院長自己紹介・ブログ

幽玄と古稀の旅行記 – 前場①

「モーツァルトの音楽って子供っぽい?」という質問に対して、音楽に興味のない人なら、「うん、うん。」と首を縦に振るはずである。しかし、コアなクラッシック音楽ファンに同じ質問をするなら、「あんた何言ってるの、バカじゃねぇ?」という答えが返ってくることは請け合いだ。更に、「モーツァルトわかんないなんて、音楽を聴く資格なし。」という厳しい反発に遭うはずだ。

実のところ、かくいう私も、モーツァルトが分からなかった1人なのである。私の音楽愛好家歴は長い。何しろ中学生の頃から聴き始めて、20年以上理解できなかったのである。40歳を前にして、初めて「おや!」っという反応が体の中に生まれた記憶は生々しい。曲目は、モーツァルトの「クラリネット協奏曲」の第2楽章。名曲中の名曲で、その美しさたるやこの世のものではない、と言われている曲である。しかし、その曲に集中しないで聴くなら、何の変哲もない音楽に聴こえる。というより、淡々と流れゆくのだから、どうしても捉えづらい。それは、下関のフグの様な味わい、あるいは、フランス産の白アスパラガスの様な味わいで、鼻の中にふわっと薫る感覚であるといってよい。例えば白アスパラガスが、ビネガーソースの味次第で生きるも死ぬも自在であるのと同じように、第2楽章の演奏の仕方でその評価は全く変わってしまう。モーツァルトを演奏するとなると、クラッシック音楽の演奏家も聴き手側も、同様に緊張し、全能力をもって対峙する姿勢に変わる。その理由は追々記していくが、彼の音楽には無駄な音というものが殆どないから、演奏者も聴き手も、X線写真の様に見透かされてしまい、誤魔かしがきかない。シンプルイズベストの典型がここにある。これも後の話にするが、彼の“オペラ”はモーツァルトの本質を非常によく表している。

コッツウォルズの村

今回の旅行は、友人夫婦と私ども2人の4人で行くことになった。同業者であるT夫婦との4人の旅行は、考えただけでも楽しいだろうという思いがある。私がバレエ・ファンになってみて、そういえばMさんがバレエに入れ込んでいたことをふと思い出したのだ。勿論それまでも年に1度や2度は会食をしてきた仲だから、言いたい放題でやってきた仲間である。しかし去年は、1年間で3回というメチャクチャの予定を立てて、海外に行ったことを話してみると、呆れられて、すったもんだした挙句、何しに行ったんだと言うから、バレエと美術と、オペラと答えた。Mさんはかねてから、バレエはボリショイという本格派だから、どこのバレエに行ったかというので、ロンドンのロイヤル・バレエと言うと、フゥ~ンという気のない反応だった。ただイギリスには興味があるらしく、話がそちらの方へと進むと、「私も、イギリスには行ってみたかったんだ。」と言う。今度はこちらがへぇ~っと言ったら、「“コッツウォルズ”に行きたいのよ。」とのたまった。ええ?あの“コッツウォルズ”?と言うと、今度は向こうが、「え~~~っ!知ってるの?」と上から目線で答えた。私は何年も前から、コッツウォルズに行きたくて、妻にそのことを言うと、「そんなとこ、寒くてしょうがない。」と言われ続けてきた人間なのである。何しろ仕事の合間にロンドンに行ったのは、年末年始の休みに2回程だ。ロンドンに行っても、街の中にいるしかない、というよりは、寒いから外出してホテルに戻るの繰り返しなのだ。コッツウォルズ地方というのは、世界中で最も美しい村、と言われ、ロンドンから約170km程の田舎の村の集合体なのである。私は40年程前、ビートルズ・ツアーというのに参加して、ビートルズの故郷のリバプールに行ったことがある。リバプールもロンドンからバスで同程度で、ほぼ同じだ。この時はリバプールで2泊したからいいが、コッツウォルズへは日帰りバスツアーしかない。勿論ロンドンから列車もあるが、この広大なコッツウォルズ地方を尻目に、迂回するように走る。たとえ最寄駅に着いたとしても、そこからの足が殆どない。小さな村が点在しているから、歩くなど問題外だ。考えてみれば、そんな僻地だから、昔のままの美しさを保っているのだろう。170kmの往復と、やっと着いても1つの村に30分の滞在で、早朝に出発して、夜にロンドンに戻ってくる。話によると、市内が渋滞すると、更に到着が遅れると言う。何年も前から計画倒れを繰り返しているので、その辺のことはいやに詳しい。だから、沢山ある日帰りコースを敬遠して、1泊旅行に決めていたのである。それほど行ってみたかったコッツウォルズなので、4人の会食の時にその旨を話すと、Mさんは「え~っ、本当に行きたいんだァ~~~。でもどうしても信じられない。」という。彼女の心の中はおそらく、自分は昔から憧れていたのに、相手が割って入ってきた(私の事)のが許せないらしい。「私、ここに行ったら、近くにあるストラットフォード・アポン・エイボンに行きたい。」と言い始めた。勿論私も行ってみたかったのだが、そこは大人の対応で、“ふぅ~ん”とやりすごした。

シェイクスピアの生家

去年のロンドン旅行の際に、どうしても行きたかった「グローブ座」に行くことが出来た。あのシェイクスピアが、沢山の芝居をやったところだ。彼は作品も沢山書いたが、役者としても成功者だった。そのグローブ座が再建されて、テムズ川のほとりにある。年末年始の寒い最中、ホテルからバスに乗って、やっとたどり着いたのは、予想を超えた劇場だった。立派な建物は舞台を取り囲む座席と、空が見える1階席の空間から成っていた。どう見ても、椅子らしいものはない。当時はこの空間に人は立って見ていたという説明を聞いても、釈然としない。何しろシェイクスピアの演劇は、2時間はかかる。昔の舞台はかなり早口だったというが、それでも立ち見とは・・・。私はシェイクスピアが好きで、殆どの作品を読んでいる。37編の戯曲と、157編のソネット(14行詩)を書いたシェイクスピアだが、流石に中にはつまらないものもある。しかし、それらも含めてシェイクスピアであって、そういう作品に触れると、4大悲劇をはじめとする有名作品が、いかに優れているかよく理解できる。などと、知ったようなことを考えている私にとって、彼女の発した地名は深く胸に刺さったのである。大体ストラットフォード・アポン・エイボンなどという言葉がすっと出てくること自体が面白くない。私はアポン・エイボンという名前だって、やっと覚えたのである。どうせ旅行会社か何かのパンフレットを見て覚えたんだろう、と高をくくったのだった。「アポン・エイボンに、シェイクスピアの生家が今も残ってるの知ってる?だから行きたいのよ、やぁねぇ。」ときた。この女の正体は何者なのだろうと考えていると、妻が口を挟んだ。「Mさんの大学の卒業論文、シェイクスピアなの知らなかったの?」

アポン・エイボンの教会に、シェイクスピアは埋葬されている。その地は、コッツウォルズから北へ向かった小さな村で、今回の1泊旅行でも充分行けるので、行くことになった。それが発火点になって、イギリス行きが決まったと言っていい。そうなると、折角ロンドンに行くのだから、ということで、“ロイヤル・バレエ”を観ることになった。Mさんの言うには、ロイヤル・バレエはコール・ド・バレエ(群舞)が良くないと言う。確かにボリショイ・バレエに比べれば、良くないかもしれないが、ボリショイ・バレエが世界で群を抜いていると言った方が正しい。10日間の旅行は、つまり、ロンドンに5日間、パリに3日間ということになると、ロイヤル・バレエが観られる日も限られている。予定を調べながら、妻が言った。「いやだぁ、行ける日は『フランケンシュタイン』よ。」『フランケンシュタイン』は、ロイヤル・バレエの新作である。第1幕は解剖室の設え。主役のフランケンシュタインは、人間の興味によって作られた怪物である。しかし作品は、悲劇の主人公フランケンシュタインにスポットライトを当てる。最後には、同情をもって作品が終わるが、やはりあまり気持ちの良いものではない。しかしこれが意外と人気があるらしく、再演が繰り返されている。コッツウォルズから帰った次の日にバレエ鑑賞を予定していたが、その日の演目がこのフランケンシュタインだったのだ。1日ずらすと『ロミオとジュリエット』が上演されるので、この日に行くことにした。ロイヤル・バレエのチケットは約2ヶ月前に発売される。発売日になんとしても取らないといけない。手元にあるダンス・マガジン誌3月号のロイヤル・バレエ『フランケンシュタイン』のカレンダーを見ると、3月5日、8日、11日、12日、15日、18日、20日、23日は昼夜2公演と記されている。つまり9公演。勿論バレエ・ダンサーはほぼ日替わりで、プリンシパルは2回から4回程出演する。体をめいっぱい使うバレエでは、連続して公演するのは無理である。5月1日の『ロミオとジュリエット』も人気公演で、10公演近く予定されている。1日の違いで『フランケンシュタイン』の呪いを逃れた私達は、次の苦労に直面することになった。2月末日、いよいよチケットの発売日。時差の関係から、PM6:00に、テーブルの上に置かれたノートパソコンのスイッチを入れた。

「あれっ?!なんでこんなに売れてるの?!色がついてるところが空席?」

色のついている座席表は無残にも虫食い状態で、4人並びの席は全くない。1階席は15枚程度、2,3階席の正面は全くなく、両サイドに5,6席ずつ。2人ずつに分ける作戦で見ると、何とか1階両サイドに2枚ずつ残っている。早く取らないと誰かに取られてしまう、と私が言うと、「大丈夫だよ」と妻が言うので、問答してもう一度取るつもりの席を見ると、色のついた2席が目の前で白色に変化。「大丈夫じゃないじゃん!」と私。2人ともいきり立っている。やっと取れたのは、2席つながりの4枚。他の日は観られない(パリに行くので)が、一応見てみると、殆どが同じ状態だった。発券当日の売り出し開始時間に、この状態だった。「そういえば、今日は一般発売開始だけど、会員とか、オペラ・ハウスのサポーター達の発売は、1ヶ月前からやっているんだよ。」と妻は言った。

日本でバレエが好きというと、相手はなにか独特の反応を示す。しかし、ロイヤル・オペラハウスの観客は、男性が多い。プリンシパルが難度の高いダンスを踊ると、ブラボー!の嵐。カーテン・コールの時は、立ち上がってブラボー!と拍手の嵐。これは、ボリショイ・バレエも同様。男性客が多く、騒ぐのはここでも男性のみ。ロンドンでは、ロイヤル・バレエの『ロミオとジュリエット』、パリでは、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)で新作バレエ。新しい方のパリ・オペラ座(バスティーユ)でオペラを2回、『カルメン』と『魔笛(まてき)』を観ることになった。パリには国立のパリ・オペラ座が2つある。有名なパリ・オペラ座は、“ガルニエ宮”という名前だ。ここはパリの中心部にあって、オペラ座通りにある。絢爛豪華なガルニエ宮は、誰でも知っている。オペラ座といえば、「パリ・オペラ座」で、外観も内部もその凄さに圧倒される。正にオペラ座の王である。しかし面白いことに、このオペラ座、あまりオペラをやらない。バレエが中心なのである。年々オペラの演出は凝ってきて、更に収容人数の問題もあって、オペラ座のオペラは、バスティーユにある超近代的なオペラ座でやっている。

モーツァルトのピアノ(モーツァルト・ハウス)

さて、パリのオペラ座(バスティーユ)で観ることになった2つのオペラのうちの1つ、モーツァルトの『魔笛』について記してみよう。所謂4大オペラというのは、『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』であるが、彼のオペラは20作品を数える。上演されるか、CDの録音は圧倒的にこの4作品が多いが、それでも『イドメネオ』『後宮からの誘拐』『ティート帝の慈悲』なども、CDカタログには結構な数で載っている。ちなみに、4大オペラの1曲の演奏時間は、3時間前後を要する。彼は35年の生涯に、626曲を作っている。モーツァルトの正式名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトで、生まれはオーストリアのザルツブルグ。音楽に興味のある人は、ピンとくるはずである。“ザルツブルグ音楽祭”は、モーツァルトの生まれた故郷の音楽祭だ。残念ながら、当のモーツァルトはこの地が嫌いで、後にウィーンに出ていく。この音楽祭は、モーツァルトを元手にして作られたものだが、誰もが知っているように、1920年に作られた街おこし的発想による。確かにこの街に行ってみると、かなり狭い地域に全てのものが密集している。彼の生家も残っているから、観光地として、夏は音楽祭で世界の注目を集めている。音楽の世界では名前が轟いているにしては、どこか寒々しい雰囲気を感じる。大指揮者カラヤンも同地の出身。彼の家も残っている。この地を嫌ってウィーンに出て行ったモーツァルトは、たがが緩んだように浪費を始める。亡くなる頃には、借金生活者となって、人生を転げ落ちるようにして最期を迎える。最後の作品は、超名曲の『レクイエム』K626。35歳で亡くなる僅か前、ねずみ色の外套を羽織った男が、モーツァルトの家のドアを叩く。彼が注文したのがこの『レクイエム』。喉から手が出るほど金が欲しいモーツァルトは、命を削って、最後はベッドの中でも作曲を続けた。全体の半分ほど作曲して、亡くなってしまったから、未完の作品。しかしこの『レクイエム』の美しさと、恐ろしさは、言葉でも文章でも表現不能。その『レクイエム』と平行して作曲したのが、歌劇『魔笛』K620である。こちらは一転して童話仕立ての作品。つまり、近づく死に向かいながら、死の世界の音楽と、童話的なオペラを作曲していたことになる。『魔笛』とは、読んだ通りで、魔法の笛の事だ。この笛を持って、苦難に直面し、数多の試練を通って、王子タミーノと、夜の女王の娘タミーナが結ばれるという話だ。この中心を成すのが、モーツァルトも属していたと言われるフリーメイソンからの影響だ。例えば“3”の重用とか、友愛や沈黙、忍耐といったものが中心的部分を成す。その台本は、シカネーダが書いた。このオペラの音楽というのが、やたらに楽しい曲で、すぐに口ずさみたくなる一方、崇高な音楽も繰り返し出てくるので、2時間50分程の曲は瞬く間に終わってしまう。初演は死の2ヶ月前、指揮はモーツァルト本人。シカネーダもパパゲーノ役で出演した。ウィーンにあるアン・デア・ウィーンという劇場は現在も残っていて、毎日のように公演が行われている。入口付近は現代風に改築されているが、一足内部に入って細い階段を昇ると、何と200年前の舞台と客席が入場者を圧倒する。現代の劇場からすると、中劇場程度の大きさだが、これほど豪華で、かつ、美しく保存されている事自体感動を呼ぶ。この劇場、ウィーンの中心部といっても、かなりわかりづらい場所にある。正面から見ると、近代建築風なので、昔のオペラ・ハウスには見えない。後ろに回ったり、側方から見るなら、200年前の建物である。劇場正面から見て右側にも入口があって、この入口はパパゲーノ門という名前がついている。正確な事は分からないが、この劇場はモーツァルトが死んで10年程後に、シカネーダも参加して造られたと言われている。シカネーダは多才な男であり、シカネーダが芝居一座を率いて、それなりの人物であったとしても、彼個人の力でこんな建物が出来るわけがない。しかしパパゲーノ門という名前がついているのは、シカネーダの台本で作られた『魔笛』に関係していることを暗示している。尚、このアン・デア・ウィーン劇場ではベートーヴェンも自作を初演している。

アン・デア・ウィーン劇場、パパゲーノ門

ここまでモーツァルトに関して、その一部を駆け足で記した。『アマデウス』という大作映画は、観るに堪える作品であり、私自身も何度となく観ているが、終盤になって“ねずみ色の外套を羽織った男に注文された”とする『レクイエム』と『魔笛』が描かれている。そして選曲も憎いほど的確で、涙を誘う。妻・コンスタンツェはとんでもない女である、というと、反論があるかもしれない。しかしモーツァルトの墓がなく、共同墓地に埋葬された場所すら特定できないのは、葬儀当日に雨が降っていた為に、墓地の門までしか付いて行かず、そこから直ぐに引き返してしまったという話も、あながち作り話とも思えない。タイトル・ロールの流れる間、演奏されるのは彼のピアノ協奏曲第20番の第2楽章である。この映画で使われている音楽を聴けば、モーツァルトの凄さが理解出来ること請け合いである。

ザルツブルグの市内に、モーツァルトの生家というのが残っている。生家というのだから、この家は両親の住んでいた家ということだ。モーツァルトがザルツブルグの大司教と大喧嘩をして、ウィーンに出たのは自分の意志だった。彼の住んだ家というのも残っていて、これはウィーンの中心地にある。映画で観るほど豪華ではないが、それでも間取りは広く、当時としては立派な住居だ。希望に溢れて、憧れの地に住み、天才と謳われた青年は、人気があった。それは子供の頃から、父・レオポルドに連れられ、ヨーロッパを周って、早熟さをアピールし、作曲をし、また曲芸のようなピアノを弾いていたからだ。一説によると、最高年収は日本円にして、3千万円程だったという。

ハイリゲンシュタットの遺書の家

1700年代後半でも、音楽家は独立することが出来なかった。先輩のハイドンですら、エステルハージ候の宮廷音楽家だった。束縛はないにしても、それなりの義務は存在していただろう。その意味でも、モーツァルトは独創的だった。この後に続くベートーヴェンも、従来のしきたりから解放され、独立することを考えて、ドイツのボンからウィーンに来たのだった。ベートーヴェンの場合は、ピアノ教師としての能力と、ある程度の支援を得られたのが幸運だったが、モーツァルトの場合彼の性格からして、地道な努力ということが出来ない。それでも、誰にも出来ない“天上の音楽”を作る能力と、現代まで彼を超える音楽家がいないとするなら、これこそが正真正銘の天才といって差し支えない。彼の作る音楽は、人間の作りだす音楽ではない。神はある意味で、軽率な男に音楽に関する全てのものを与えたもうたのである。しかし、芸術家というものは、凡人には理解しづらい側面を持つと同様に、わかりやすい面も持っている。数十年後輩のベートーヴェンといえば、モーツァルトと並ぶ大音楽家であるが、全く異なった個性を持っていることは、誰でも知っている。若い頃のベートーヴェンもウィーンに出てきて、初期の頃はとてもはつらつとした音楽を書いていた。30才を過ぎた頃から耳に異常を感じて、最終的にはほとんど聞こえなくなった。その頃“ハイゲンシュタットの遺書”を書いたのは、音楽家にとって最大の問題が発生したからだ。その「ハイリゲンシュタットの家」というのも現存している。恐らく私だけではないと思うが、この家、とてもロマンチックな少女趣味ともいえる家に見える。その家の2階に住んでいたというが、2階に上がるのに外階段を利用する。外階段も洒落たものだが、2階の窓からも可愛らしい中庭が見える。知っての通り、ベートーヴェンは引っ越し魔だった。この家の大きさからみて、夏の間に利用したのだろう。そしてその側には、有名なホイリゲ(白ワインを呑ませる居酒屋といったところか)があって、よく通っていたという。ロマンチックな2部屋の家には、料理のスペースがあったとは思えない事からも納得できる。ハイリゲンシュタットという小さな村の側を小川が流れている。その小路を、ベートーヴェンは後ろ手に組んで散歩していたという。現在は全て舗装されているが、その村の配置から見て、200年前と変わっているとは思えない。ただ、道は土であっただろう。道の両端には家が建ち並んでいる。ピッタリと。うまく言えないが、小さな村が、まるで区画整理されたように、整然と出来ていると言ったらどうだろう。この小川の側を歩いていたベートーヴェンは、ある着想を持った。第6交響曲「田園」はこうして生まれたという。数十年前、クラッシック音楽ファンは、「こんなにテンポの速い演奏なんてあるか。まるでオートバイに乗っているみたいだ。」とカラヤンを揶揄したが、現地に行ってみると、我々を乗せたタクシーは、この村の中をスイスイと走り抜けて、ウィーンまで運んで行った。ウィーン市内からハイリゲンシュタットまで、市電で約30分位、ホイリゲで有名なグリンツィングまでも同じ位の距離である。現在は地下鉄も走っている。グリンツィングも、ハイリゲンシュタットも、アルプスの麓の村である。風景としても、『サウンド・オブ・ミュージック』(ザルツブルグで撮影)のような感じである。

ベートーヴェン繋がりで言えば、彼が歌劇『フィデリオ』を書いた家というのが残っている。ウィーンといえばリング(環状道路)で、この中と外周に昔の街がある。リングの上を、赤と白の路面電車が走っている。ウィーン国立オペラ座を中心として、ウィーンの街を一周するのである。トラム(路面電車)に乗る為には、あちらこちらにある窓口でチケットを買う。観光の人々は、1日券や2日券を買えば、トラムもバスも乗り放題だ。ウィーンの不思議は、ここで発揮された。ヨーロッパでトラムに乗るのは、1番効率の良い方法だ。重心が低く、何両も連なった大きな車両が、クネクネと蛇のようにうねりながら街中を走る。停留所には電光の時刻表があり、そこに各方面行きのトラムがそれぞれ行き先の番号を付けて入線してくる。運行状況は手に取るように分かる。バスも同じだが、ウィーンのトラムは、他の国のものと少し違う。ここのはトラムというより、路面電車といった方がピンとくる。全体的に車体は細く長い。ヨーロッパでよく見るトラムは、寸胴で一両が短く、それが何両も繋がっているので、蛇状の動きをするが、ここのは昔、東京で走っていた都電に近い。都電をもう少し細くして、1両でなく2,3両繋がった感じ。正面から見ると、私の感覚では、“能”の『若女』の面(おもて)の様。だから私は心の中で、“ウィーンの若女”と名付けている。どうしてウィーンのトラムだけが、こんなに流行遅れの形なのか?それはリングのせいである。ウィーンという街は、1周5kmの内と外に出来た街である。昔、城壁のあった所に、リングという周回道路を造ったのを利用して、その上をトラムが走っている。外回りと内回りの2本の線路は、これ以上広げるわけにいかない。何しろ、車もバスもこの道路を走っている。つまり、トラムを走らせたくても、物理的に無理である。(ただし、現実には新型トラムも走っているが、他の街のものと比べると、少し小さいように思えた。)時代遅れの路面電車は、ウィーンの街にとてもよく似合う。オーストリア国旗と同色の車体の白と赤も可愛い。実はこの路面電車、全て無料なのである、と思うととんでもないことになるらしい。トラムは平らな駅に次々と入線してくる。ドアが開くと(ほとんどが自分で開閉のボタンを押すタイプ)、入口に“打券機”という小さな機械がある。持っているチケットを、この小さな機械に入れると、“ガッチャン”と大きな音がしてマークがつけられる。降りる時も同じだ。しかし、ウィーンで乗客が打券機にチケットを入れるところを、見たことがない。皆、平然と無視して乗り降りする。たまにガッチャンという音がすると、全体がそちらに耳を向ける。その音にひかれてそちらを見ると、どう見ても観光客である。変なところで潔癖症の我ら2人は、それでも駅のキヨスクらしきところで、1日券を買った。キヨスクの人も、当然のように金額を受け取って、チケットを渡す。一体どうなっているのかこの街は。何日もウィーンにいると、いつしかウィーンっ子のように、打券機を無視するようになった。(これに反して、地下鉄は車内にチケットのチェックに来る。空港からウィーン市内までの直行特急列車ではチェックにあった。)ウィーン国立歌劇場駅は、路面電車が各方面から集まってくる中心地だ。ウィーン国立歌劇場を正面に見て、右側の道を北に向かうと、シュテファン寺院がある。この道はケルントナー通りで、人々が集まってくる所だ。モーツァルトがウィーンで死をむかえた家はこの近くで、シュテファン寺院の向こう側にある。モーツァルトの家の窓から外を見ると、シュテファン寺院が目の前に見える。ウィーン国立歌劇場駅から路面電車に乗って左回りに北上すると、約20分程でショッテントーア駅に着く。この駅も大きな駅で、地下駅から38番の路面電車に乗ると、ホイリゲで有名なグリンツイング駅に着く。この駅にも20分強で行ける。途中で分岐すると、ハイリゲンシュタットに着く。(尚、マーラーの墓は、グリンツィングの近くにある。)

話をショッテントーア駅に戻そう。この駅からブルックナーがよく利用したというホテルまで3、4分。私たちはこのホテルに泊まった。このホテルの外壁面には、ブルックナーのレリーフがはめ込まれている。駅から市内に少し戻るように歩くと、ベートーヴェンが住んでいたマンションがある。4階の全フロアを彼は借りていた。4部屋続きで、建物をほぼ1周出来る。この窓から見ると、ショッテントーアの中心部が見晴らせる。目の前には緑があって、このマンション自体、平地から階段を昇って行くので、このあたり一帯も緑が豊かだ。この家も白が基調で、美しい建物だ。ただ、1階の入り口から入って、ベートーヴェンの住んでいた4階まで、螺旋階段で昇るのにかなりの重労働になる。彼は独身だったから、料理を作ったり、ごみを出したり、間違いなくあの階段を昇り降りしていたはずだ。こんな環境のいい住まいであるが、ウィーン市内には近く、アン・デア・ウィーン劇場にも近い。シューベルトも、ウィーン・フォルクス・オーパー(ウィーン国民歌劇場)の近くに住んでいて、これも、路面電車の駅に近い。

おらんだァー③

フランスのワインといえば、ボルドーワインとブルゴーニュワインだ。ボルドー市は大きな街だ。ワイン好きからすると、街よりもブドウ畑を想像するだろう。実はこの古くて立派な街の側を、ガロンヌ川と、ドルドーニュ川が流れ、その周辺にあるブドウ畑で産出されるのである。ガロンヌ川にはグラーブ、貴腐ワインのソーテルヌ。ドルドーニュ川には、ポムロールやサン・テミリオンなどがある。この2つの川は、ボルドー市の少し下流で合流してジロンド川になって、大西洋に注いでいる。ここのワインは赤ワインが中心で、基本的にはカベルネ・ソーヴィニオンかメルロー(ブドウの種)をベースにして、ブレンドして作る。味は濃厚で、渋みもある。色は深いワイン・レッドである。

片やブルゴーニュワインは、フランスの中央部東寄りに細長く伸びている地方である。

現在ではディジョンからリヨンの北辺りまでだが、昔はディジョンの北西部まで伸びていた。最盛期には、フランドル地方(オランダ南西部、ベルギー西部、フランス北部)まで拡がっていた。ブルゴーニュワインは、ピノ・ノワール単品が主で、フルーティで色調も薄い。私はここでワインの話をするつもりはないが、しかし、ブルゴーニュといえばワインを連想するのは自然な事だ。この地方は、昔、ブルゴーニュ公国と言っていた所であることに気付く人は多いだろう。フランス・ワインといえば、ボルドーとブルゴーニュがすぐ思いつくのだが、そのロケーションは明らかに違う。ボルドーの方は、ジロンド川の側であるから大西洋に面している地域である。片やブルゴーニュは、フランス北部、ベルギー西部、オランダ南西部に接している。これらにルクセンブルクを加えると、ベネルクスである。オランダを語るにはベネルクス三国を知らねばならないだろう。それを更に深めるのには、ベルギーを知る必要がある。地図で見ると、ヨーロッパの中央に位置するのが、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの国々だ。ヨーロッパの交差点と言われるベルギーは、複雑な国だ。そもそも、オランダ語を話す人々と、フランス語を話す人々が同居していることから、話が込み入ってくる。ベルギーは、ドーバー海峡を渡るとイギリス、南に向かえばフランス、東にはドイツという地域にある。ヨーロッパの交差点に位置するこの国は、紆余曲折の中、やっと1830年に独立した。しかし、常に不安定な国情は、現在でも変わっていない。EU本部、NATOなどの機関が集まっているのは、この国が内政、外政共に中立をもって和を成しているからである。そもそもこの国は、15世紀にブルゴーニュ公国として初めて国らしいまとまりを見せたが長続きせず、1568年に始まるスペインからの独立戦争によって、決定的に分裂することになった。オランダは宗教改革時にプロテスタントの国として独立し市民国家になるが、一方スペイン領として残った南部カトリック地域は、オーストリア、フランス、オランダに支配された。歴史に良く出てくるブルゴーニュ公国は戦争に敗けて、フランスに吸収されたから、フランスの2大ワインの産地となっているのである。オランダは日本の九州ぐらいの面積で人口1600万人ほど、ベルギーは四国より少し大きい国で人口は1100万人ほど、ルクセンブルクにいたっては神奈川県ほどのところに人口60万人だ。フランスから見れば、隣の小さな国がベルギーであり、その隣はオランダということになる。ちなみに、フランス・パリ北駅からブリュッセル南駅まで電車で1時間30分程、ブリュッセルからアムステルダム中央駅まで高速列車タリスで1時間50分ほどかかる。ブルゴーニュワインは、そんなところで産出されている。ブルゴーニュワインの中心地は、コート・ドール地区の都市ボーヌだ。ブルゴーニュワインの優れたものは、この地区から産出する。つまり、長いブルゴーニュのほぼ上半分が高級ワインの産地である。それはコート・ド・○○という名称を持っているものが多い。シャブリは世界中で飲まれる白ワインだが、ここだけディジョンの北西部の小地区である。ついでに言うと、ボジョレー・ヌーボーで有名なボジョレーワインは、長いブルゴーニュの最下端にあり、リヨンに近い。オランダやイギリスに行くと、文化的な喜びを得られる代わりに、食生活に困り果てる。それを覚悟で行ってもである。フランスでも特にリヨンというところは、美食の街であるという。あのポール・ボキューズの出身地であり、街並みも食べ物も、群を抜いているように見える。(私個人の考えではあるが、いつかリヨンに行ってみたいと考えている。そこまで行けば、アムステルダムにまた行けないこともないだろう。)

話が逸れた。“ボーヌ”はワイン好きにはたまらない響きだ。所謂コート・ド・ボーヌである。ブルゴーニュワインの中心地、コート・ド・ボーヌは、フランスの東の外れにある。ということは、ベルギーに接するように存在しているはずである。なにしろ昔は“ブルゴーニュ公国”だったのだから。で、その右隣はオランダだ。ボーヌは一度行ったことのある地である。「ワインの旅」でだ。随分昔の事だからはっきりしないが、オスピス・ド・ボーヌ(慈善施設院)に行った記憶があり、その中庭(?)でモーツァルトのハ長調ミサを聴いたことを覚えている。つまりこういうことになる。今回意を決して行ったオランダは、数十年前に行ったボーヌと近くであるという、驚くべきことがわかったのである。なにしろ、ブリュッセルからアムステルダム中央駅まで、1時間50分だ。多く見積もっても3時間とかからない。物を知らないというのはこういうことなのか・・・と、呆れかえってオシマイ!!

おらんだァー②

クレラー・ミュラー美術館

コンセルトヘボゥ管弦楽団の作りだす音楽は、このオーケストラにしか出せないものだ。というよりは、このオーケストラによって発酵させられた何か、である。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団には、ウィーンの宮廷のテンポとリズムが、芳しい音と相まって現在に伝えられ、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団にも、古式豊かな音楽が伝わっている。これは最近言われるように、以前と比べると、その特徴が弱まっていることは認めるものの、かといって、その他のオーケストラでは代用できない。このオーケストラのCDの録音と、その最新処理されたCDを比べると、意外なことに気付かされる。大げさな言い方をするなら、オーケストラの音が良くなってしまったのである。音が良くなったというのは、かなり誤解を生む言葉だが、オーディオ的に良くなったと言い換えた方がいいかもしれない。

一つの例を挙げてみよう。1951年録音のブラームス。正確に言うなら、1951年にアムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団が、ファン・ベイヌムと入れた、ブラームスの第一交響曲(日本ではロンドン盤モノラル)。当時の録音としては、モノラルながら優秀である。この古い録音盤は、リマスタリングなど施されていないから、きわめて自然な音楽が聴ける貴重なものだ。ここから聴こえる音楽は、正にコンセルトヘボゥ管弦楽団そのものである。モノラルであっても、古い録音であっても(音が悪い録音であっても)。現在の技術をもってすれば、この録音を更に優秀な録音にすることは可能である。そして、現にどこのCD会社も(SACD等)、手を変え品を変えて、再発売を繰り返している。これらを聴いてみて、やはり“最新技術ってすごいなぁ~”とは思いながらも、どこかに違和感をもっているのも事実だ。くま取りのはっきりした、低音が強調され、中域がはっきり前方に出てくるような、うるさい位に高音が騒ぎ立てる音は、一聴すると“流石”と思わせるが、二度と聴く気にさせられない音楽でもある。そういうやり方を好む人々がいるから、手を変えて再発売を繰り返すのだろう。オーディオ的にはいい音であっても、音楽的にいい音でなければ、芸術という世界は再現させられないとするなら、手を加えれば加えるほど、“濃い音楽”は出来るものの、実際の姿から徐々に遠のいていく。私は、クレラー・ミュラー美術館でそのことを考えながら、ゴッホを見たのである。パリに出てきてから、彼の芸術は明るくなり、色調も変わったことは事実である。それは初期の作品、「馬鈴薯を食べる人々」の暗さから、後期に向かって変化をし、印象派に影響されたものの、大都会を去った後の「夜のカフェテラス」の鮮やかな黄色や青、その劇的な色彩に目を見張るのは、誰でも同じだろう。やはり自分もそうしてきた。それが、加工された写真や、画像処理をされたものとは露知らずである。それを知ったのは、クレラー・ミュラー美術館の自然光によってである。

天井から入り込む光たちが「夜のカフェテラス」や「星月夜の糸杉のある道」、更には、「郵便配達夫ルーラン」をしっとりとさせていた。それらの絵は、ごくひっそりと美術館の壁にかかっており、傍に近付いて確認しなければならないほど、控え目に見えた。しかしながら一度その絵に見入ると、時を忘れるほど見続けていて、館内を一周してそこに戻り、更にもう一度という風になってしまう。目が痛くなるほどの強烈な明るさや、神経に触るようなトゲトゲしさは全く感じさせない色調は、この人がやはりオランダ人であることを再認識させたのである。「馬鈴薯を食べる人々」のどうにもならない暗さは、小国オランダの人々の強さであり、そこで育った人は、どこに行こうと、やはりオランダ人なのではないか、とも思った。

アムステルダム美術館

アムステルダム国立美術館は、寸詰まりのアムステルダム中央駅のように見える。というより、中央駅があまりに立派なのである。この2つの建物はカイベルスの設計である。寸詰まりではあるが、その正面に立って見ると、驚くほど美しい建物で、17世紀オランダ黄金時代の絵画コレクションでは、世界随一を誇っている。ここでは、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」、レンブラントの「夜警」、同じくレンブラントの「ユダヤの花嫁」が必見だ。

1634年、28才のレンブラントは、美人妻として知られるサスキアと結婚した。その後、33才で豪邸を購入。1642年、あの「夜警」を描いた。この頃日本では、徳川家光の治世である。家光は社会の安定を図っていたが、旗本の処遇、浪人の増加など、苦労の種が途絶えなかった。しかし、特に京、大阪では、商人が台頭し、1639年には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が描かれた。オランダも日本も、商人の力が台頭して、芸術文化が発展した。

レンブラントの「夜警」は、巨大な絵画で見るものを圧倒する。画家絶頂期の大作で、36才の時に描かれた。これはこの美術館を代表する作品である。30才で他界した妻サスキアの後で注文されたという。

次にフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。あまりに有名だから、簡単に書こう。画面左側の窓から射し込む淡い光。当時の厚いガラスによって効果的だ。人物はいやでも浮かび上がっている。青(ラピスラズリ)と黄色の対比、流れ出る牛乳の永遠さ、光の反射は白い絵の具で表現している。先に記したデルフトの「フェルメールの窓」からの光がこの光だろう。

レンブラントの「ユダヤの花嫁」は、晩年の傑作だ。光と陰で劇的な“瞬間”を表現したレンブラントが、ここでは金と赤を多用している。絵の具の厚塗りによって、立体的なイメージにもなっている。

他にフェルメール「デルフトの小路」、「青衣の女」「恋文」

ヴァン・ダイクの「王子ウィレム2世とメアリー・スチュアート」がある。

そして、

フランス・ハルス「陽気な酔いどれ」、「イサーク・マッサ夫妻の結婚肖像画」

ロイスダール「ウェイク・ベイ・デュールステーデの風車のある風景」

※17世紀後半の風景画である。これ以前は、宗教画などの背景にすぎなかったものが主役になり、見た通りの自然な色で描くようになった。

マウリッツハイス美術館

アムステルダム国立美術館と、マウリッツハイス美術館には、レンブラントの自画像がある。マウリッツハイス美術館は、小さいながらも素晴らしい作品揃いだ。何と言っても、1669年に描かれた、レンブラントの《自画像》が素晴らしい。同年に自画像を2枚描いていて、それがロンドンとフィレンツェにあるが、この《自画像》はことのほかいい。ここの絵は、年老いながらも残酷な人生の仕打ちに耐えてなお前向きな意思を感じさせ、また、技術的にも意欲においても、この時彼がしっかりしていたことを表している。1669年は、レンブラントが亡くなった年だから、これが最期の作品になったかもしれない。その目でじっとこちらを見られると、おろおろする自分に気付く。かたやアムステルダム国立美術館のレンブラントの自画像は、《聖パウロに扮した自画像》である。これは55才の自画像である。55才といえば、“破産宣告”を受けた後の自画像だ。つまり、豪邸を手放して、屈辱のうちになお生きようとしている自画像だが、その内面の葛藤と諦め、あるいは、自虐的な感情が、見るものを圧倒する。

しかし、何よりもこの美術館の売りは、フェルメールの〈真珠の耳飾りの少女〉である。

あまりにも有名な絵画だ。これが1881年のハーグの美術競売所に出るまで、全く無名の作品であり、デ・トンプは2ギルダーと手数料30セントで入手したという。1902年、彼の死後、マウリッツハイス美術館に寄贈したものである。もう1つのフェルメールは〈デルフトの眺望〉だ。これも説明の必要がない位、有名なものである。

日常生活を描いたヤン・ステーンのものもある。

ヤン・ステーン
〈牡蠣を食べる娘〉
〈養鶏場〉
〈老いが歌えば、若きは笛吹く〉
〈モーセとファラオの王冠〉
ファン・オスターデ
〈ヴァイオリン弾き〉
フランス・ハルス
〈笑う少年〉

と、この小さな美術館の内容は素晴らしいが、その建築がまたすごい。外観はもとより、内装の素晴らしさは、そう見られるものではない。ヨーロッパでも有数の美しい美術館として知られている。

おらんだァー①

おらんだァー

日本からほぼ1万キロ。ヨーロッパの国々までの距離である。

「これだれんだぁ~」

「おらんだァ」

というのが、私の小さい頃よく下町で使われていた。たわいのない子供の掛け合いである。戦後すぐに生まれた私たちの世代、いわゆる“団塊の世代”では、特に有名だった。これを知らない人は、この世代にあらずと言っていい。まさかこの“おらんだ”に、自分が行くことになるとはつゆ知らず、生活をしてきた人間にとっては、青天の霹靂なのである。私が知っているのはKLMオランダ航空、チューリップ、風車、ぐらいなもので、大体ヨーロッパのどの辺りにある国かさえも知らなかったのだから世話もない。

私の父は東急百貨店勤務(元は日本橋白木屋に入ったが、後年、東急系列に買収)で、婦人服の専門をしていたらしい。どういうわけか、この父がなにかにつけて、“オランダ人はデカイ”というのも聴き慣れた言葉だったから、これもオランダに加えていいだろう。その後オランダとは何のかかわりもなかったのだが、18才の時に「さまよえるオランダ人」という歌劇を聴いた。ワーグナーの初期の歌劇で彼特有の「愛の救済」の物語である。この筋書きは、これから書き進める文に多少なりとも関係を持つから、簡単に記しておく。

「1843年に作曲されたこの曲は、バイロイト音楽祭では、初期のオペラとして上演され、それ以前の曲は、寡作という分類にされていて、上演はされない」

18世紀のノルウェーの港町。貞節を捧げる女性が現れるまで、7つの荒海を彷徨うことを運命づけられた、幽霊船のオランダ人船長が、7年に一度だけ許される上陸の機会に、港町の娘・ゼンタの献身的な愛によって、神への冒涜を解かれる、というもの。

この序曲は、初期ワーグナーの名曲で、よく演奏される。出だしから強烈な音楽で、小さなオランダ船が、荒れ狂う海の中をさ迷い歩く風景を描写し、コーダに入ると、オランダ人船長とゼンタの愛の救済の音楽が高らかに奏される。どう解釈しても、この曲には暗いイメージがあるが、ある意味でワーグナーらしいともいえる。繰り返し聴いているうちに、オランダ人→幽霊船→デカイ男→暗い、という連想になってしまっていた。その思いを持って、入国審査を済ませてホテルに着くと、PM4:00を過ぎていたから、外は真っ暗。予約していたレストランの中は明るいものの、街全体が暗く、レストランの多くある地域にも、人がいるようにも見えない。イギリスの「地方」も暗いが、それに輪をかけて暗いのである。レストランに入っても、ホテルに入っても暗いが、よく見ると、照明器具はかなり点いているが、一つ一つの光がとにかく暗い。正に幽霊船をイメージするよう。レストランでの食事も美味しいとは言えない。これもイギリスと同じである。それでもとにかく、次の日は、憧れのアムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団が聴けるのだから、多少の事はガマンが大事だと思い直す。今回の旅行は、コンセルトヘボゥ管弦楽団を聴くための、3泊の旅行なのである。(コンセルトヘボゥとは、オランダ語でコンサート・ホールの意)

明日11月22日は、「ベートーヴェンのバイオリン協奏曲」(バイオリン イザベラ・ファウスト)と、「シューマンの第二交響曲」。指揮はヘレヴェッヘ。いつものことだが、コンサートの演奏時間は約1時間20分、休憩20分。アンコールがあっても、約2時間だ。言いかえると1時間20分の音楽を聴くために来た、ことになる。同年の4月に行った、パリ、ミュンヘンの旅も、やはり3泊で、パリでオペラ座でのバレエの公演、その次の日にはミュンヘンの国立歌劇場で「パルジファル」、これがスケジュールの限界だった。大体、バレエ公演は2時間前後、オペラもほとんどが2時間半前後だが、ワーグナーの「パルジファル」は、なんと演奏時間が4時間を超え、休憩2回で、合わせて約6時間の拘束時間になるのである。下世話な話ではあるが、4月のパリ、ミュンヘンの時は、それなりに元をとったようだった。しかしそう考えると、今回のアムステルダム行きは、1時間20分のコンサートだけだから勿体ないことになる。が、しかし、私も抜け目がないのである。オランダといえば、レンブラント、フェルメール、ゴッホ等の国でもある。調べてみると、コンセルトヘボゥ(コンサート・ホール)の近くに、『アムステルダム国立美術館』と、『ファン・ゴッホ美術館』があり、アムステルダム中央駅から電車で50分程のところにハーグという街があって、そこには『マウリッツハイス美術館』、ハーグから更に電車で10分程のところには、あのデルフトがある。この街には美術館はないが、フェルメールの家があり、そこで父親が簡易宿屋と酒場を開いていたという。現在同地には、ほぼ同じ型の建物が造られていて、2階の角部屋には“フェルメールの窓”があり、その脇に『フェルメールの家』というプレートがはまっている。誰でも知っているように、画面の左側の窓から差し込む淡い光は、この窓からのものであるという。この窓は北側に開いていて、薄暗いオランダの空とあいまって、仄かな光の変化を部屋の内側に写し出していたとも言われている。

彼の30何枚かの絵の中に、風景画が2枚あるが、その2枚は、この、デルフトの風景なのである。1枚は“デルフトの小路”、もう1枚は“デルフトの眺望”。この“デルフトの眺望”の方は、現在でもその場所が残っている。ここは観光地としても有名で、フェルメールその人が、ほぼ400年弱前に立って観ていた風景を、我々も見ることが出来る。ここにも、その場所にその旨を知らせるプレートが立っていた。「フェルメールの家」との繋がりで言うなら、「レンブラントの家」というのもある。これもやはり町の中心部に現存している。ほぼ400年を経た建物は、驚くほど美しい。デルフトという小さな街と、アムステルダムという都会では、地価もかなり差があったろう。その地のほぼ中央部にあるレンブラントの豪邸は、工房も兼ねていたと言われる。「夜警」もここで描かれ、後年の作品もこの工房で画かれたのだそうだ。1639年、33歳だったレンブラントは、この豪邸をローンで購入し、弟子の数も40~50人いたと言われる。1656年、50才の時、破産宣告を受けたのは、肖像画の注文が減り、借金の返済が出来なかったからだ。美術品コレクションや、自身の作品の一部を手放すが間に合わず、豪邸も処分せざるを得なくなったのだ。更なる不幸が彼を襲う。62才の時だ。妻サスキアの残した一人息子、テイトウスに先立たれてしまう。26才だった。残された妻は身籠っており、翌年、レンブラントには孫娘が誕生した。それを見ると、急速に衰えたレンブラントは、困窮のうちに死去してしまう。50才で豪邸を手放して、街の西の外れ、ローゼンフラウトの家でのことだったという。63才だった。しかし、愛するサスキアが30才で亡くなった後、レンブラントは若い使用人に手を出したり、関係が切れる前に、また別の女性に手を出したりしている。それは裁判にもなって、有名にもなってしまった。そこだけを見れば、いわゆる結婚詐欺ともとれる内容である。ゴッホも自画像をかなり残しているが、レンブラントも相当残している。共に人生の厳しさを見事に表現しているが、レンブラントの最後の自画像は、見る者の目を固着させてしまう。あんな表情は、どうやったって出来るものではない。人間の内面にたくわえられた表情が、じわじわと滲み出ているのだ。良いことも、悪いことも含めて。そうだった。レンブラントは、人間の内面を表現する画家だったのだ。現在では”レンブラント・ライト”というほど、彼の使った光のマジックは有名だ。そのことを考えると、フェルメールも同じで、あの窓から入り込む光の具合を見事にとらえていた。

オランダの空と、寒さと、日の当たり具合は微妙で、直接の光はほとんど望めない。霧か霞がかかったような冬の1日は、朝9時頃にやっと明けて、もう4時を待たずに薄暗くなってくる。本当に、4日間の滞在で太陽光が射しこんだのは、30分もなかった。暗いか、明るくなってもボーっとした1日。我々日本人にとって、とても考えられるものではない。

アムステルダムに17年程住んでいる日本人の女性ガイド(Aさん)がこう言ったのはとても納得ができた。

「こちらの方は、仕事をしている中に休憩時間が何回もあって、のんびりしているんです。時間にもあまり頓着しないので、待ち合わせをしても、ピッタリとか早目に来ることはあまりないです。お店に行って会計をして、間違っていても向うから謝るということは少ないです。レシートを渡したんだから、チェックするのは客の方だ。だから間違っていたらその場で言うのが当然、と考えるのです。だからレジに並ぶと、客の方が一生懸命にレシートをチェックするのです。」

もう一人の男性ガイドBさんは、2年前に日本から家族5人(ご夫婦と女の子3人)で移住されたのだが、

「私は英語もオランダ語も話せないんです。でも思い切って、2年前に家族5人でこちらにやって来ました。なぜかって?どこでも良かったんですけど、でもオランダに決めたんです。女の子3人いるでしょう?あ、また1人増えますからね。子供の教育費を考えますよ。こっちは教育費ってものがないんです。」(奥さんは英語が話せるとも言っていた。)

17年住んでいるという女性ガイドAさん

「こっちは住みやすいんです。何しろ医療費が無料なんです。でもこっちの政府もしっかりしていて、何年間か住んでいて、オランダに貢献しないと、国外に出されちゃうって人もいます。国が色んなことをやってくれていいですけど、税金が52%とられるんです。こちらの王室は素晴らしいですヨ。ご夫婦揃って我々民間の人々と積極的に交流します。皆大好きなんです。こちらでは学校に試験ってものがないんです。宿題もない。で、子供たちに結果を求めるのではなくて、なにごとにつけても、どうしてそうするのかを訊く。それが教育の中心部を占めているようです。大学に行く、行かないなどどうでもよくて、好きな人は行けばいいし・・・・」

女性ガイドAさんと男性ガイドBさん共通の話

「日本で英語話せる人って、どのくらいいます?義務教育で。オランダで去年発表されたんですけど、この国、世界第2位で国民全員が話せます。それも、ネイティブにも負けないんです。ただ、通常は自分の国の言葉、つまりオランダ語ですけど。こちらでエクスキューズミーと言うと、すぐに英語に切り替えます。日本にいる時、『数学』なんて意味ないと思っていたんですが、こちらでは自分たちと思いは同じらしく、そんなもの必要なしというのです。とにかくこちらでは、日本で考えたことのないような発想をします。ところで、アムステルダムって所、つまり、アムステル川に沿ったダムという意味なんですよ。道路すれすれのところに運河が走っているでしょ?日本じゃ考えられないですよ。どこ行ったって、転落防止の柵なんて一つもないでしょ?ちょっと踏み外すと水の中ですよ。」

アムステルダム中央駅というのがとてつもなく巨大で美しい。日本の東京駅が、これを似せたと言うが、その規模は大人と小人の違いである。この周りは海だったのを、後年になって駅後方部の埋め立てをしたという。この中央駅を中心に後ろ側は海(つまり北海)。前面に5本の運河が走っていて、それが中央駅を取り囲むように走っている。なので、水の都と言うのだろう。この水路は、物の運搬のために必要なものだそうだ。

「運河に子供が落ちるでしょ?そしたら日本じゃ大騒ぎですよ。でもこの国じゃそれを見込んでましてね。学校の方針として、洋服を着て泳ぐ練習をするのです。風車って、何であるか知ってますか?あれは、治水の為のものなんです。オランダは水の高さと、街の高さがほぼ同じなので、溜まった、あるいは増えた水を掻き出すためのものなのです。そもそもネーデルランド(オランダ)って名前は、こっちの言葉で“低い土地”って意味です。あ、それから、こんなことがありました。最近、世界中に白くて大きな、4枚くらい羽の付いた風車みたいなのがあるでしょ?オランダは、あれが異常に多くあるんです。この間、日本のおエライさんが来て、何かの学会みたいなところで、その話のディスカッションっていうんですか?折角知り合ったんだから、一緒に出席してみないかって言うから出たんです。話はわかりませんでしたけどね。車に乗ってから訊いてみたんです。そしたら、こちらの質問に対して、まともに答えないって言うんです。それで再度訊いてみたら、こういう質問をしたというのです。」

日本側の質問

「あんなに大きいプロペラみたいなものをぎっしりと横に並べて設置して、危険はないのか。倒れたら誰が責任を取るのだ。」

おおまか、こんな感じだったそうです。

オランダ側の言い分

「どうしてそういう質問をするのだ。倒れてもいない物に危険があるというのがまずおかしい。我々は、倒れないように設計をして、設置をしている。」

と、険もほろろに答えたのだそうです。

男性ガイド(Bさん)

それを聴きましてね、なるほどって考えちゃいましたよ。そりゃぁ私も日本人ですから、日本側の気持ちもわかりますけど、オランダ側のように、倒れたら考えるって答えも面白かったですね。これにも、一理も二理もあると思いました。

つまり、積極的に考えるか否かなのだが、そこにオランダという小国が、世界一の海洋国になった理由があるように思えたのだった。これは、レンブラントもフェルメールにも関係のあることとも言える。世界一の海洋国だったということは、国が豊かになるということと同義語とするなら、このことがあって初めて、宗教画から市民社会中心の画家が誕生した理由であると考えることは出来ないものだろうか。

いつもの癖でこんなことを考えていたら、「風車」と「水車」が重なってイメージされてきた。私はオランダの風車を、治水の為のものだと言った。が、その反動で、日本の田舎にあった水車が出てきたのかもしれない。新ためて、小川のほとりにある水車がコトコトと音を立てる様を思い出してみると、これが治水のものであるはずがなく、何かをつく動力にしていることに気付いた。更に、シューベルトの三大歌曲集の中に、「美しき水車屋の娘」があり、青年が恋する娘は、確か粉を挽く水車小屋にいたはずだ。やはりヨーロッパでも、小川のほとりで動力として使われていたのだった。チューリップはオランダのイメージであり、風車もそうだ。それはのどかな風景であって、我々の心を和ませてくれていた。しかし現実のオランダは、暗い雲に覆われた灰色の空なのだ。女性ガイドAさんはこうも言った。チューリップって、オランダのものではないのです。それにジャガイモ、こっちのは美味しいですけど。これもアメリカって言いましたかねぇ。輸入品だそうです。それまでのオランダ人、にんじんが主食ってきいてます。流石の私も、にんじんが主食であったことに同意しかねるが、ニシンの酢漬けは、オランダの名物であり、好んで食することは知っている。豆のスープ(エルタン・スープ)等、豆も有名でアムステルダムに到着してすぐに食する機会をもった。

女性ガイドAさんはこうも言う。

「こちらの人は、食べ物あまり興味がないみたいで、お腹が満腹になることが大切なのです。」どこに行っても、煮込んだ料理とイモ、あるいはフライドポテトが大きな皿にうず高く盛り上げてある。誰でもあの量を食べるのかという質問に、あっさりとこう言った。

「あれだけの大きな体ですからねぇ。女性でも170cm以上はあるし、男性は190~200cmはあるでしょう。でも、街の中心部に行くと、大勢人々がいますが、それほど大きい人はあまり見かけないんじゃありません?ということは、ダム広場(アムステルダム中央駅の目の前の広場)辺りにも、多くのオランダ人がいるのでしょうが、殆どが観光客です。17年もこちらに住んでいると、一目でオランダ人を見極めることが出来ます。彼らの髪の毛は、あんなに黒くなくって、栗色をしているのです(栗色と言ったのかどうかははっきりしないが)。オランダ政府の目論見が見事に当たり過ぎて、外国からどんどん人々が入ってくる、これに市民はいくらか困っているのです。アムステルダムという街は、この数年で劇的変化をしています。街の中には、自動車、バス等の出入りを禁止するよう呼びかけています。いえ、政府の方針ではなくて、市民がそう訴えているのです。市街は、トラム、自転車のみにしようと。ですから、市民が政府を指導しているようなものです。」

確かに、アムステルダムは自転車が多い。自転車専用道路も立派で、車道の隣に自転車専用道路、そしてその隣に人の専用歩道がある。公害の少ない落ち着いた街を求める住人にとって、外国人の増加による落ち着きのない街は、迷惑千万なのだ。といっても、オランダ人はとても親切だという。東洋人などがちょっと困って道をさがしていると、すぐに何人も寄ってきて、世話をしてくれるのだそうだ。ただ、その奥には、自分の世界には立ち入らせないという気質もしっかりと持っている、とも言っていた。

何の知識もない私にとって、オランダという国は、どうでもよい国であったことは事実で、音楽を聴き始めても、レコードやCDに記されている“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”という名称は目にしていたものの、それ程の興味もなく、絵画に反応しだしたのも比較的最近だから、レンブラントやフェルメールもこんなものか、と見ていたのが正直なところだった。学生の時から好きだったのは、“ドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)”で、これにはまっていたから、何とか本場で(つまりドレスデン国立歌劇場で)聴けないものかと思っていたところ、一生行けないと考えていた“バイロイト音楽祭”に行けてしまったことから火が点いたのだった。驚くことに、数年の間に2回もドレスデン国立歌劇場に行って、充分その音楽を堪能して落ち着いてみると、“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”のことが、気になり始めたのだった。その気になって聴いてみると、地味ながら、どこかドレスデンの音楽から得る感覚を覚えるようになったことを、白状しなければならない。ドレスデンの音と、コンセルトヘボゥの音が、全く違うのは当たり前だが、確かに共通点もある。「上品な音と、音楽づくり」、この、言葉にするのが極めて難しい感覚は、“いぶし銀の音”という、わかったような、わからないような表現でなされる事が多い。音楽好き達も、これに似たり寄ったりの表現をするのだが、お互い通じ合うのである。元来オランダに行くという選択肢は全くなかったから、知識もない事は話した通りである。だからガイドさんの話を素直に聴いてきたのである。しかしその中には、「本当?」というものもあった。そこで、「物語 オランダの歴史」(桜田美津夫著中公新書)と、私は子供の頃から、長崎の出島にオランダ船が来たことに、異常に興味があったから、「東インド会社」(浅田實著 講談社現代新書)を読んでみたのである。確かに、風車についての説明の一部は正しいのだが、重要な事が抜けていたのである。「物語 オランダの歴史」(P.57)を読んでみると、

―元々風車は、干拓地の排水と穀物の製粉に使われてきた。ところが16世紀末頃、アムステルダム北方のザーン地方、つまり現在のザーンダム周辺に新しい工業用風車が出現する。輸入木材を製材する風車と、近郊の埋め立て地で栽培された菜種や亜麻仁から油を搾る為の風車である。―彼は風車の回転運動をクランクによって往復運動に変えることに成功し、製材の効率を30倍以上出高めたのである。―この製材業と結びついて、ザーン地方では造船業が急成長を遂げ、それにともなって、帆布、ロープ、タール、船用乾パンなどの製造業も盛んとなった。―

なんと、風車が製材業を活発にし、造船が急成長を遂げたのである。船舶が漁業に用いられるようになると、ニシン漁、捕鯨が活発になって、これを輸出品として運ぶ海運事業が興った。漁に出て操舵術に習熟し、沿岸貿易も行われるようになる。当時、ニシンは大切な輸出品であるから、一般の人々は内陸水路で獲れる、コイ、スズキ、ウナギを食していたという。オランダの黄金時代は17世紀である。オランダは「低地諸州の反乱」(スペインとの)で、ヨーロッパ各国で行われた、王権と身分制議会との主導権争いの勝者になった、珍しい国だった。議会主権国家は、王権の束縛から解放され、自由な経済活動によって他に例をみない繁栄を築いたのである。多数の商人は、自らの国が小さいことを充分自覚していた。独立した小国の発展は彼らの中心的テーマで、周囲の国々との競争にいかに勝利するか。結論は目の前にぶら下がっていた。海外貿易の技術も、船の操船技術も、日々の事柄で優秀である。しかし先陣を切ったのは、ポルトガルとスペインだった。それに刺激されて、イングランドも海外貿易に乗り出していく。1580年のスペインによるポルトガル併合は、オランダに決断を迫った。つまり、ポルトガルを通してアジア物産を入手していたオランダの前に、スペインが立ちはだかった形になったのだ。このような理由で、オランダは東インドを目指すようになる。1600年末にイギリス東インド会社、1602年3月にオランダ東インド会社が設立されるが、なんとイングランドの会社の規模に対して、オランダは10倍の大きさをもっていた。共に彼らの目的は、スパイス、特に胡椒(ペッパー)で、これがインドネシアで採れることから、目的地が東インドと言われていたのだ。当時のヨーロッパでは、香料が不足していて、産地の限られている物産は当然ながら高価な取引が出来た。そのことを抜きにしては、オランダ船が長崎の出島に来航した意味が分からない。相当な危険を承知の上で、ヨーロッパとインドを往復していた人々は、更にゴア(インド)から中国、と、日本への旅に興味を持つようになる。「東方案内記」の著者で、旅行家のリンスホーテンは、故国への手紙でこう記している。

「僕は、中国と日本へ行きたいです。そこはゴアからリスボンまでと同じくらい遠い国々です。往復3年の航路です。(中略)親友は、砲手としてそこへ向かいました。(中略)その砲手は以前にもそこへ行ったことがあり、これらの国々の素晴らしい話を沢山聴かせてくれました。」『日蘭交流400年の歴史と展望』より

それが1568年のことであるから、1600年に九州に辿り着いた、リーフデ号のイングランド人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)は、最初の来日外国人でない事になる。このアダムズを徳川家康が優遇したことは有名である。

最初の来日外国人、ヘリッツソーンは、2度目の来日の際、1585年夏から、約8ヶ月間長崎に滞在し、1590年4月にオランダに帰り着いている。

ところで、蘭学というと、私たちは医学と同義語として捉えるが、実のところ、西洋の学術、文化、技術、そのほか西洋についての知識一切を含めたものである。かつて、医術はポルトガル人から南蛮流術として伝わったが、今度はオランダ人から学ぶようになっていて、1649年に来日した医師、シャンベルゲルもオランダ人という触れ込みであったが、実はドイツ人である。その他医師として来日した人々は、現代風にみれば、ベルギー人、スウェーデン人であるが、オランダ語を使っていたのでオランダ人とされている。蘭学のもう1つの大きな柱は、砲術であった。1639年には平戸で鋳造した大砲を、江戸幕府に献上している。いずれにしても、蘭学から西洋の最新の学術、文化、技術を吸収していたことは事実で、出島が現代の野球場の広さであっても、それが幕府とほとんど直結していることを考えると、その後の日本にとっては、大きな意味をもったことになる。

どういうわけか、子供の頃から気になっていた長崎出島であったから、長崎旅行で見た出島の小ささに驚き、また、西洋のオランダという国からこんな所までやってきたのに、隔離されるような状態におかれたオランダ人にも、申し訳ないように思って過ごしてきた半世紀後、何と、その船が出港した港と、小さな帆船の復元船に乗ることができて、何とも言えぬ感情に浸ったのは致し方ないだろう。

国立オランダ海洋博物館に、その復元船はあって、それも東インド会社の所有していた物の精密な複製だった。この博物館は、1657年に海運補給庁として建築されたものを、改築して使われている。ここで繰り返しを許して頂こう。アムステルダム中央駅というのは、世界的に有名な建築で、その豪華さ、大きさは、周囲を圧倒する。姉妹駅の東京駅と比べると、子供と大人の差がある。この駅は意外や、海の上に建っている。1886年建築の駅は、西方に向かって正面になっていて、アムステルダムの街は扇の形をしている。つまり、要の部分が中央駅で、5つの運河が走る街は、裾野を広げているように見える。その裾野の一番広がったところに、コンセルトヘボゥ、アムステルダム国立美術館、ファン・ゴッホ美術館のある、ミュージアム広場がある。

この街を見ると、その歴史を感じざるを得ないが、中央駅の裏側に回るとすぐ海で、アムステルダム港だ。私はこんなアンバランスな景色を見たことがない。北海の寒々しい水の色は、覗き込みたくなる気持ちをさえぎってしまう。この港の比較的近距離に、国立オランダ海洋博物館があるから、この場所から東洋に向かう帆船が出港していたことになる。その帆船は大きくはないが、風車によって製材された、ガッチリとした木材でできていた。しかし、3、4艘がまとまって航海に出るが、全員が帰港できない状況の中、ほぼ定期的に出港し、数年を要する危険な航海の事を考えると、400年の時間はその距離を一気に縮めてしまった。直行便なら、東京?アムステルダム片道11時間前後である。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ⑤

クナッパーツブッシュのエピソード

テューバ

ミュンヘン・オペラの楽団員は皆優れた人達であるが、テューバ奏者

クーゲルマンも素晴らしい存在であった。クナはテューバを重要に考えていたので、クーゲルマンにはいつも特に注目していたのだ。

「ジークフリート」を演奏していたある晩のこと、テューバのパートにいくつも出てくる難しい箇所を見事に吹き終えたところで、クーゲルマンは思った。

「今日はまずお誉めにあずかれるだろうさ。」幕が下りて、オーケストラの間を縫ってクナがそそくさと退場しようとする。ちょうどテューバの席にさしかかるとクナはしばし立ち止まり、楽器を見下ろした。いよいよ賞賛の言葉をもらえる、とクーゲルマンは待ち構えた。

クナはにこりともしないで言った。

「お宅の便器・・・・・・そろそろ磨き直したらいかがですかな!」

 

 

街の女

ある時、アン・デア・ウィーン劇場でクナは演奏会を指揮した。ワーグナーの<トリスタンとイゾルデ>「前奏曲と愛の死」を、マルタ・メードルが歌った。演奏会が終わると、クナが食事をいつもとっていたホテルは劇場からそう遠くはなかったので、彼はメードル他何人かと一緒にホテルまで歩いていった。

一行は途中、「街の女」がうろついている通りを横切らねばならなかった。女たちはクナッパーツブッシュのことなどもちろん何も知らない。その内の一人がクナに声をかけた。クナは無視して歩き続けたが、3メートル程行った後、くるりと向き直り、きょとんとする女にしゃがれた声で言った

「ごめんよ、ねぇちゃん。今日はムスコが一緒じゃないんでね!」

 

 

フランス語

バイロイトで<パルジファル>を練習していたときのこと、あるフランス人女性歌手の出来がひどかった。クナはオーケストラ・ピットから上の舞台に向けて例によって「このクソばばぁめが!」と怒鳴った。

しかし彼女はそれを解さず下に向かって

「フランス語デオネガイシマース!」

彼女がまたも演奏をしくじった時、クナは怒鳴った。

「フランス語のクソばばあめが!」

 

 

短い練習

クナッパーツブッシュは厳格だったが、慈愛深くもあった。

練習で彼は最小の労力で最大の成果を得たので、有能な音楽家から高く評価されていた。

ミュンヘンの演奏会でのこと。ブルックナーの第8交響曲のためにわずか1日の練習が予定されていた。クナは第1楽章を始めたが途中で止め指揮棒を置き、

その特徴的ななガラガラ声で言った。

「皆さんはこの曲をご存知だ。わしもそうだ。お互い辛いことは止めましょうや。ではまた今夜8時の本番で。」

練習はそれで終わりだった。

そしてその夜はいつものように輝かしい成功をおさめたのである。

 

(ミュンヘン・フィルハーモニーのソロ・ホルン奏者

               アルトゥール・アイトラー氏の小冊子より)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ④

今回は、ペトレンコ指揮の「パルジファル」を聴くためにミュンヘンに行ったことはすでに述べた通りである。私たちの鑑賞日は5回の公演の中で一番チケットが取れやすいだろうという7月5日に決まった。この日を中心にして、

パリ・オペラ座バレエを調べてみると幸運にも、ガルニエ宮で「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)が観られる。それとさらに幸せなことに、このバレエ団のエトワールであるジルベールがリーズを踊る日にピタリと当てはまっている。当日リーズの相手役が変更になっていて、さらに加えて、ルーベという超豪華なステージを観ることになった。

仕事の関係上、この2公演を観て、とんぼ返りすることになった。3泊5日の行程である。3泊といっても 東京―パリ は12時間40分かかるから日本を昼前の直行便に乗ってもパリに着くのは同日の午後5時半ごろになる。

入国審査と荷物を受け取って市内に入る頃は公演が始まってしまう。つまり

その日1日はまるまる無駄になるわけだ。そうなると時間を自由に使えるのは正味2日、その2日の夜の公演を観ようというわけである。

しかし、パリ・オペラ座の公演が終わってホテルに戻ると午後10時。

次の日の朝8時50分の便に乗らなければ昼にミュンヘンに着かないので、その3時間前、6時にホテルを出なければならない。我々は早朝4時に起きて準備をして出発した。

バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は午後5時開演である。そして、終演が午後10時20分。いくら好きな「パルジファル」だって、休憩時間を入れると5時間20分はキツイ。加えて、時差ボケ人間なのである。

歌劇場のすぐそばのレストランに予約をいれてあったので安心していたのだが、歌劇場を出ると、雨がポツポツと降っていた。急いでレストランの入り口に立った。案内された席は何と前回来た時と同じ席だった。

雨がポツポツと、同じ席と、食べ終わって小雨の中を同じ道を急ぎ足で通るのも、全く同じで驚くほかはない。前回は、クリスティアン・ゲルハーエルのシューベルト「冬の旅」を聴くために来たのだが、今回の「パルジファル」で

アムフォルタス王を歌ったのもゲルハーエル、これも同じであった。

前回のリートの時も歌劇場内は、ブラボーの嵐だったが、今回の「パルジファル」では、バイロイトと同じでドスドス、ドスドスと床をさかんに足で踏み鳴らし、あちらこちらからブラボーが飛び、最後はほとんどの人が立ち上がって、スタンディングオベーションだ。時差ボケと空腹で、皆が騒いでいる中で席を立って、レストランに駆け込み、ホッとしていると、後から後から人が入ってくる。みんな同じパンフレットを持っているので同族であることが知れる。完全な時差ボケ人間はビールを飲んでも、バイエルンの地方料理を食べても全く美味しくないのだった。

しかし、明日はどうしても行かなければならない場所があるのである。

朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。

しかし、こんな雨に負けてはいられないのだ。

私には目的がある。

恐らく、1965年10月25日、彼は77才の生涯をこの地で終えたはずだ。彼はミュンヘンに住んでいたと人は言う。もちろん、芸能人や世界的な映画スターでもないからどこに住んでいようが、人は興味がないだろう。生粋のドイツ人であり、生涯のほとんどを国内で過ごし、外国には出なかったらしい彼もフランスには行ったようだった。それは、パリ音楽院管弦楽団とのワーグナーのレコードも出ていることからも知れた。その後知ったのは、イタリアにも行っていてけっこう国外にも出ていることだった。そのレコードと出会った頃の私は、恥ずかしながら、ヨーロッパのことなどほとんど知らなかった。

「外国へ行かなかったって、フランスには行ってるじゃん」とつまらないことで反発して、そのレコードのジャケットを見ていた。今では航空会社にもよるが、日本から南ドイツに行くとなると、たいていフランクフルトかミュンヘンで乗り換えることになる。

これらの空港はフランクフルトもミュンヘンも国際空港である。現実に行ってみると、ターミナル間を電車が走っている程大きい。ミュンヘンという街は、古い建物と緑がとても多い。南ドイツの香りがプンプンと匂う。

現代都市のベルリンと比べると、同じドイツ?!と突っ込みたくなるほど違う。それに人間も違うらしい。ミュンヘンの人々はどこか、のんびりしていてやさしい感じがある。日本人からみると、いつも怒っているように見えるドイツ人は実はいい人達なのかも知れない。

ホテルを出ると、雨はしとしとと降り続いていた。空の1/3ほどが明るくなって、ほっとしたが、用心のために傘を持って出た。ホテルの傘だ。

トラム(市街電車)の19番に乗って、ウェバー・プラッツまで来た。ここでトラムを乗り換えろと地図は言っている。

実はこの地図、ライプツィッヒに住んでいる友人が作ってくれたものだ。

その地までのトラムの路線図、着いてからの目的地までの地図と丁寧である。

私たちは、同じドイツなのだからと、気軽に頼んでしまったが、ライプツィッヒとミュンヘンでは、違う。地図を見ながら、トラム17番というのを探すが、どういうわけ電車が来ない。電光掲示板にもその番号だけが出てこない。

よく調べてみると、17番の行く方向は線路が工事中であった。仕方なく、またトラムに乗ってホテルの前まで戻った。ミュンヘンは、流しのタクシーもあるという話だったが、走っているのは客を乗せたタクシーばかりでホテルから乗ることにしたのだ。

地図を見せて、

Bringen  Sie  mich  bitte  zu

ブリンゲン    ズイ   ミッヒ   ビッテ    ツウ

dieser  Adresse

ディーザー    アドレッセ

(この住所へ行って下さい)

とやってみた。

地図を見たものの、タクシードライバーは、ほとんど反応しない。

<こいつ、感じ悪し!>と心の中で思った。

それにしては、スイスイと広い道路を走っている。

妻と目配せして、帰りは違うタクシーにしようと決めた。細い道を入っては考え込み、首をひねって、もう一度見せろというジェスチャーをする。

ドライバーも困っているらしく、車を停めて人に訊いている。

<こいつ、ひょっとして。>

と思っていると、ついにその地を見つけたらしく、「kirche(キルヒエ)」

と言っている。タクシーの窓から見えたのは、小さな建物だった。

不信感を露わにすると、車内から前上方を指差している。確かに小さな十字架が見える。私の体に力がこもった。ここかも知れない。

周囲を見ると、ちょっとした高級住宅地で、前には幼稚園らしきものも見え、幼児の声がしている。この場所は、トラムの走っている線路からだとかなり遠いことはわかる。こんな所で降ろされたら帰るに帰れないという気持ちでいっぱいになった。

だいだいこんな所にある教会など誰が知るだろう。しかしわが家の事を考えてみても、近くのお寺に先祖は埋葬されている。もちろん大きな墓地には遠いところから人々はやって来るが、どちらかと言うと、それは比較的最近の傾向だろう。

裕福な家々のなかにある墓地は思ったよりかなり小さかった。雨が上がって、7月初旬の日が射して、緑が本当に美しい。

墓地の入口に立ってみて、タクシードライバーの気持ちが理解できるように思った。ミュンヘンの中心部にあるホテルから、ここを指示されても、誰だってとまどうだろう。それがあの態度であるなら理解出来なくはない。それで私は

気持ちを入れ替えて、ここで待って欲しい旨を彼に伝えた。

しかしかれの方もこの場所で良かったのかどうか迷っているようであった。おずおずと入口を入ってみると、右に回るように道がついている。友人がくれた墓地の地図だと、中心にある小さな教会を取り巻くように墓が並んでいる。そこへタクシードライバーが入ってきて、私たちが墓標の前で写真を撮っているのを見てニコッと笑った。

不確かな情報によると、あの指揮者のケンペもこの墓地に埋葬されていると言うが、こんな小さな教会に世界的指揮者が2人まで、という気持ちがケンペの墓を探す気持ちを萎えさせた。ただ、ケンペもミュンヘンの人だった。

昔、写真で見た墓は確かにあった。正面に立ってみると、左側に

ハンス・クナッパーツブッシュ、右側に生前のクナさんが“小リスちゃん”だか“小鹿ちゃん”と呼んだ愛妻、マリオン・クナッパーツブッシュが埋葬されている。彼と彼女は、10才違いでクナッパーツブッシュが亡くなった後、彼女は19年間生きていたことになる。

クナッパーツブッシュの墓の前に立った時、私の体は異常な反応を示しだした。

涙が出そうで出ない、ガクガク足が震える。声が出そうなる。呼びたい気持ちを抑えると、上半身が震える等々の反応だった。

私の反応にいち早く妻は反応して、その場から消えた。

私の引きつった顔は、明らかに1965年10月25日のことを思い出していた。

その場の光景とともに。

NHKの朝のニュースは、世界的大指揮者、ハンス。クナッパーツブッシュが亡くなったことを伝えた。呆然とした私は遠い日本から彼のことを想った。

15才と77才の歳の差を乗り越えて。

考えてもみなかったことが起こったのだ。私は早速『ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(ウェスト・ミンスター盤)』のジャケットからクナッパーツブッシュの写真をブロマイドにすることにした。

(ジャケットの左側がクナッパーツブッシュ、右側がブルックナー)

親しい写真屋に頼んで小さな枠を付けて、壁にかけられるようにした。

「こんなジジィの写真、ブロマイドにしてどうすんだ。お前おかしいんじゃない?」と下町言葉で言うから、「バカヤロー、お前なんかに何がわかるんだ」と怒鳴ってやったら、次の日に母親に苦情がきたらしい。

「お宅のお子さんだからまぁいいけど、それがうるさいんですよ。こんなんじゃダメだとか何だとかさんざん苦労しました。」

とこぼしていったらしい。

恐らくそんな時に、クナッパーツブッシュはここに埋蔵されたのだろう。

東京、ミュンヘン1万kmを乗り越えて、やっとクナッパーツブッシュの墓にきたのである。私はもう69才になっていた。

でも墓に来た充実感と、安心感は何にも変えられない。

(クナッパーツブッシュは聖ゲオルグ教会に隣接する、ボーゲン・ハウゼン墓地に埋葬されている。)

 

私の先祖の墓は仕事場からタクシーを利用すれば10分程で行ける距離にある。

しかし私はこの10年一度も行ったことがない。

又、今後も行くつもりもないのだが、私は本当の愚か者だろうか。

罪悪感を持って、人に訊くと、『けっこうそういう人もいるんじゃない』という答えが返ってきた。

その言葉が嬉しくもあり、悲しくもあった。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ③

この文章のテーマは

「ハンス・クナッパーツブッシュの墓」だった。

このいやに長い名前は、クナッパーツブッシュだけでも相当長く、発音もしづらいが、れっきとしたドイツ人の名前なのである。日本の音楽ファンは彼のことを“クナ”と呼ぶ。さて、この人は何者なのだろうか。そして、その人の「墓」

とはなんなんだろう。今までの文面からすると、どうも音楽に関係することとは、わかるだろう。現代ではこの人のことをあまり知らない音楽ファンも多く存在するはずである。何しろ、1888年生まれ、1965年の10月25日に亡くなっているのだから、53年前に没した人だ。この人のワーグナー演奏は現在ではあまり評価が高くないのだが、実はバイロイト音楽祭の主なのである。

バイロイト音楽祭は1951年に再開され、その年からクナは「パルジファル」を演奏し、亡くなる1年前の1964年まで毎年演奏した。1953は、演出家と意見が合わずキャンセルしたが、他は全て指揮をしている。

つまりワーグナーの権化なのだ。

それを証明するように、1953年以外の全ての「パルジファル」の公演が、バイロイトでライブ録音されて発売されている。クラシック音楽の世界ではめずらしいことだ。ここでしばらく私個人の過去を話すことにしよう。

ハンス・クナッパ-ツブッシュという大指揮者は、私の心の中に突然やって来た。1964年のことだった。(「ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団」(ウエストミンスター盤)というレコードは現在も所有している。)

このレコードが私とクナッパーツブッシュとの出会いだったのである。

このレコードをどこで買ったのか、又、なぜ買ったのかも忘れてしまった。

ただ、1965年の10月25日の朝、NHKラジオから流れてきたアナウンサーの声は覚えている。「昨日、ドイツの大指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュ氏が亡くなりました。享年77歳でした。」

大げさではなく、目の前が真っ暗になってガクガクと震えが体を伝わった。

頭の中では、クナッパーツブッシュが死んだって?死んだって何?いろんな言葉が飛び交っている。ほぼ1年前からクラシック音楽を聴くようになってレコードを買っていたのだが、この人が指揮したブルックナーの第8番交響曲はいたく気に入っていたのである。高校1年生は帽子をとって無言である。こういう状態を呆然とした、というのであろう。

私は母親にこう言った。

「今日は学校に行かない」

そしてその騒ぎが一段落して、クナッパーツブッシュの「パルジファル」の全曲レコードを買った。もちろん1962年、バイロイト音楽祭のライブ録音で“レコード大賞”をとった名盤である。

それから私のワーグナー好きが始まったのである。そして、一時期を除いて

“ハンス・クナッパーツブッシュ命”が始まったといってもいい。

“クナ”はワーグナー指揮者であるからその関係から、ワーグナーの曲にのめり込み、またクナを聴いた。そしてそれは今でも続いている。

現在では、一部の人々は彼について相当批判的であるが、その反面CD屋に行くと、彼のCDは人気があり、手を変え品を変えて、あるいはSACD化したり、リマスタリングをして売り出す。その都度CDは売れるからCDメーカーはウハウハだろう。現代からみると彼の演奏は、つまりオーケストラコントロールという意味からみてもかなり大雑把であり、先日聴いたバイエルン国立歌劇場とペトレンコの完成度の高いものとは比較にならないのだが、聞き手に与えるインパクト、あるいは感動はそれとは無関係なのである。ペトレンコは次期ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者になるが、あのベルリン・フィルを4年も待たせるほどの実力者である。

皆が聴いたことのないタイプの現代指揮者と、ハンス・クナッパーツブッシュいう大時代的ドイツ人指揮者は、純粋に音楽という立場に立つと、クナの方に分が悪いが芸術という視点からみると、彼の方が孤高の存在に見える。

ゆっくりとしたテンポ、正にドイツ系の分厚い響き、がっちりとした構成力、つまらない細工などに興味のない、あるいは、周囲を睥睨し、自己の道をただただ歩き続ける巨人、どこか人間をなめているジョークとユーモア、それでいて人懐っこいところを感じさせる巨人、大作曲家の交響曲をかなり個性的に演奏するが、“くるみ割り人形”の美しさにはのめり込む。

クナッパーツブッシュにかかると、ベートーヴェンだってモーツァルトだってバッハだってどこか見下されている感じがある。ただ、ワーグナーにだけは、全力で対応するのである。

彼の中ではワーグナーの作品だけが、正面から組み合える作品なのだ。

そんな人に私はとりつかれてしまったのだった。この人の音楽は迷える少年の目の前にドスンという音と共に現れたと言ってよい。だから、いつかクナッパーツブッシュの墓に行ってみたかったのである。

ところで私は随分、音楽家の“家”とか“墓”に行っている。バッハはライプツィヒのトーマス教会の祭壇の前に眠っているが、誰でもすぐそばまで行くことが出来る。ドレスデンにはウェーバーの墓がありその小さな墓石の左右には彼の一族が眠っている。これらは本当に質素で気の毒になるほど実にわびしい。もちろん墓石の前に柵などないから、手で触ることも出来るし足で触れることも出来る。あのマーラーの墓はウィーン郊外のグリンツィングにある。これも大作曲家の墓とは思えぬ位、控えめなものだ。マーラー・ファンの私は、マーラーの墓のそばにマーラーを捨てて何人もの男と関係をもった悪妻アルマ・マーラーの墓があるのには呆れ果てたことを覚えている。さてワーグナーの墓の前で我ら5人はどうしていのか迷ってしまった。

5人というのはバイロイト音楽祭「ニーベルングの指環コース」のツアーの人々の中の5人である。

この5人はどういう訳か気が合うようで演奏終演後、ホテルのレストランで深夜まで語り合った人々である。

バイロイト音楽祭は、4時から始まって終演が10時から10時半になる。それからホテルに帰り、そこから夕食になるわけだ。

私は一考した。一週間は同じホテルに泊まるのだから、11時から毎日レストランの同じテーブルを予約すれば皆で会食が出来るのではないかと。これにみな賛同して毎夜楽しい時間を過ごした。何しろ89万円也を払って日本からやって来た、筋金入りのワーグナー・ファン達だ。その中の1人が超筋金入りの人で、ドイツに留学もしていて、ニュルンベルクでもバイロイトでもやたらに詳しい。

この人がワーグナー博物館にみんなで行こうと言うのでついていくとそれは、

写真で見たことのある建物だった。ワーグナーがヴァンフリートと呼んでいた自宅だ。正面切っては言われないが、これもあのルートヴィヒ二世が関係している。それは正面玄関に向かって右側にルートヴィヒ二世の像が立っているからわかる。

ワーグナーという人は若い頃、つまり1849年にドレスデンの革命に参加し逮捕状が出て、ドイツを脱出、チューリッヒ、パリ、チューリッヒと亡命生活をしている。いわゆるおたずね者だった。女性との関係も華やかで、初婚後何人もの女性、それもパトロンだとか友人だとかの妻と関係をもった。

二度目の結婚は、あのリストの娘コージマだ。

彼の自宅ヴァンフリートという立派な建物をおたずね物で浪費家のワーグナーが建てられるはずがない。金もないのに一流ホテルの最上級の部屋を使う神経も尋常ではないが、そこだけでも一般人とはどこか違う。

それをふまえてワーグナーをみると、想像を絶した強運の持ち主という人種なのだ。通常なら自己破産している人間なのである。煮詰まってしまい、にっちもさっちもいかなくなった頃にピタッとルートヴィッヒ二世が現れたのだから、これほどの強運はないだろう。

ここで、私は素直に告白しなければならないだろうと思う。ヴァンフリートという自宅は現在公開されているので、ワーグナー博物館でもある。

私がその中でみたものとは・・・。

「これって何、いやに小さいけど」 という言葉に妻も

「本当に随分」 と言った。

ガラスケースの中に入っている洋服はワーグナー本人の物であり、その他日常使っていた品物が多数陳列されている。

どうしてもその小ささが理解できないのである。

「でもこれ本人のものでしょ」と妻が言う。

自分の好きなものは誰だって立派であって欲しいと願うのは人情だろう。

でもどう見ても小さい。

ワーグナーという人は恋愛事件を多く起こし、最後は弟子ビユーローの夫人コージマと結婚した。今で言う「出来ちゃった婚」であり、有無を言わせぬ行為である。しかし3年後ミュンヘンで「トリスタンとイゾルデ」を初演した時は、弟子のビユーローが指揮している。

つまり、寝取られた元夫がワーグナーの初演を行ったということになる。

今私はミュンヘンでビユーローが指揮をしてワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」を初演したと書いた。その歌劇場こそ、今回「パルジファル」を観た「バイエルン国立歌劇場」なのだ。

ヴァンフリートという名の彼の館は立派なものであるが、その後ろには小さな林がある。その庭には、ワーグナーの墓がある。ここには妻コージマも眠っていて微笑ましい。

バイロイトツアーで一緒になった5名はその墓の前に立って、どうやって祈るか迷っていて、日本風でもいいのかなどと話し合っていた。土を盛り上げた上に置かれたグレーの平たい大きな石版は周囲の木々とよく調和してリヒヤルトとコージマの愛が本物であったように私には思われた。

断っておくが、墓巡りは決して私の趣味ではない。

偶然が重なり合って行ってみただけなのである。

しかし、足元にそれらの人々を感じるのはある意味で辛い事であった。

私は音楽が好きである。そして最近はバレエにもハマっている。

例えばバレエ好きになるまで、つまり数年前まで“バレエ”なるものに全く興味がなかった。本心を言うなら「あんなもの何がいいんだろう」と思っていた。

クラシックチャンネルに入会したのはベルチャ弦楽四重奏団の「ベートーベン弦楽四重奏曲の全曲」演奏を放送するという広告を見たからだ。

チャンネルを回してみると、あまりに美しい画像が飛び込んできて、音楽もいいがその演奏の素晴らしさに目を見張った。白いコスチュームを着た何十人もの女性の踊りは始めて観るものだったし、よく聞いてきた「白鳥の湖」の音楽も生き返ったようにピッタリと、踊りに密着している。

バレエ音楽「白鳥の湖」は、バレエあっての音楽だったのだ。

私には“バレエ”という誰でも知っている世界に初めて触れた感動があった。

私の困った性格は、今に始まったことではない。

興味があることには徹底してのめり込むが、興味がないものには全く反応しない。全くである。

だから皆が知っていることを私は全く知らない。最低の知識もないのである。

“バレエ”について言えば、そのことが良かったかもしれない。何も知らないということは、真っ白であることに通じる。だから一度火がつくとそればかりに集中する。一種の吸い取り紙なのだ。

「すごいね集中力」というのはよく我が妻が言う言葉だ。

しかし一方周囲の人は迷惑である。毎日毎日バレエを観ている。夕食が終わると観る。これは高校生の頃の自分と同じなのである。ワーグナーについていえば学校から帰ると第一幕、夕食後第二幕と第三幕、終わると11時頃、まるでバイロイト音楽祭のようだ。

これを毎日繰り返す。バイロイトだって7月25日から8月末までなのだ。

こんなことを言えば音楽ファンから怒られるに決まっている。でもあえて言う。

ワーグナーの方がバッハやベートーヴェン、モーツァルトよりもはるかに難しい音楽だと。

私が言いたいのは、音楽のレベルの話をしているのではない。音楽の作り方のことを言っているのだ。あの無限旋律とライト・モチーフは1度や2度聴いたってとても覚えられるものではない。必死になって聴き取らなければならないし、1曲4時間はかかる歌劇全曲を覚えるとなると聴き手側にも相当の能力が要求される。

さて、ベルチャ弦楽四重奏団のおかげで、バレエ・ファンになった私は集中する分成長もあったのだろう。あんなにバカにしていたバレエの難しさを知り、ダンサーたちの努力を思うようになった。例えば今回のパリ・オペラ座バレエは、世界のバレエの最高峰の一つである。たとえその舞台に群舞の中の端役であっても、出演することなど奇跡に近い。

街を歩いていて、その気になってビルの看板を見れば“バレエ教室”がどの位あるかわかる。それが世界中にあるのだから、その頂点に立つなど考えるだけでも気が遠くなる。

そういう目でバレエを観ると、彼らのやっているダンスというものがどのくらい高度なものなのか理解出来るようになった。

「男のくせに白タイツはいてキモチワルイ」

と思っていた男の考えていたことは所詮何も知らないアホな男のたわ言だったのだ。

それはどんな分野にも言えて、真剣に取り組めた人だけに理解されることなのだろう。

私が大作曲家の墓の前に立って、つま先を向けていることを自体いたたまれなかった、理由がここにある。

何百年にも渡って演奏され続けている作曲家となれば、心死に努力する

ダンサーの比ではないだろう。

彼らにとって天才であることは当然のこと、努力も当たり前のことであるが彼らの強い個性はことあるごとに周囲の人とぶつかり合って、戦い、落ち込み、苦しい精神を鼓舞して再起してきたのだ。そんな人達の前に立つ自分に対して怒りがこみ上げてきたのは当然のことなのだ。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ②

そうだった。私はバイロイト音楽祭について書くつもりではなかったのだが、このバイロイト音楽祭というのが、実はくせ者なので書かざるを得なかったのだ。クラシックファンならばこの音楽祭のチケットが世界一入手困難なプラチナ・チケットであることは誰でも知っている。実のところはわからないが、口から口へ伝えられるのは、申し込んで5,6年は無理というものだ。しかし、現実には一年ほど前であればこのプラチナ・チケットは取れるのだが、それが誰でもというわけにはいかない。

2009年の10月に本当に清水の舞台から飛び降りるつもりで、(音楽祭は7月25日から8月末までほぼ毎日公演がある)旅行会社に申込みをした。最大手の会社である。6ヶ月前に申込んだのだが、4月になって本格的な予約をするまで予約の予約をしてくれるというので申込みをして安心していたのだが、一向に連絡がない。不思議な気持ちで音楽雑誌を買ってみて、本当に目が飛び出る思いでその広告を見つめた。

その会社の広告にその年のバイロイト音楽祭の日程と、公演曲がはっきりと明記されている。

怒り狂って電話をしてみると、あの担当者はおらず若い女性の声が伝わってきた。

私には怒り狂ってしまうと言葉が出てこないクセがある。

“もしもし”という声が聞こえるが声が出ない。何回かの“もしもし”を聞いて怒りが爆発した。

「う~、なんなんだ、あんなに前に予約の予約を入れて安心したのにこの仕打ちはなんなんだぁ~~~~。」

相手もあまりの怒鳴り声におたおたした様子が伝わってくる。前回の“ばばあ”の横柄な態度と異なって

「そう申されましても、申込みをされている方が多くいらっしゃいます。」

若い女性は、冷静に対応している。若い女性に弱い私は少し落ち着きを取り戻した。

「多くの方が申込みをされていますって、どうして皆、知っているんだぁ~~」

「恐れ入りますが、そちら様には『バイロイト音楽祭』の予定表と『ザルツブルグ音楽祭』のパンフレットはお届きになっていらっしゃいませんか?」

「何言ってるの!何も来ないじゃない。ずっと待っていたのに。」

もうすでに泣き声になっている。

「それで、予約状況はどうなっているんですか?」

一生けん命に気持ちを落ち着けているのだが、頭の中は真っ白だ。

次に浮かぶのはあのババアの声と上から目線の横柄な態度だった。あいつが予約の予約を失念したことは間違いない。

すっかり気落ちした私は、それでもこの女性にすがりつくしかない。

「え、15名の定員で14名様が埋まってるって何言ってるの、じゃあ1名だけの枠ってこと?」

「2名様ですと、1名の方がキャンセル待ちということに・・・」

「じゃぁ1名のキャンセルが出ないと2名で行けないってこと?」

「そういうことになります。でも毎年数名のキャンセルが出ますから。」

「出ますからって出なかったらどうすんのよ!」

「え、その時はご出発はご無理かと・・・」

白い状態が青い領域に変わっていくのが分かる。青いながらも、最も気になる

チケットのランクを聞いてさらにビックリした。

「申込みが最後になりますので後ろの方になるかと。」

「え、31列目ってすいぶん後ろじゃないの。」

「はい。31列目の後ろが最後列ですので、その壁の向こうは外ということになります。」

ガクガクと体の震えを感じながら

「えっ、そっちのミスでこうなったんだから、15席しかないって落ち着いていないで何とかもう1席チケットを確保しなさいよ!」

「はぁ、私どももそうして差し上げたいのですが、何しろバイロイト音楽祭ですので、私どもの会社でも15席が精一杯なのでございます。」

次の会社に電話するも、同様の答えが返ってくる。

どの旅行会社も似たり寄ったりであるが、全体の評価としては、最初に電話をした所が良いので、キャンセル待ちに落ち着かざるを得ない。諦め半分、ふてくされ半分・怒り最高の気分だった。

そんなある日、友人がやってきた。この人にも「バイロイト音楽祭」に予約の予約をしたことを自慢していたのである。

カバンの中から出したパンフレットを見て、私は唖然とした。

「これ、通りがかりに見つけたから持ってきました。もう予約しているから必要ないと思いますけど。」パンフレットの表紙には大きく「バイロイト音楽祭 ザルツブルグ音楽祭」という文字が見える。

苦しみぬいてきたので「バイロイト音楽祭」という文字を見ただけで異様な反応が起きるようになってしまっているのだ。

彼の手から無言でパンフレットをもぎとると、一気に全ページを見だしたのだった。

色々のツアーが所狭しと書かれており、出発日も3通り記されている。その他にもワーグナーの歌劇の組み合わせも多様である。早々に友人を追い返して電話に飛びついた。

「はい、こちら音楽鑑賞デスクでございます。」

「あのぉ~、今そちらのパンフレット、バイ、バイ、バイロイト音楽祭のですけど・・・。

「はい、お手元にパンフレットをお持ちでいらっしゃいますかぁ~?」

「も、持ってますぅ~」

「それでどういたしましょうか」

「どうするって、バイロイトに行きたいんです。2人で。」

「はい、2名様でおとりできます。」

この人はいともあっさり答えるのである。

「でも、31列目とかじゃないですよねぇ~」

「はい、当社では、前方のかなり良い席もお取りできます。ご利用料金によりますが、ある程度ご自由に選べるかと」

「だってバイロイト音楽祭ですよ、ああたぁ~。」

「はい。それよりもですねぇ~どちらかというと航空チケットが取れるかどうかの方が問題かと。バイロイトに行くのにはニュルンベルクから車で1時間程かかります。それはいいのですけど、この時期8月は大変混み合います。

それで飛行機の件ですが、ルフトハンザのご利用になります。

東京-ミュンヘン あるいは 東京-フランクフルトを飛んでおりまして。どちらかの空港で乗り換えていただいて、ニュルンベルクということになります。ただ最近、A380という大きな飛行機が飛ぶようになりましたから、恐らく大丈夫でないかと。」

「じゃあ本当にいけるんですね、バイロイトに」

「はい、何とかなると思います。」

その喜びは計り知れないのである。

「じゃぁS席2枚ずつ取って下さい。」

「はい、えっとあちらではカテゴリー1といいます。1枚8万5千円ほどになりますがよろしいでしょうか。」

値段など耳に入らないのである。

「じゃぁ6公演、全部カテゴリー1で2枚ずつお願いします。」

この会社の「バイロイト音楽祭」はエコノミーの航空チケット、ホテル、朝食付、2枚のカテゴリー3のチケットのみで合計89万円也だった。(今年のパンフレットを見ると10万円程アップしている)

東京-フランクフルト、フランクフルト-ニュルンベルク 全くの2人旅である。言葉も右も左もわからない日本人2人、やっとのことでニュルンベルクに到着した。

長い私の話もやっと、ここまで来たのだが、ここで待っていたのがこの話の主人公なのである。ニュルンベルク空港を出てタクシー乗り場にその人はいた。

「やあ、やあ、お疲れ様です。私○○です。」

と悪びれる様子もない。

私としてはとてつもない高額料金を払い、先のことを無視した無謀なバイロイト詣でなのである。何しろ、このためにローンを組んでいるから来月からその支払いに苦しまなければならぬ。添乗員もなく、やっとの思いで着いてみれば、おっさん1人の出迎えだ。またもや、89万円也が頭をのぞかせた。

ホテルまでは付いて来たが、それきりで「皆さんで楽しんで下さい、私はこれで失礼します。」と言って去って行ってしまった。その後、何回かお目にかかったが、それきりだった。

しかし人はわからないものでる。

このおっさん、とてつもない人だったのである。「パルジファル」はステージから3列目中央、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は前から5番目中央、「ニーベルンクの指環」4部作全て前方から15列目中央、と音楽ファンなら大抵の人が知っている4,5年待ちなどどこ吹く風である。更に驚いたのは、ツアーで一緒になって仲良くなった人々(現在も“バイロイト会”は続いて、年に1回5人で会っている。)の中に「パルジファル」のチケットを持っていない人がいた。皆からバイロイトに来て「パルジファル」を聴かないなんて考えられない、という話を聞いていた彼は、自分も聴いてみたいと言い始めた。冗談半分でじゃぁ○○さんに訊いてみたらというのを真に受けて○○さんに訊いてみたところ、明日の夕方に「パルジファル」のチケットをお渡しします、と言われたそうである。すると次の日の夕方、例の調子で飄々とした○○さん、「はい、どうぞ」と言ってチケットを渡して去って行ったそうだ。

その後私は、憧れのドレスデン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会、ウィーン・フィルハーモニーの演奏会と次々と回ってこの人のおそるべし実力を思い知ったのだった。どの公演も前から2~5列目ぐらいであり、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会では最前列中央に座らされて、周囲のドイツ人にジロジロと見られる始末だった。

こんなことから、今回も「音楽鑑賞デスク」の○○さんに連絡をしたのである。

特に、バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は、今シーズン限りで、この歌劇場を去ることになっている、ペトレンコの指揮、カウフマン、ゲルハウエル、パーペ、という有名歌手の出演で、5回の公演は即日完売になるだろうという。2月に前売りが始まったが、○○さんに言わせると、「そんな時にいいチケットは取れません」のだそうだ。

後日、「ああいい席取れました。前から5列目だったかな。中央です。あ、それから、パリ・オペラ座の方ですけど、ガルニエ宮のあれも前から3列目取れています。」

という電話をもらった。私の注文はどれもこれもチケットが取りづらいものばかりなのだが、「ちょっとやってみないとわかりませんけど」と言いつつ必ず最高の席を確保してくれるのである。

(7月5日の「パルジファル」は素晴らしい出来だった。)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ①

2018年7月5日

バイエルン国立歌劇場でうわさの指揮者 キリル.ペトレンコの

ワーグナー「パルジファル」を聴いた。と書けばどこかエラソーに

聞こえるが、本当の事を言えば、この日の為に一生けん命に努力をした、と言った方が正しい、ことの顛末はこうだ。

昨年の末、いつもの旅行社の「音楽鑑賞デスク」に電話をしたのだが、担当の人がいなかった。この人は夏も冬もほとんどヨーロッパで過ごしていて、

この“デスク”にはほとんどいない。帰社する日を確認して、その日が来るのを待った。それをするのにはそれ相当の理由がある。この人との出会いは

2010年だった。あの「バイロイト音楽祭」の時である。

「バイロイト音楽祭」というのは、ドイツのバイロイトという町にワーグナーが自分の作品だけを上演するためにつくった音楽祭だ。

ワーグナーのオペラというのは一般的なオペラとは異なって彼独自の求める音響と長時間の上演時間を聴衆に強いるのである。欧米によくある歌劇場の持つ“豪華さ”や“社交の場”の雰囲気は、ワーグナーのイメージする彼の作品には全くそぐわない。

だから、あの狂王ルートヴィッヒ二世の協力のもと、広大な土地に

ワーグナー自身の設計による祝祭劇場を完成させたのだった。

ルートヴィッヒ二世は国王でありながら、政治や国務にはほとんど関心を示さなかったが、芸術・特に音楽には異常なほど興味を持っていた。彼はワーグナーの歌劇「ローエングリーン」を知ってからそのとりこになり、いつか

ワーグナーに会ってみたいという想いにとらわれ18歳で国王になると、

本来すべき仕事を放りだしてワーグナーのパトロンになるべく努力したのだった。

ドイツの最大の観光名所の1つであるノイ・シュバン・シュタイン城は、

ルートヴィッヒ二世の造った城であるが、その美しさ・壮大さは誰でも知っている。高い崖の上にそびえ立つ壮麗な城は想像を絶する費用を必要とし、そのために軍事費すら削らなければならないという不安を幹部に与え、それを守るために暗殺されたというのが通説になるほどのものなのである。内部にはローエングリーン伝説にちなんだ絵画が多くしつらえられ、白鳥の置物もあり正に白鳥城と言うにふさわしい。(ノイ・シュバン・シュタインのシュバンという言葉はドイツ語で〔白鳥〕という意味である。)

 

国の将来をおびやかした建物も皮肉なもので現在ではこの城がロマンチック街道最大の見物になっており、この観光資源は言い尽くせないほどの経済的効果をドイツに与えている。余談だがシンデレラ城はこの城がモデルになったという話もある。

 

歌劇「ローエングリーン」の内容はざっとこんなものである。

濡れ衣を着せられた王女エルザを救うため白鳥の小舟に乗って現れた騎士

ローエングリーンは、エルザと愛し合い、かれの氏素性を決して訪ねないという条件で結婚する。しかし、魔女のオルトルートにたきつけられ夫の秘密を知りたいという欲望をもち、ついに禁門の誓を破ってしまう。

そしてローエングリーンは聖杯の城へと去っていく。何だか「鶴の恩返し」のドイツ版のような話なのだが、これはドイツに伝わる伝説なのである。

私たちがわざわざ聴きに行った「パルジファル」というオペラは、「ローエングリーン」の父の話なのである。つまり、ワーグナー最後の作品で「ローエングリーン」の父(パルジファル)の素性をひも解いたオペラを書いたことになる。チャイコフスキーの「白鳥の湖」というバレエもこの白鳥伝説から起こっているので原作はドイツである。

ちかこさんへの手紙

6月14日に語り芝居「ぼっこの会」15周年記念公演をせんかわ劇場で観劇。

さねとうあきらさんの追悼公演でもある。

この月は、コンサートが3回、芝居が1回あったので、いささか疲れた。

それでも、グザヴィエ・ロト指揮のレ・シエクルというオーケストラの「春の祭典」

(6月12日タケミツ・メモリアル)と「ぼっこの会」の公演は圧倒的に私を追いめた。

6月16日にはNHK交響楽団の定期公演で、アシュケナージと庄司紗矢香のコンサートがあったから、2日おきに外出していたことになる。さらに6月29日にはバンベルク交響楽団の「マーラー交響曲第3番」の公演がある(6月23日記)

とここまでは、予想以上の収穫を得て余裕を見せていたのだが、私個人としてはこれからが目玉なのである。

7月5日、ドイツのミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場でのワーグナーの神聖祝典劇

「パルジファル」のために半年前から準備をしていて、そのチケットが取れたから

「弾丸ツアーで」(3泊5日)で行くことになり、加えて、パリ・オペラ座 ガルニエ宮で

オペラ座バレエ「ラフィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)のチケットも取れ、

パリ2泊、ミュンヘン1泊の決死のツアーを組んだのである。決死というのは私にとって

少しも大げさではなく、とてつもなく時差に弱い者にはこの言葉しかみつからない。

過去にベルリン・ドイツ・オペラでもオペラ1曲を全て寝て過ごしたし、数年前に、憧れの

ドレスデン国立歌劇場での「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」の公演で後半のプログラム、

ブラ―ムス第1交響曲、冒頭のティンパニーで始まったのは覚えているものの、第4楽章

のコーダで目が覚めたという私にとっては笑えないほどの重症なのだ。

終演後ホテルのレストランで食事を始めたら、当日のコンダクターであるエッシエンバッハ氏も来られたのだが、考えてみればエッシエンバッハ氏を見に行ったようなものだった。

本題に入ろう。

「ぼっこの会」というのは にいくら近子さんの主宰する劇団である。偶然にも近子さんと

私は同じ年なのだが、知り合ってもうかれこれ30年位にはなる。その頃の私は大劇場の演劇が大好きで、蜷川さんの「ハムレット」や「マクベス」を観ていた頃にあたる。

だから初めて公演に誘われた時、会場に入ってみて、その狭さに驚き、又がっかりもした。

しかしそこで演じられるものは、どういうわけか終わってみると何か心に残るような感覚があった。誘われると行くこともあり、又行かないこともあったが、いつもどこかで

“やっているんだな”という気持ちも持っていた。

近子さんは、控えめな女性で、嫌味のない人である。にいくらさんの書かれた文章を引用してみる。

「ある公演でのこと。会場いっぱいにして、熱い視線を舞台に向けてくれていたのは、

障害を持った人達でした。傍らに車いすや杖を置いて-(中略)。

その時ふと、ベッドから離れられず、この会場にも来られない人達がいるはず・・・。カバン一つで何処へでも飛んで行き、元気を共有できる芝居を創りたい!」-(中略)

2003年さねとう作品のみを上演する語り芝居「ぼっこの会」が誕生したのです!

(注)さねとう作品-「さねとうあきら創作民話」

今回の公演は「つると平太」(鶴の恩返し より)で翻案、演出:ゆい きょうじ

でした。毎回感じるのは、前回と違うということです。

何が違うか?

力の必要のない所は、力を入れず、いざという時にその場を支配する その塩梅が違う。

私は芝居に詳しくはありませんので音楽で言うなら“静寂の中の集中力”つまり、

極めてシンプルであるということです。私の最も評価している作品(オペラ)は

ワーグナーの「パルジファル」です。最後の作品になった「パルジファル」はその美しさ、

力強さに特徴があります。4時間以上かかるオペラのほとんどの部分は静寂で、所々に盛り上がり、クレッシェンドがきますが、それもすぐ元に戻ります。大オーケストラと

大合唱団、それに大勢の歌手たち、凝った舞台の割には、表面だけ見ているとつまらない音楽にも聴こえます。現に音楽愛好家の中にもつまらない曲、というのと、最高の傑作という評価があります。

でも、北大路魯山人のいう最高の味は、“下関のフグ”にもいろいろ見方があるのですから

仕方ありません。

私は、にいくら近子さんと知り合わなければ、世の中にいろいろ人々がいることすら知らないで過ごしたはずです。

70歳なんてまだまだです。

私は、今回のパリ行きに備えてフランス語を勉強し始めました。そうなると、あれほど

億劫だったパリも楽しみになってきました。

 

進化する近子さんガンバレ!

ヒロシ様よりチカコ様へ