き、

その特徴的ななガラガラ声で言った。

「皆さんはこの曲をご存知だ。わしもそうだ。お互い辛いことは止めましょうや。ではまた今夜8時の本番で。」

練習はそれで終わりだった。

そしてその夜はいつものように輝かしい成功をおさめたのである。

 

(ミュンヘン・フィルハーモニーのソロ・ホルン奏者

               アルトゥール・アイトラー氏の小冊子より)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ④

今回は、ペトレンコ指揮の「パルジファル」を聴くためにミュンヘンに行ったことはすでに述べた通りである。私たちの鑑賞日は5回の公演の中で一番チケットが取れやすいだろうという7月5日に決まった。この日を中心にして、

パリ・オペラ座バレエを調べてみると幸運にも、ガルニエ宮で「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)が観られる。それとさらに幸せなことに、このバレエ団のエトワールであるジルベールがリーズを踊る日にピタリと当てはまっている。当日リーズの相手役が変更になっていて、さらに加えて、ルーベという超豪華なステージを観ることになった。

仕事の関係上、この2公演を観て、とんぼ返りすることになった。3泊5日の行程である。3泊といっても 東京―パリ は12時間40分かかるから日本を昼前の直行便に乗ってもパリに着くのは同日の午後5時半ごろになる。

入国審査と荷物を受け取って市内に入る頃は公演が始まってしまう。つまり

その日1日はまるまる無駄になるわけだ。そうなると時間を自由に使えるのは正味2日、その2日の夜の公演を観ようというわけである。

しかし、パリ・オペラ座の公演が終わってホテルに戻ると午後10時。

次の日の朝8時50分の便に乗らなければ昼にミュンヘンに着かないので、その3時間前、6時にホテルを出なければならない。我々は早朝4時に起きて準備をして出発した。

バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は午後5時開演である。そして、終演が午後10時20分。いくら好きな「パルジファル」だって、休憩時間を入れると5時間20分はキツイ。加えて、時差ボケ人間なのである。

歌劇場のすぐそばのレストランに予約をいれてあったので安心していたのだが、歌劇場を出ると、雨がポツポツと降っていた。急いでレストランの入り口に立った。案内された席は何と前回来た時と同じ席だった。

雨がポツポツと、同じ席と、食べ終わって小雨の中を同じ道を急ぎ足で通るのも、全く同じで驚くほかはない。前回は、クリスティアン・ゲルハーエルのシューベルト「冬の旅」を聴くために来たのだが、今回の「パルジファル」で

アムフォルタス王を歌ったのもゲルハーエル、これも同じであった。

前回のリートの時も歌劇場内は、ブラボーの嵐だったが、今回の「パルジファル」では、バイロイトと同じでドスドス、ドスドスと床をさかんに足で踏み鳴らし、あちらこちらからブラボーが飛び、最後はほとんどの人が立ち上がって、スタンディングオベーションだ。時差ボケと空腹で、皆が騒いでいる中で席を立って、レストランに駆け込み、ホッとしていると、後から後から人が入ってくる。みんな同じパンフレットを持っているので同族であることが知れる。完全な時差ボケ人間はビールを飲んでも、バイエルンの地方料理を食べても全く美味しくないのだった。

しかし、明日はどうしても行かなければならない場所があるのである。

朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。

しかし、こんな雨に負けてはいられないのだ。

私には目的がある。

恐らく、1965年10月25日、彼は77才の生涯をこの地で終えたはずだ。彼はミュンヘンに住んでいたと人は言う。もちろん、芸能人や世界的な映画スターでもないからどこに住んでいようが、人は興味がないだろう。生粋のドイツ人であり、生涯のほとんどを国内で過ごし、外国には出なかったらしい彼もフランスには行ったようだった。それは、パリ音楽院管弦楽団とのワーグナーのレコードも出ていることからも知れた。その後知ったのは、イタリアにも行っていてけっこう国外にも出ていることだった。そのレコードと出会った頃の私は、恥ずかしながら、ヨーロッパのことなどほとんど知らなかった。

「外国へ行かなかったって、フランスには行ってるじゃん」とつまらないことで反発して、そのレコードのジャケットを見ていた。今では航空会社にもよるが、日本から南ドイツに行くとなると、たいていフランクフルトかミュンヘンで乗り換えることになる。

これらの空港はフランクフルトもミュンヘンも国際空港である。現実に行ってみると、ターミナル間を電車が走っている程大きい。ミュンヘンという街は、古い建物と緑がとても多い。南ドイツの香りがプンプンと匂う。

現代都市のベルリンと比べると、同じドイツ?!と突っ込みたくなるほど違う。それに人間も違うらしい。ミュンヘンの人々はどこか、のんびりしていてやさしい感じがある。日本人からみると、いつも怒っているように見えるドイツ人は実はいい人達なのかも知れない。

ホテルを出ると、雨はしとしとと降り続いていた。空の1/3ほどが明るくなって、ほっとしたが、用心のために傘を持って出た。ホテルの傘だ。

トラム(市街電車)の19番に乗って、ウェバー・プラッツまで来た。ここでトラムを乗り換えろと地図は言っている。

実はこの地図、ライプツィッヒに住んでいる友人が作ってくれたものだ。

その地までのトラムの路線図、着いてからの目的地までの地図と丁寧である。

私たちは、同じドイツなのだからと、気軽に頼んでしまったが、ライプツィッヒとミュンヘンでは、違う。地図を見ながら、トラム17番というのを探すが、どういうわけ電車が来ない。電光掲示板にもその番号だけが出てこない。

よく調べてみると、17番の行く方向は線路が工事中であった。仕方なく、またトラムに乗ってホテルの前まで戻った。ミュンヘンは、流しのタクシーもあるという話だったが、走っているのは客を乗せたタクシーばかりでホテルから乗ることにしたのだ。

地図を見せて、

Bringen  Sie  mich  bitte  zu

ブリンゲン    ズイ   ミッヒ   ビッテ    ツウ

dieser  Adresse

ディーザー    アドレッセ

(この住所へ行って下さい)

とやってみた。

地図を見たものの、タクシードライバーは、ほとんど反応しない。

<こいつ、感じ悪し!>と心の中で思った。

それにしては、スイスイと広い道路を走っている。

妻と目配せして、帰りは違うタクシーにしようと決めた。細い道を入っては考え込み、首をひねって、もう一度見せろというジェスチャーをする。

ドライバーも困っているらしく、車を停めて人に訊いている。

<こいつ、ひょっとして。>

と思っていると、ついにその地を見つけたらしく、「kirche(キルヒエ)」

と言っている。タクシーの窓から見えたのは、小さな建物だった。

不信感を露わにすると、車内から前上方を指差している。確かに小さな十字架が見える。私の体に力がこもった。ここかも知れない。

周囲を見ると、ちょっとした高級住宅地で、前には幼稚園らしきものも見え、幼児の声がしている。この場所は、トラムの走っている線路からだとかなり遠いことはわかる。こんな所で降ろされたら帰るに帰れないという気持ちでいっぱいになった。

だいだいこんな所にある教会など誰が知るだろう。しかしわが家の事を考えてみても、近くのお寺に先祖は埋葬されている。もちろん大きな墓地には遠いところから人々はやって来るが、どちらかと言うと、それは比較的最近の傾向だろう。

裕福な家々のなかにある墓地は思ったよりかなり小さかった。雨が上がって、7月初旬の日が射して、緑が本当に美しい。

墓地の入口に立ってみて、タクシードライバーの気持ちが理解できるように思った。ミュンヘンの中心部にあるホテルから、ここを指示されても、誰だってとまどうだろう。それがあの態度であるなら理解出来なくはない。それで私は

気持ちを入れ替えて、ここで待って欲しい旨を彼に伝えた。

しかしかれの方もこの場所で良かったのかどうか迷っているようであった。おずおずと入口を入ってみると、右に回るように道がついている。友人がくれた墓地の地図だと、中心にある小さな教会を取り巻くように墓が並んでいる。そこへタクシードライバーが入ってきて、私たちが墓標の前で写真を撮っているのを見てニコッと笑った。

不確かな情報によると、あの指揮者のケンペもこの墓地に埋葬されていると言うが、こんな小さな教会に世界的指揮者が2人まで、という気持ちがケンペの墓を探す気持ちを萎えさせた。ただ、ケンペもミュンヘンの人だった。

昔、写真で見た墓は確かにあった。正面に立ってみると、左側に

ハンス・クナッパーツブッシュ、右側に生前のクナさんが“小リスちゃん”だか“小鹿ちゃん”と呼んだ愛妻、マリオン・クナッパーツブッシュが埋葬されている。彼と彼女は、10才違いでクナッパーツブッシュが亡くなった後、彼女は19年間生きていたことになる。

クナッパーツブッシュの墓の前に立った時、私の体は異常な反応を示しだした。

涙が出そうで出ない、ガクガク足が震える。声が出そうなる。呼びたい気持ちを抑えると、上半身が震える等々の反応だった。

私の反応にいち早く妻は反応して、その場から消えた。

私の引きつった顔は、明らかに1965年10月25日のことを思い出していた。

その場の光景とともに。

NHKの朝のニュースは、世界的大指揮者、ハンス。クナッパーツブッシュが亡くなったことを伝えた。呆然とした私は遠い日本から彼のことを想った。

15才と77才の歳の差を乗り越えて。

考えてもみなかったことが起こったのだ。私は早速『ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(ウェスト・ミンスター盤)』のジャケットからクナッパーツブッシュの写真をブロマイドにすることにした。

(ジャケットの左側がクナッパーツブッシュ、右側がブルックナー)

親しい写真屋に頼んで小さな枠を付けて、壁にかけられるようにした。

「こんなジジィの写真、ブロマイドにしてどうすんだ。お前おかしいんじゃない?」と下町言葉で言うから、「バカヤロー、お前なんかに何がわかるんだ」と怒鳴ってやったら、次の日に母親に苦情がきたらしい。

「お宅のお子さんだからまぁいいけど、それがうるさいんですよ。こんなんじゃダメだとか何だとかさんざん苦労しました。」

とこぼしていったらしい。

恐らくそんな時に、クナッパーツブッシュはここに埋蔵されたのだろう。

東京、ミュンヘン1万kmを乗り越えて、やっとクナッパーツブッシュの墓にきたのである。私はもう69才になっていた。

でも墓に来た充実感と、安心感は何にも変えられない。

(クナッパーツブッシュは聖ゲオルグ教会に隣接する、ボーゲン・ハウゼン墓地に埋葬されている。)

 

私の先祖の墓は仕事場からタクシーを利用すれば10分程で行ける距離にある。

しかし私はこの10年一度も行ったことがない。

又、今後も行くつもりもないのだが、私は本当の愚か者だろうか。

罪悪感を持って、人に訊くと、『けっこうそういう人もいるんじゃない』という答えが返ってきた。

その言葉が嬉しくもあり、悲しくもあった。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ③

この文章のテーマは

「ハンス・クナッパーツブッシュの墓」だった。

このいやに長い名前は、クナッパーツブッシュだけでも相当長く、発音もしづらいが、れっきとしたドイツ人の名前なのである。日本の音楽ファンは彼のことを“クナ”と呼ぶ。さて、この人は何者なのだろうか。そして、その人の「墓」

とはなんなんだろう。今までの文面からすると、どうも音楽に関係することとは、わかるだろう。現代ではこの人のことをあまり知らない音楽ファンも多く存在するはずである。何しろ、1888年生まれ、1965年の10月25日に亡くなっているのだから、53年前に没した人だ。この人のワーグナー演奏は現在ではあまり評価が高くないのだが、実はバイロイト音楽祭の主なのである。

バイロイト音楽祭は1951年に再開され、その年からクナは「パルジファル」を演奏し、亡くなる1年前の1964年まで毎年演奏した。1953は、演出家と意見が合わずキャンセルしたが、他は全て指揮をしている。

つまりワーグナーの権化なのだ。

それを証明するように、1953年以外の全ての「パルジファル」の公演が、バイロイトでライブ録音されて発売されている。クラシック音楽の世界ではめずらしいことだ。ここでしばらく私個人の過去を話すことにしよう。

ハンス・クナッパ-ツブッシュという大指揮者は、私の心の中に突然やって来た。1964年のことだった。(「ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団」(ウエストミンスター盤)というレコードは現在も所有している。)

このレコードが私とクナッパーツブッシュとの出会いだったのである。

このレコードをどこで買ったのか、又、なぜ買ったのかも忘れてしまった。

ただ、1965年の10月25日の朝、NHKラジオから流れてきたアナウンサーの声は覚えている。「昨日、ドイツの大指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュ氏が亡くなりました。享年77歳でした。」

大げさではなく、目の前が真っ暗になってガクガクと震えが体を伝わった。

頭の中では、クナッパーツブッシュが死んだって?死んだって何?いろんな言葉が飛び交っている。ほぼ1年前からクラシック音楽を聴くようになってレコードを買っていたのだが、この人が指揮したブルックナーの第8番交響曲はいたく気に入っていたのである。高校1年生は帽子をとって無言である。こういう状態を呆然とした、というのであろう。

私は母親にこう言った。

「今日は学校に行かない」

そしてその騒ぎが一段落して、クナッパーツブッシュの「パルジファル」の全曲レコードを買った。もちろん1962年、バイロイト音楽祭のライブ録音で“レコード大賞”をとった名盤である。

それから私のワーグナー好きが始まったのである。そして、一時期を除いて

“ハンス・クナッパーツブッシュ命”が始まったといってもいい。

“クナ”はワーグナー指揮者であるからその関係から、ワーグナーの曲にのめり込み、またクナを聴いた。そしてそれは今でも続いている。

現在では、一部の人々は彼について相当批判的であるが、その反面CD屋に行くと、彼のCDは人気があり、手を変え品を変えて、あるいはSACD化したり、リマスタリングをして売り出す。その都度CDは売れるからCDメーカーはウハウハだろう。現代からみると彼の演奏は、つまりオーケストラコントロールという意味からみてもかなり大雑把であり、先日聴いたバイエルン国立歌劇場とペトレンコの完成度の高いものとは比較にならないのだが、聞き手に与えるインパクト、あるいは感動はそれとは無関係なのである。ペトレンコは次期ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者になるが、あのベルリン・フィルを4年も待たせるほどの実力者である。

皆が聴いたことのないタイプの現代指揮者と、ハンス・クナッパーツブッシュいう大時代的ドイツ人指揮者は、純粋に音楽という立場に立つと、クナの方に分が悪いが芸術という視点からみると、彼の方が孤高の存在に見える。

ゆっくりとしたテンポ、正にドイツ系の分厚い響き、がっちりとした構成力、つまらない細工などに興味のない、あるいは、周囲を睥睨し、自己の道をただただ歩き続ける巨人、どこか人間をなめているジョークとユーモア、それでいて人懐っこいところを感じさせる巨人、大作曲家の交響曲をかなり個性的に演奏するが、“くるみ割り人形”の美しさにはのめり込む。

クナッパーツブッシュにかかると、ベートーヴェンだってモーツァルトだってバッハだってどこか見下されている感じがある。ただ、ワーグナーにだけは、全力で対応するのである。

彼の中ではワーグナーの作品だけが、正面から組み合える作品なのだ。

そんな人に私はとりつかれてしまったのだった。この人の音楽は迷える少年の目の前にドスンという音と共に現れたと言ってよい。だから、いつかクナッパーツブッシュの墓に行ってみたかったのである。

ところで私は随分、音楽家の“家”とか“墓”に行っている。バッハはライプツィヒのトーマス教会の祭壇の前に眠っているが、誰でもすぐそばまで行くことが出来る。ドレスデンにはウェーバーの墓がありその小さな墓石の左右には彼の一族が眠っている。これらは本当に質素で気の毒になるほど実にわびしい。もちろん墓石の前に柵などないから、手で触ることも出来るし足で触れることも出来る。あのマーラーの墓はウィーン郊外のグリンツィングにある。これも大作曲家の墓とは思えぬ位、控えめなものだ。マーラー・ファンの私は、マーラーの墓のそばにマーラーを捨てて何人もの男と関係をもった悪妻アルマ・マーラーの墓があるのには呆れ果てたことを覚えている。さてワーグナーの墓の前で我ら5人はどうしていのか迷ってしまった。

5人というのはバイロイト音楽祭「ニーベルングの指環コース」のツアーの人々の中の5人である。

この5人はどういう訳か気が合うようで演奏終演後、ホテルのレストランで深夜まで語り合った人々である。

バイロイト音楽祭は、4時から始まって終演が10時から10時半になる。それからホテルに帰り、そこから夕食になるわけだ。

私は一考した。一週間は同じホテルに泊まるのだから、11時から毎日レストランの同じテーブルを予約すれば皆で会食が出来るのではないかと。これにみな賛同して毎夜楽しい時間を過ごした。何しろ89万円也を払って日本からやって来た、筋金入りのワーグナー・ファン達だ。その中の1人が超筋金入りの人で、ドイツに留学もしていて、ニュルンベルクでもバイロイトでもやたらに詳しい。

この人がワーグナー博物館にみんなで行こうと言うのでついていくとそれは、

写真で見たことのある建物だった。ワーグナーがヴァンフリートと呼んでいた自宅だ。正面切っては言われないが、これもあのルートヴィヒ二世が関係している。それは正面玄関に向かって右側にルートヴィヒ二世の像が立っているからわかる。

ワーグナーという人は若い頃、つまり1849年にドレスデンの革命に参加し逮捕状が出て、ドイツを脱出、チューリッヒ、パリ、チューリッヒと亡命生活をしている。いわゆるおたずね者だった。女性との関係も華やかで、初婚後何人もの女性、それもパトロンだとか友人だとかの妻と関係をもった。

二度目の結婚は、あのリストの娘コージマだ。

彼の自宅ヴァンフリートという立派な建物をおたずね物で浪費家のワーグナーが建てられるはずがない。金もないのに一流ホテルの最上級の部屋を使う神経も尋常ではないが、そこだけでも一般人とはどこか違う。

それをふまえてワーグナーをみると、想像を絶した強運の持ち主という人種なのだ。通常なら自己破産している人間なのである。煮詰まってしまい、にっちもさっちもいかなくなった頃にピタッとルートヴィッヒ二世が現れたのだから、これほどの強運はないだろう。

ここで、私は素直に告白しなければならないだろうと思う。ヴァンフリートという自宅は現在公開されているので、ワーグナー博物館でもある。

私がその中でみたものとは・・・。

「これって何、いやに小さいけど」 という言葉に妻も

「本当に随分」 と言った。

ガラスケースの中に入っている洋服はワーグナー本人の物であり、その他日常使っていた品物が多数陳列されている。

どうしてもその小ささが理解できないのである。

「でもこれ本人のものでしょ」と妻が言う。

自分の好きなものは誰だって立派であって欲しいと願うのは人情だろう。

でもどう見ても小さい。

ワーグナーという人は恋愛事件を多く起こし、最後は弟子ビユーローの夫人コージマと結婚した。今で言う「出来ちゃった婚」であり、有無を言わせぬ行為である。しかし3年後ミュンヘンで「トリスタンとイゾルデ」を初演した時は、弟子のビユーローが指揮している。

つまり、寝取られた元夫がワーグナーの初演を行ったということになる。

今私はミュンヘンでビユーローが指揮をしてワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」を初演したと書いた。その歌劇場こそ、今回「パルジファル」を観た「バイエルン国立歌劇場」なのだ。

ヴァンフリートという名の彼の館は立派なものであるが、その後ろには小さな林がある。その庭には、ワーグナーの墓がある。ここには妻コージマも眠っていて微笑ましい。

バイロイトツアーで一緒になった5名はその墓の前に立って、どうやって祈るか迷っていて、日本風でもいいのかなどと話し合っていた。土を盛り上げた上に置かれたグレーの平たい大きな石版は周囲の木々とよく調和してリヒヤルトとコージマの愛が本物であったように私には思われた。

断っておくが、墓巡りは決して私の趣味ではない。

偶然が重なり合って行ってみただけなのである。

しかし、足元にそれらの人々を感じるのはある意味で辛い事であった。

私は音楽が好きである。そして最近はバレエにもハマっている。

例えばバレエ好きになるまで、つまり数年前まで“バレエ”なるものに全く興味がなかった。本心を言うなら「あんなもの何がいいんだろう」と思っていた。

クラシックチャンネルに入会したのはベルチャ弦楽四重奏団の「ベートーベン弦楽四重奏曲の全曲」演奏を放送するという広告を見たからだ。

チャンネルを回してみると、あまりに美しい画像が飛び込んできて、音楽もいいがその演奏の素晴らしさに目を見張った。白いコスチュームを着た何十人もの女性の踊りは始めて観るものだったし、よく聞いてきた「白鳥の湖」の音楽も生き返ったようにピッタリと、踊りに密着している。

バレエ音楽「白鳥の湖」は、バレエあっての音楽だったのだ。

私には“バレエ”という誰でも知っている世界に初めて触れた感動があった。

私の困った性格は、今に始まったことではない。

興味があることには徹底してのめり込むが、興味がないものには全く反応しない。全くである。

だから皆が知っていることを私は全く知らない。最低の知識もないのである。

“バレエ”について言えば、そのことが良かったかもしれない。何も知らないということは、真っ白であることに通じる。だから一度火がつくとそればかりに集中する。一種の吸い取り紙なのだ。

「すごいね集中力」というのはよく我が妻が言う言葉だ。

しかし一方周囲の人は迷惑である。毎日毎日バレエを観ている。夕食が終わると観る。これは高校生の頃の自分と同じなのである。ワーグナーについていえば学校から帰ると第一幕、夕食後第二幕と第三幕、終わると11時頃、まるでバイロイト音楽祭のようだ。

これを毎日繰り返す。バイロイトだって7月25日から8月末までなのだ。

こんなことを言えば音楽ファンから怒られるに決まっている。でもあえて言う。

ワーグナーの方がバッハやベートーヴェン、モーツァルトよりもはるかに難しい音楽だと。

私が言いたいのは、音楽のレベルの話をしているのではない。音楽の作り方のことを言っているのだ。あの無限旋律とライト・モチーフは1度や2度聴いたってとても覚えられるものではない。必死になって聴き取らなければならないし、1曲4時間はかかる歌劇全曲を覚えるとなると聴き手側にも相当の能力が要求される。

さて、ベルチャ弦楽四重奏団のおかげで、バレエ・ファンになった私は集中する分成長もあったのだろう。あんなにバカにしていたバレエの難しさを知り、ダンサーたちの努力を思うようになった。例えば今回のパリ・オペラ座バレエは、世界のバレエの最高峰の一つである。たとえその舞台に群舞の中の端役であっても、出演することなど奇跡に近い。

街を歩いていて、その気になってビルの看板を見れば“バレエ教室”がどの位あるかわかる。それが世界中にあるのだから、その頂点に立つなど考えるだけでも気が遠くなる。

そういう目でバレエを観ると、彼らのやっているダンスというものがどのくらい高度なものなのか理解出来るようになった。

「男のくせに白タイツはいてキモチワルイ」

と思っていた男の考えていたことは所詮何も知らないアホな男のたわ言だったのだ。

それはどんな分野にも言えて、真剣に取り組めた人だけに理解されることなのだろう。

私が大作曲家の墓の前に立って、つま先を向けていることを自体いたたまれなかった、理由がここにある。

何百年にも渡って演奏され続けている作曲家となれば、心死に努力する

ダンサーの比ではないだろう。

彼らにとって天才であることは当然のこと、努力も当たり前のことであるが彼らの強い個性はことあるごとに周囲の人とぶつかり合って、戦い、落ち込み、苦しい精神を鼓舞して再起してきたのだ。そんな人達の前に立つ自分に対して怒りがこみ上げてきたのは当然のことなのだ。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ②

そうだった。私はバイロイト音楽祭について書くつもりではなかったのだが、このバイロイト音楽祭というのが、実はくせ者なので書かざるを得なかったのだ。クラシックファンならばこの音楽祭のチケットが世界一入手困難なプラチナ・チケットであることは誰でも知っている。実のところはわからないが、口から口へ伝えられるのは、申し込んで5,6年は無理というものだ。しかし、現実には一年ほど前であればこのプラチナ・チケットは取れるのだが、それが誰でもというわけにはいかない。

2009年の10月に本当に清水の舞台から飛び降りるつもりで、(音楽祭は7月25日から8月末までほぼ毎日公演がある)旅行会社に申込みをした。最大手の会社である。6ヶ月前に申込んだのだが、4月になって本格的な予約をするまで予約の予約をしてくれるというので申込みをして安心していたのだが、一向に連絡がない。不思議な気持ちで音楽雑誌を買ってみて、本当に目が飛び出る思いでその広告を見つめた。

その会社の広告にその年のバイロイト音楽祭の日程と、公演曲がはっきりと明記されている。

怒り狂って電話をしてみると、あの担当者はおらず若い女性の声が伝わってきた。

私には怒り狂ってしまうと言葉が出てこないクセがある。

“もしもし”という声が聞こえるが声が出ない。何回かの“もしもし”を聞いて怒りが爆発した。

「う~、なんなんだ、あんなに前に予約の予約を入れて安心したのにこの仕打ちはなんなんだぁ~~~~。」

相手もあまりの怒鳴り声におたおたした様子が伝わってくる。前回の“ばばあ”の横柄な態度と異なって

「そう申されましても、申込みをされている方が多くいらっしゃいます。」

若い女性は、冷静に対応している。若い女性に弱い私は少し落ち着きを取り戻した。

「多くの方が申込みをされていますって、どうして皆、知っているんだぁ~~」

「恐れ入りますが、そちら様には『バイロイト音楽祭』の予定表と『ザルツブルグ音楽祭』のパンフレットはお届きになっていらっしゃいませんか?」

「何言ってるの!何も来ないじゃない。ずっと待っていたのに。」

もうすでに泣き声になっている。

「それで、予約状況はどうなっているんですか?」

一生けん命に気持ちを落ち着けているのだが、頭の中は真っ白だ。

次に浮かぶのはあのババアの声と上から目線の横柄な態度だった。あいつが予約の予約を失念したことは間違いない。

すっかり気落ちした私は、それでもこの女性にすがりつくしかない。

「え、15名の定員で14名様が埋まってるって何言ってるの、じゃあ1名だけの枠ってこと?」

「2名様ですと、1名の方がキャンセル待ちということに・・・」

「じゃぁ1名のキャンセルが出ないと2名で行けないってこと?」

「そういうことになります。でも毎年数名のキャンセルが出ますから。」

「出ますからって出なかったらどうすんのよ!」

「え、その時はご出発はご無理かと・・・」

白い状態が青い領域に変わっていくのが分かる。青いながらも、最も気になる

チケットのランクを聞いてさらにビックリした。

「申込みが最後になりますので後ろの方になるかと。」

「え、31列目ってすいぶん後ろじゃないの。」

「はい。31列目の後ろが最後列ですので、その壁の向こうは外ということになります。」

ガクガクと体の震えを感じながら

「えっ、そっちのミスでこうなったんだから、15席しかないって落ち着いていないで何とかもう1席チケットを確保しなさいよ!」

「はぁ、私どももそうして差し上げたいのですが、何しろバイロイト音楽祭ですので、私どもの会社でも15席が精一杯なのでございます。」

次の会社に電話するも、同様の答えが返ってくる。

どの旅行会社も似たり寄ったりであるが、全体の評価としては、最初に電話をした所が良いので、キャンセル待ちに落ち着かざるを得ない。諦め半分、ふてくされ半分・怒り最高の気分だった。

そんなある日、友人がやってきた。この人にも「バイロイト音楽祭」に予約の予約をしたことを自慢していたのである。

カバンの中から出したパンフレットを見て、私は唖然とした。

「これ、通りがかりに見つけたから持ってきました。もう予約しているから必要ないと思いますけど。」パンフレットの表紙には大きく「バイロイト音楽祭 ザルツブルグ音楽祭」という文字が見える。

苦しみぬいてきたので「バイロイト音楽祭」という文字を見ただけで異様な反応が起きるようになってしまっているのだ。

彼の手から無言でパンフレットをもぎとると、一気に全ページを見だしたのだった。

色々のツアーが所狭しと書かれており、出発日も3通り記されている。その他にもワーグナーの歌劇の組み合わせも多様である。早々に友人を追い返して電話に飛びついた。

「はい、こちら音楽鑑賞デスクでございます。」

「あのぉ~、今そちらのパンフレット、バイ、バイ、バイロイト音楽祭のですけど・・・。

「はい、お手元にパンフレットをお持ちでいらっしゃいますかぁ~?」

「も、持ってますぅ~」

「それでどういたしましょうか」

「どうするって、バイロイトに行きたいんです。2人で。」

「はい、2名様でおとりできます。」

この人はいともあっさり答えるのである。

「でも、31列目とかじゃないですよねぇ~」

「はい、当社では、前方のかなり良い席もお取りできます。ご利用料金によりますが、ある程度ご自由に選べるかと」

「だってバイロイト音楽祭ですよ、ああたぁ~。」

「はい。それよりもですねぇ~どちらかというと航空チケットが取れるかどうかの方が問題かと。バイロイトに行くのにはニュルンベルクから車で1時間程かかります。それはいいのですけど、この時期8月は大変混み合います。

それで飛行機の件ですが、ルフトハンザのご利用になります。

東京-ミュンヘン あるいは 東京-フランクフルトを飛んでおりまして。どちらかの空港で乗り換えていただいて、ニュルンベルクということになります。ただ最近、A380という大きな飛行機が飛ぶようになりましたから、恐らく大丈夫でないかと。」

「じゃあ本当にいけるんですね、バイロイトに」

「はい、何とかなると思います。」

その喜びは計り知れないのである。

「じゃぁS席2枚ずつ取って下さい。」

「はい、えっとあちらではカテゴリー1といいます。1枚8万5千円ほどになりますがよろしいでしょうか。」

値段など耳に入らないのである。

「じゃぁ6公演、全部カテゴリー1で2枚ずつお願いします。」

この会社の「バイロイト音楽祭」はエコノミーの航空チケット、ホテル、朝食付、2枚のカテゴリー3のチケットのみで合計89万円也だった。(今年のパンフレットを見ると10万円程アップしている)

東京-フランクフルト、フランクフルト-ニュルンベルク 全くの2人旅である。言葉も右も左もわからない日本人2人、やっとのことでニュルンベルクに到着した。

長い私の話もやっと、ここまで来たのだが、ここで待っていたのがこの話の主人公なのである。ニュルンベルク空港を出てタクシー乗り場にその人はいた。

「やあ、やあ、お疲れ様です。私○○です。」

と悪びれる様子もない。

私としてはとてつもない高額料金を払い、先のことを無視した無謀なバイロイト詣でなのである。何しろ、このためにローンを組んでいるから来月からその支払いに苦しまなければならぬ。添乗員もなく、やっとの思いで着いてみれば、おっさん1人の出迎えだ。またもや、89万円也が頭をのぞかせた。

ホテルまでは付いて来たが、それきりで「皆さんで楽しんで下さい、私はこれで失礼します。」と言って去って行ってしまった。その後、何回かお目にかかったが、それきりだった。

しかし人はわからないものでる。

このおっさん、とてつもない人だったのである。「パルジファル」はステージから3列目中央、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は前から5番目中央、「ニーベルンクの指環」4部作全て前方から15列目中央、と音楽ファンなら大抵の人が知っている4,5年待ちなどどこ吹く風である。更に驚いたのは、ツアーで一緒になって仲良くなった人々(現在も“バイロイト会”は続いて、年に1回5人で会っている。)の中に「パルジファル」のチケットを持っていない人がいた。皆からバイロイトに来て「パルジファル」を聴かないなんて考えられない、という話を聞いていた彼は、自分も聴いてみたいと言い始めた。冗談半分でじゃぁ○○さんに訊いてみたらというのを真に受けて○○さんに訊いてみたところ、明日の夕方に「パルジファル」のチケットをお渡しします、と言われたそうである。すると次の日の夕方、例の調子で飄々とした○○さん、「はい、どうぞ」と言ってチケットを渡して去って行ったそうだ。

その後私は、憧れのドレスデン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会、ウィーン・フィルハーモニーの演奏会と次々と回ってこの人のおそるべし実力を思い知ったのだった。どの公演も前から2~5列目ぐらいであり、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会では最前列中央に座らされて、周囲のドイツ人にジロジロと見られる始末だった。

こんなことから、今回も「音楽鑑賞デスク」の○○さんに連絡をしたのである。

特に、バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は、今シーズン限りで、この歌劇場を去ることになっている、ペトレンコの指揮、カウフマン、ゲルハウエル、パーペ、という有名歌手の出演で、5回の公演は即日完売になるだろうという。2月に前売りが始まったが、○○さんに言わせると、「そんな時にいいチケットは取れません」のだそうだ。

後日、「ああいい席取れました。前から5列目だったかな。中央です。あ、それから、パリ・オペラ座の方ですけど、ガルニエ宮のあれも前から3列目取れています。」

という電話をもらった。私の注文はどれもこれもチケットが取りづらいものばかりなのだが、「ちょっとやってみないとわかりませんけど」と言いつつ必ず最高の席を確保してくれるのである。

(7月5日の「パルジファル」は素晴らしい出来だった。)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ①

2018年7月5日

バイエルン国立歌劇場でうわさの指揮者 キリル.ペトレンコの

ワーグナー「パルジファル」を聴いた。と書けばどこかエラソーに

聞こえるが、本当の事を言えば、この日の為に一生けん命に努力をした、と言った方が正しい、ことの顛末はこうだ。

昨年の末、いつもの旅行社の「音楽鑑賞デスク」に電話をしたのだが、担当の人がいなかった。この人は夏も冬もほとんどヨーロッパで過ごしていて、

この“デスク”にはほとんどいない。帰社する日を確認して、その日が来るのを待った。それをするのにはそれ相当の理由がある。この人との出会いは

2010年だった。あの「バイロイト音楽祭」の時である。

「バイロイト音楽祭」というのは、ドイツのバイロイトという町にワーグナーが自分の作品だけを上演するためにつくった音楽祭だ。

ワーグナーのオペラというのは一般的なオペラとは異なって彼独自の求める音響と長時間の上演時間を聴衆に強いるのである。欧米によくある歌劇場の持つ“豪華さ”や“社交の場”の雰囲気は、ワーグナーのイメージする彼の作品には全くそぐわない。

だから、あの狂王ルートヴィッヒ二世の協力のもと、広大な土地に

ワーグナー自身の設計による祝祭劇場を完成させたのだった。

ルートヴィッヒ二世は国王でありながら、政治や国務にはほとんど関心を示さなかったが、芸術・特に音楽には異常なほど興味を持っていた。彼はワーグナーの歌劇「ローエングリーン」を知ってからそのとりこになり、いつか

ワーグナーに会ってみたいという想いにとらわれ18歳で国王になると、

本来すべき仕事を放りだしてワーグナーのパトロンになるべく努力したのだった。

ドイツの最大の観光名所の1つであるノイ・シュバン・シュタイン城は、

ルートヴィッヒ二世の造った城であるが、その美しさ・壮大さは誰でも知っている。高い崖の上にそびえ立つ壮麗な城は想像を絶する費用を必要とし、そのために軍事費すら削らなければならないという不安を幹部に与え、それを守るために暗殺されたというのが通説になるほどのものなのである。内部にはローエングリーン伝説にちなんだ絵画が多くしつらえられ、白鳥の置物もあり正に白鳥城と言うにふさわしい。(ノイ・シュバン・シュタインのシュバンという言葉はドイツ語で〔白鳥〕という意味である。)

 

国の将来をおびやかした建物も皮肉なもので現在ではこの城がロマンチック街道最大の見物になっており、この観光資源は言い尽くせないほどの経済的効果をドイツに与えている。余談だがシンデレラ城はこの城がモデルになったという話もある。

 

歌劇「ローエングリーン」の内容はざっとこんなものである。

濡れ衣を着せられた王女エルザを救うため白鳥の小舟に乗って現れた騎士

ローエングリーンは、エルザと愛し合い、かれの氏素性を決して訪ねないという条件で結婚する。しかし、魔女のオルトルートにたきつけられ夫の秘密を知りたいという欲望をもち、ついに禁門の誓を破ってしまう。

そしてローエングリーンは聖杯の城へと去っていく。何だか「鶴の恩返し」のドイツ版のような話なのだが、これはドイツに伝わる伝説なのである。

私たちがわざわざ聴きに行った「パルジファル」というオペラは、「ローエングリーン」の父の話なのである。つまり、ワーグナー最後の作品で「ローエングリーン」の父(パルジファル)の素性をひも解いたオペラを書いたことになる。チャイコフスキーの「白鳥の湖」というバレエもこの白鳥伝説から起こっているので原作はドイツである。

ちかこさんへの手紙

6月14日に語り芝居「ぼっこの会」15周年記念公演をせんかわ劇場で観劇。

さねとうあきらさんの追悼公演でもある。

この月は、コンサートが3回、芝居が1回あったので、いささか疲れた。

それでも、グザヴィエ・ロト指揮のレ・シエクルというオーケストラの「春の祭典」

(6月12日タケミツ・メモリアル)と「ぼっこの会」の公演は圧倒的に私を追いめた。

6月16日にはNHK交響楽団の定期公演で、アシュケナージと庄司紗矢香のコンサートがあったから、2日おきに外出していたことになる。さらに6月29日にはバンベルク交響楽団の「マーラー交響曲第3番」の公演がある(6月23日記)

とここまでは、予想以上の収穫を得て余裕を見せていたのだが、私個人としてはこれからが目玉なのである。

7月5日、ドイツのミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場でのワーグナーの神聖祝典劇

「パルジファル」のために半年前から準備をしていて、そのチケットが取れたから

「弾丸ツアーで」(3泊5日)で行くことになり、加えて、パリ・オペラ座 ガルニエ宮で

オペラ座バレエ「ラフィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)のチケットも取れ、

パリ2泊、ミュンヘン1泊の決死のツアーを組んだのである。決死というのは私にとって

少しも大げさではなく、とてつもなく時差に弱い者にはこの言葉しかみつからない。

過去にベルリン・ドイツ・オペラでもオペラ1曲を全て寝て過ごしたし、数年前に、憧れの

ドレスデン国立歌劇場での「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」の公演で後半のプログラム、

ブラ―ムス第1交響曲、冒頭のティンパニーで始まったのは覚えているものの、第4楽章

のコーダで目が覚めたという私にとっては笑えないほどの重症なのだ。

終演後ホテルのレストランで食事を始めたら、当日のコンダクターであるエッシエンバッハ氏も来られたのだが、考えてみればエッシエンバッハ氏を見に行ったようなものだった。

本題に入ろう。

「ぼっこの会」というのは にいくら近子さんの主宰する劇団である。偶然にも近子さんと

私は同じ年なのだが、知り合ってもうかれこれ30年位にはなる。その頃の私は大劇場の演劇が大好きで、蜷川さんの「ハムレット」や「マクベス」を観ていた頃にあたる。

だから初めて公演に誘われた時、会場に入ってみて、その狭さに驚き、又がっかりもした。

しかしそこで演じられるものは、どういうわけか終わってみると何か心に残るような感覚があった。誘われると行くこともあり、又行かないこともあったが、いつもどこかで

“やっているんだな”という気持ちも持っていた。

近子さんは、控えめな女性で、嫌味のない人である。にいくらさんの書かれた文章を引用してみる。

「ある公演でのこと。会場いっぱいにして、熱い視線を舞台に向けてくれていたのは、

障害を持った人達でした。傍らに車いすや杖を置いて-(中略)。

その時ふと、ベッドから離れられず、この会場にも来られない人達がいるはず・・・。カバン一つで何処へでも飛んで行き、元気を共有できる芝居を創りたい!」-(中略)

2003年さねとう作品のみを上演する語り芝居「ぼっこの会」が誕生したのです!

(注)さねとう作品-「さねとうあきら創作民話」

今回の公演は「つると平太」(鶴の恩返し より)で翻案、演出:ゆい きょうじ

でした。毎回感じるのは、前回と違うということです。

何が違うか?

力の必要のない所は、力を入れず、いざという時にその場を支配する その塩梅が違う。

私は芝居に詳しくはありませんので音楽で言うなら“静寂の中の集中力”つまり、

極めてシンプルであるということです。私の最も評価している作品(オペラ)は

ワーグナーの「パルジファル」です。最後の作品になった「パルジファル」はその美しさ、

力強さに特徴があります。4時間以上かかるオペラのほとんどの部分は静寂で、所々に盛り上がり、クレッシェンドがきますが、それもすぐ元に戻ります。大オーケストラと

大合唱団、それに大勢の歌手たち、凝った舞台の割には、表面だけ見ているとつまらない音楽にも聴こえます。現に音楽愛好家の中にもつまらない曲、というのと、最高の傑作という評価があります。

でも、北大路魯山人のいう最高の味は、“下関のフグ”にもいろいろ見方があるのですから

仕方ありません。

私は、にいくら近子さんと知り合わなければ、世の中にいろいろ人々がいることすら知らないで過ごしたはずです。

70歳なんてまだまだです。

私は、今回のパリ行きに備えてフランス語を勉強し始めました。そうなると、あれほど

億劫だったパリも楽しみになってきました。

 

進化する近子さんガンバレ!

ヒロシ様よりチカコ様へ

 

ウィーン国立バレエ 東京公演

楽しみにしてたのは、5月のウィーン国立バレエの東京公演でした。
渋谷のオーチャード・ホールで日曜日のPM2:00からでしたが、予想通りの満席状態でした。

パンフレットとチケット

「海賊」の日本初演は3回公演でしたが、最後のステージは我々の好きなシショフとエシナのコンビなのです。


注目のシショフは女性を膝の上に乗せてポーズを決めた瞬間、舞台に手をついてしまい慌てましたが、その位のことは大目に見ても差支えがない程、立派なステージを務めました。
数年前、本場のウィーン国立歌劇場でもシショフがほんの一瞬ですが、ターンの時足を滑らせたことがありました。
これだけの人でも完璧というわけにもいかないほど、バレエというのは難しいのでしょう。
これは私たちだけのことなのかは不明ですが、バレエの公演では、ダンサーの苦しい場面に直面するのです。
数年前、ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるロイヤル・バレエの公演(くるみ割り人形)では、本当に凄い場面にぶつかりました。
有名な‘“花のワルツ”で中心的なダンサーがひっくり返ったのです。
本人も慌てて立ち上がろうとしていますが、カメのようになってもがいているのを見て、場内もシーンとしてしまったのです。
指揮者もテンポを落として再起を促すのですが本人は頭の中が真っ白で、立ち上がったのですがまたひっくり返りました。
それを見ていた金平糖の精役のプリンシパルもやはり、ターンの時転んだのです。
今回の公演で感じたのは、我々はほとんど完全な映像でバレエを観たり、音楽を楽しんでいるのですが、いつも判で押したような表現が出来るものでもないし、完全な演奏が行われているのでもない。失敗があってもやはりライブの公演はそんなち小さなミスを打ち消す、まさに人間の体によって表現することこそが何にも代えがたいことであることを実感しました。
ウィーン国立バレエの幕が下りた時、「ブラボー」の嵐とほとんどの人が立ち上がってこちらも全力で彼らを称えたのでした。

<院長の音楽コラム>ピリオド演奏って何?③

さて、指揮者のクルレンツィスだけでも話題満載なのですが、同行するコパチンスカヤというバイオリニストも賛否両論の人なのです。
正確にいうと、ムジカ・エテルナというオーケストラはモダン楽器を使用しますが、ピリオド楽器も自在にするオーケストラなのです。

2017年度、第55回レコードアカデミー賞はなんと史上初!このコンビが2冠を達成しました。
・大賞受賞はチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(これはモダン楽器を使用しています)
・銀賞受賞はモーツァルト:歌劇「ドン・ジョバンニ」(全曲)でこちらはピリオド楽器(古楽器)の使用です。

コパチンスカヤという女性バイオリニストクルレンツィス + ムジカ・エテルナは極めて相性が良く、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲でやはりアカデミー賞を取っていますが、このCDも極端に賛否両論で、私の友人二人も毛嫌いする程でした。

私の周辺の音楽好きには、「残念なクルレンツィスとコパチンスカヤ」ではあるが、レコード芸術誌で12月と2月に行われるランキングでは、(12月はアカデミー大賞←これは専門家によるランキングで2月は読者によるランキング)堂々の1位を獲得しました。
それにCDの売り上げもトップクラスであるので、HIP(オーケストラによる新しいタイプ)の認知がされてきたと言えます。もちろんこの二人だけではなく、オーケストラもムジカ・エテルナだけでなく、かなりの数の演奏家が古楽器を使った、あるいは楽譜を新しい読み方で捉える方法で新時代を迎えつつあります。

こんな最近の状況を見れば、1年先の公演のチケットが取れないのはいたし方ないのかもしれません。

 

<院長の音楽コラム>ピリオド演奏って何?②

ところで、このチケットを買った理由は前回書いたように「どうしても聴きたかった演奏家の公演に行きたいから」でしたが、
クルレンツィス指揮  ムジカ・エテルナ
(オーケストラの名前です)のコンサートだったのです。
またややこしい名前で恐縮ですが、例えるなら
カラヤン : ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
クルレンツィス : ムジカ・エテルナ
ということになります。
つまり、指揮者がクルレンツィスオーケストラがムジカ・エテルナということです。

さて、前回の冒頭に書きましたHIP(歴史的情報に基づく解釈)について話が戻ります。
1980年前後からこの動きが始まりました。
オーケストラの楽器は古楽器を使用し、楽譜の読み方も異なってきます。
モーツァルトやベートーヴェンの時代の楽器は現代のものとは異なっています。例えばバイオリンの弦も現代のものはスチールですが、当時のものはガット弦というものを使用していましたし、ティンパニーも小さくそれを打つスティックも小さく硬いものでした。
当時はオーケストラも演奏するホールも小さかったので古楽器でも良かったのですが、現代のホールは巨大化したためにオーケストラも大きくなり、弦もスチールに変わり、管楽器も大きな音が出るように改良され、ティンパニーもド迫力を生み出すために大きくなったのです。

音符の読み方も変わってきました。


有名なのは、ベートーヴェンの交響曲全曲に「ベーレンライター版」というのが現れて、ベートーヴェンの響きも一変してテンポもぐっと早くなりました。
1980年頃、この演奏を聴いた人々は一様に「これはおかしい!」と散々酷評しました。
あまりに早すぎて落ち着いて聴いていられない、ひどい人たちになると「ベートーヴェンがテンポの指示を間違えたのだ」とか、反対に擁護する人は「ベートーヴェンは気が短かったので早く演奏する方が正しい」など本人に会ったかのような言い方をする人も現れました。


ベートーヴェンといえば、ピアノの開発者としても有名です

彼の時代の少し前モーツァルトの時代にはまだピアノという楽器が日の目を見ず、チェンバロやクアヴィコードを使用していました。(ただしウィーンに出てからはピアノを使用していたといいます)  ベートーヴェンの32曲のピアノソナタの初期のものは、これらの楽器を使っていた可能性もありますが、同時にウィーン式のピアノを使用したり、エラールのピアノ(イギリス)・シマトライヒャー(ウィーン)を使い分けていたことから、現代のピアノのように安定した性能が得られなかったことも事実なのです。

昔のピアノは現在でも演奏可能で、CD等で聴くことが出来ますが、現代のピアノの音に慣れている私たちからすると、何か異様な音とさえ感じてしまいます。    

<院長の音楽コラム>ピリオド演奏って何?①

私の毎月の愛読書「レコード芸術」の3月の特集は
「ピリオド演奏が拓くオーケストラ新時代」 です。
副題として
「HIP(歴史的情報に基づく解釈)最前線を追う」
というタイトルですが

やたらに長い題目で、音楽に興味のない人には何のことだか
分からないのではないでしょうか。

簡単に言えば、<クラシック音楽の演奏の仕方が新しくなった>ということなのです。

こんなことを書き出したのには訳がありまして。

どうしても聴きたかった演奏家が初来日するので早々にチケットをゲットしようと、
2018年2月27日PM12:00の発売に焦点を合わせた行動をとっていました
一階席でうれしいのですが、飛び飛びの席2枚がやっとという結果でした・・・。
せっかくこの演奏家の公演に行けるのならと3公演セット券1人54000円×2枚を思い切って取ったというのに・・・。(しばらくは他の趣味は我慢です)
実はこのコンサート、2019年2月の公演でして約1年も前の発売だったことになります。この後に一般のチケット販売が行われましたが、その頃にはほとんどのチケットは売り切れだったはずです。

どうして3公演券と奮発し、発売と同時に買えたのに離れ離れの席なのかと調べてみると、なんと発売日より前の2月11日に6公演券というのが売り出されていて、私たちが必死になってチケットを取った時にはすでに完売ギリギリの状態だったようなのです。
その6公演券というのは、1年間にこのチケットの主催会社がこれから招聘する6つのオーケストラの公演のセット券だったのです。
これが1人124000円もするそうで唖然としました。

次回に続きます。