幽玄と古稀の旅行記 – 前場①

「モーツァルトの音楽って子供っぽい?」という質問に対して、音楽に興味のない人なら、「うん、うん。」と首を縦に振るはずである。しかし、コアなクラッシック音楽ファンに同じ質問をするなら、「あんた何言ってるの、バカじゃねぇ?」という答えが返ってくることは請け合いだ。更に、「モーツァルトわかんないなんて、音楽を聴く資格なし。」という厳しい反発に遭うはずだ。

実のところ、かくいう私も、モーツァルトが分からなかった1人なのである。私の音楽愛好家歴は長い。何しろ中学生の頃から聴き始めて、20年以上理解できなかったのである。40歳を前にして、初めて「おや!」っという反応が体の中に生まれた記憶は生々しい。曲目は、モーツァルトの「クラリネット協奏曲」の第2楽章。名曲中の名曲で、その美しさたるやこの世のものではない、と言われている曲である。しかし、その曲に集中しないで聴くなら、何の変哲もない音楽に聴こえる。というより、淡々と流れゆくのだから、どうしても捉えづらい。それは、下関のフグの様な味わい、あるいは、フランス産の白アスパラガスの様な味わいで、鼻の中にふわっと薫る感覚であるといってよい。例えば白アスパラガスが、ビネガーソースの味次第で生きるも死ぬも自在であるのと同じように、第2楽章の演奏の仕方でその評価は全く変わってしまう。モーツァルトを演奏するとなると、クラッシック音楽の演奏家も聴き手側も、同様に緊張し、全能力をもって対峙する姿勢に変わる。その理由は追々記していくが、彼の音楽には無駄な音というものが殆どないから、演奏者も聴き手も、X線写真の様に見透かされてしまい、誤魔かしがきかない。シンプルイズベストの典型がここにある。これも後の話にするが、彼の“オペラ”はモーツァルトの本質を非常によく表している。

コッツウォルズの村

今回の旅行は、友人夫婦と私ども2人の4人で行くことになった。同業者であるT夫婦との4人の旅行は、考えただけでも楽しいだろうという思いがある。私がバレエ・ファンになってみて、そういえばMさんがバレエに入れ込んでいたことをふと思い出したのだ。勿論それまでも年に1度や2度は会食をしてきた仲だから、言いたい放題でやってきた仲間である。しかし去年は、1年間で3回というメチャクチャの予定を立てて、海外に行ったことを話してみると、呆れられて、すったもんだした挙句、何しに行ったんだと言うから、バレエと美術と、オペラと答えた。Mさんはかねてから、バレエはボリショイという本格派だから、どこのバレエに行ったかというので、ロンドンのロイヤル・バレエと言うと、フゥ~ンという気のない反応だった。ただイギリスには興味があるらしく、話がそちらの方へと進むと、「私も、イギリスには行ってみたかったんだ。」と言う。今度はこちらがへぇ~っと言ったら、「“コッツウォルズ”に行きたいのよ。」とのたまった。ええ?あの“コッツウォルズ”?と言うと、今度は向こうが、「え~~~っ!知ってるの?」と上から目線で答えた。私は何年も前から、コッツウォルズに行きたくて、妻にそのことを言うと、「そんなとこ、寒くてしょうがない。」と言われ続けてきた人間なのである。何しろ仕事の合間にロンドンに行ったのは、年末年始の休みに2回程だ。ロンドンに行っても、街の中にいるしかない、というよりは、寒いから外出してホテルに戻るの繰り返しなのだ。コッツウォルズ地方というのは、世界中で最も美しい村、と言われ、ロンドンから約170km程の田舎の村の集合体なのである。私は40年程前、ビートルズ・ツアーというのに参加して、ビートルズの故郷のリバプールに行ったことがある。リバプールもロンドンからバスで同程度で、ほぼ同じだ。この時はリバプールで2泊したからいいが、コッツウォルズへは日帰りバスツアーしかない。勿論ロンドンから列車もあるが、この広大なコッツウォルズ地方を尻目に、迂回するように走る。たとえ最寄駅に着いたとしても、そこからの足が殆どない。小さな村が点在しているから、歩くなど問題外だ。考えてみれば、そんな僻地だから、昔のままの美しさを保っているのだろう。170kmの往復と、やっと着いても1つの村に30分の滞在で、早朝に出発して、夜にロンドンに戻ってくる。話によると、市内が渋滞すると、更に到着が遅れると言う。何年も前から計画倒れを繰り返しているので、その辺のことはいやに詳しい。だから、沢山ある日帰りコースを敬遠して、1泊旅行に決めていたのである。それほど行ってみたかったコッツウォルズなので、4人の会食の時にその旨を話すと、Mさんは「え~っ、本当に行きたいんだァ~~~。でもどうしても信じられない。」という。彼女の心の中はおそらく、自分は昔から憧れていたのに、相手が割って入ってきた(私の事)のが許せないらしい。「私、ここに行ったら、近くにあるストラットフォード・アポン・エイボンに行きたい。」と言い始めた。勿論私も行ってみたかったのだが、そこは大人の対応で、“ふぅ~ん”とやりすごした。

シェイクスピアの生家

去年のロンドン旅行の際に、どうしても行きたかった「グローブ座」に行くことが出来た。あのシェイクスピアが、沢山の芝居をやったところだ。彼は作品も沢山書いたが、役者としても成功者だった。そのグローブ座が再建されて、テムズ川のほとりにある。年末年始の寒い最中、ホテルからバスに乗って、やっとたどり着いたのは、予想を超えた劇場だった。立派な建物は舞台を取り囲む座席と、空が見える1階席の空間から成っていた。どう見ても、椅子らしいものはない。当時はこの空間に人は立って見ていたという説明を聞いても、釈然としない。何しろシェイクスピアの演劇は、2時間はかかる。昔の舞台はかなり早口だったというが、それでも立ち見とは・・・。私はシェイクスピアが好きで、殆どの作品を読んでいる。37編の戯曲と、157編のソネット(14行詩)を書いたシェイクスピアだが、流石に中にはつまらないものもある。しかし、それらも含めてシェイクスピアであって、そういう作品に触れると、4大悲劇をはじめとする有名作品が、いかに優れているかよく理解できる。などと、知ったようなことを考えている私にとって、彼女の発した地名は深く胸に刺さったのである。大体ストラットフォード・アポン・エイボンなどという言葉がすっと出てくること自体が面白くない。私はアポン・エイボンという名前だって、やっと覚えたのである。どうせ旅行会社か何かのパンフレットを見て覚えたんだろう、と高をくくったのだった。「アポン・エイボンに、シェイクスピアの生家が今も残ってるの知ってる?だから行きたいのよ、やぁねぇ。」ときた。この女の正体は何者なのだろうと考えていると、妻が口を挟んだ。「Mさんの大学の卒業論文、シェイクスピアなの知らなかったの?」

アポン・エイボンの教会に、シェイクスピアは埋葬されている。その地は、コッツウォルズから北へ向かった小さな村で、今回の1泊旅行でも充分行けるので、行くことになった。それが発火点になって、イギリス行きが決まったと言っていい。そうなると、折角ロンドンに行くのだから、ということで、“ロイヤル・バレエ”を観ることになった。Mさんの言うには、ロイヤル・バレエはコール・ド・バレエ(群舞)が良くないと言う。確かにボリショイ・バレエに比べれば、良くないかもしれないが、ボリショイ・バレエが世界で群を抜いていると言った方が正しい。10日間の旅行は、つまり、ロンドンに5日間、パリに3日間ということになると、ロイヤル・バレエが観られる日も限られている。予定を調べながら、妻が言った。「いやだぁ、行ける日は『フランケンシュタイン』よ。」『フランケンシュタイン』は、ロイヤル・バレエの新作である。第1幕は解剖室の設え。主役のフランケンシュタインは、人間の興味によって作られた怪物である。しかし作品は、悲劇の主人公フランケンシュタインにスポットライトを当てる。最後には、同情をもって作品が終わるが、やはりあまり気持ちの良いものではない。しかしこれが意外と人気があるらしく、再演が繰り返されている。コッツウォルズから帰った次の日にバレエ鑑賞を予定していたが、その日の演目がこのフランケンシュタインだったのだ。1日ずらすと『ロミオとジュリエット』が上演されるので、この日に行くことにした。ロイヤル・バレエのチケットは約2ヶ月前に発売される。発売日になんとしても取らないといけない。手元にあるダンス・マガジン誌3月号のロイヤル・バレエ『フランケンシュタイン』のカレンダーを見ると、3月5日、8日、11日、12日、15日、18日、20日、23日は昼夜2公演と記されている。つまり9公演。勿論バレエ・ダンサーはほぼ日替わりで、プリンシパルは2回から4回程出演する。体をめいっぱい使うバレエでは、連続して公演するのは無理である。5月1日の『ロミオとジュリエット』も人気公演で、10公演近く予定されている。1日の違いで『フランケンシュタイン』の呪いを逃れた私達は、次の苦労に直面することになった。2月末日、いよいよチケットの発売日。時差の関係から、PM6:00に、テーブルの上に置かれたノートパソコンのスイッチを入れた。

「あれっ?!なんでこんなに売れてるの?!色がついてるところが空席?」

色のついている座席表は無残にも虫食い状態で、4人並びの席は全くない。1階席は15枚程度、2,3階席の正面は全くなく、両サイドに5,6席ずつ。2人ずつに分ける作戦で見ると、何とか1階両サイドに2枚ずつ残っている。早く取らないと誰かに取られてしまう、と私が言うと、「大丈夫だよ」と妻が言うので、問答してもう一度取るつもりの席を見ると、色のついた2席が目の前で白色に変化。「大丈夫じゃないじゃん!」と私。2人ともいきり立っている。やっと取れたのは、2席つながりの4枚。他の日は観られない(パリに行くので)が、一応見てみると、殆どが同じ状態だった。発券当日の売り出し開始時間に、この状態だった。「そういえば、今日は一般発売開始だけど、会員とか、オペラ・ハウスのサポーター達の発売は、1ヶ月前からやっているんだよ。」と妻は言った。

日本でバレエが好きというと、相手はなにか独特の反応を示す。しかし、ロイヤル・オペラハウスの観客は、男性が多い。プリンシパルが難度の高いダンスを踊ると、ブラボー!の嵐。カーテン・コールの時は、立ち上がってブラボー!と拍手の嵐。これは、ボリショイ・バレエも同様。男性客が多く、騒ぐのはここでも男性のみ。ロンドンでは、ロイヤル・バレエの『ロミオとジュリエット』、パリでは、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)で新作バレエ。新しい方のパリ・オペラ座(バスティーユ)でオペラを2回、『カルメン』と『魔笛(まてき)』を観ることになった。パリには国立のパリ・オペラ座が2つある。有名なパリ・オペラ座は、“ガルニエ宮”という名前だ。ここはパリの中心部にあって、オペラ座通りにある。絢爛豪華なガルニエ宮は、誰でも知っている。オペラ座といえば、「パリ・オペラ座」で、外観も内部もその凄さに圧倒される。正にオペラ座の王である。しかし面白いことに、このオペラ座、あまりオペラをやらない。バレエが中心なのである。年々オペラの演出は凝ってきて、更に収容人数の問題もあって、オペラ座のオペラは、バスティーユにある超近代的なオペラ座でやっている。

モーツァルトのピアノ(モーツァルト・ハウス)

さて、パリのオペラ座(バスティーユ)で観ることになった2つのオペラのうちの1つ、モーツァルトの『魔笛』について記してみよう。所謂4大オペラというのは、『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』であるが、彼のオペラは20作品を数える。上演されるか、CDの録音は圧倒的にこの4作品が多いが、それでも『イドメネオ』『後宮からの誘拐』『ティート帝の慈悲』なども、CDカタログには結構な数で載っている。ちなみに、4大オペラの1曲の演奏時間は、3時間前後を要する。彼は35年の生涯に、626曲を作っている。モーツァルトの正式名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトで、生まれはオーストリアのザルツブルグ。音楽に興味のある人は、ピンとくるはずである。“ザルツブルグ音楽祭”は、モーツァルトの生まれた故郷の音楽祭だ。残念ながら、当のモーツァルトはこの地が嫌いで、後にウィーンに出ていく。この音楽祭は、モーツァルトを元手にして作られたものだが、誰もが知っているように、1920年に作られた街おこし的発想による。確かにこの街に行ってみると、かなり狭い地域に全てのものが密集している。彼の生家も残っているから、観光地として、夏は音楽祭で世界の注目を集めている。音楽の世界では名前が轟いているにしては、どこか寒々しい雰囲気を感じる。大指揮者カラヤンも同地の出身。彼の家も残っている。この地を嫌ってウィーンに出て行ったモーツァルトは、たがが緩んだように浪費を始める。亡くなる頃には、借金生活者となって、人生を転げ落ちるようにして最期を迎える。最後の作品は、超名曲の『レクイエム』K626。35歳で亡くなる僅か前、ねずみ色の外套を羽織った男が、モーツァルトの家のドアを叩く。彼が注文したのがこの『レクイエム』。喉から手が出るほど金が欲しいモーツァルトは、命を削って、最後はベッドの中でも作曲を続けた。全体の半分ほど作曲して、亡くなってしまったから、未完の作品。しかしこの『レクイエム』の美しさと、恐ろしさは、言葉でも文章でも表現不能。その『レクイエム』と平行して作曲したのが、歌劇『魔笛』K620である。こちらは一転して童話仕立ての作品。つまり、近づく死に向かいながら、死の世界の音楽と、童話的なオペラを作曲していたことになる。『魔笛』とは、読んだ通りで、魔法の笛の事だ。この笛を持って、苦難に直面し、数多の試練を通って、王子タミーノと、夜の女王の娘タミーナが結ばれるという話だ。この中心を成すのが、モーツァルトも属していたと言われるフリーメイソンからの影響だ。例えば“3”の重用とか、友愛や沈黙、忍耐といったものが中心的部分を成す。その台本は、シカネーダが書いた。このオペラの音楽というのが、やたらに楽しい曲で、すぐに口ずさみたくなる一方、崇高な音楽も繰り返し出てくるので、2時間50分程の曲は瞬く間に終わってしまう。初演は死の2ヶ月前、指揮はモーツァルト本人。シカネーダもパパゲーノ役で出演した。ウィーンにあるアン・デア・ウィーンという劇場は現在も残っていて、毎日のように公演が行われている。入口付近は現代風に改築されているが、一足内部に入って細い階段を昇ると、何と200年前の舞台と客席が入場者を圧倒する。現代の劇場からすると、中劇場程度の大きさだが、これほど豪華で、かつ、美しく保存されている事自体感動を呼ぶ。この劇場、ウィーンの中心部といっても、かなりわかりづらい場所にある。正面から見ると、近代建築風なので、昔のオペラ・ハウスには見えない。後ろに回ったり、側方から見るなら、200年前の建物である。劇場正面から見て右側にも入口があって、この入口はパパゲーノ門という名前がついている。正確な事は分からないが、この劇場はモーツァルトが死んで10年程後に、シカネーダも参加して造られたと言われている。シカネーダは多才な男であり、シカネーダが芝居一座を率いて、それなりの人物であったとしても、彼個人の力でこんな建物が出来るわけがない。しかしパパゲーノ門という名前がついているのは、シカネーダの台本で作られた『魔笛』に関係していることを暗示している。尚、このアン・デア・ウィーン劇場ではベートーヴェンも自作を初演している。

アン・デア・ウィーン劇場、パパゲーノ門

ここまでモーツァルトに関して、その一部を駆け足で記した。『アマデウス』という大作映画は、観るに堪える作品であり、私自身も何度となく観ているが、終盤になって“ねずみ色の外套を羽織った男に注文された”とする『レクイエム』と『魔笛』が描かれている。そして選曲も憎いほど的確で、涙を誘う。妻・コンスタンツェはとんでもない女である、というと、反論があるかもしれない。しかしモーツァルトの墓がなく、共同墓地に埋葬された場所すら特定できないのは、葬儀当日に雨が降っていた為に、墓地の門までしか付いて行かず、そこから直ぐに引き返してしまったという話も、あながち作り話とも思えない。タイトル・ロールの流れる間、演奏されるのは彼のピアノ協奏曲第20番の第2楽章である。この映画で使われている音楽を聴けば、モーツァルトの凄さが理解出来ること請け合いである。

ザルツブルグの市内に、モーツァルトの生家というのが残っている。生家というのだから、この家は両親の住んでいた家ということだ。モーツァルトがザルツブルグの大司教と大喧嘩をして、ウィーンに出たのは自分の意志だった。彼の住んだ家というのも残っていて、これはウィーンの中心地にある。映画で観るほど豪華ではないが、それでも間取りは広く、当時としては立派な住居だ。希望に溢れて、憧れの地に住み、天才と謳われた青年は、人気があった。それは子供の頃から、父・レオポルドに連れられ、ヨーロッパを周って、早熟さをアピールし、作曲をし、また曲芸のようなピアノを弾いていたからだ。一説によると、最高年収は日本円にして、3千万円程だったという。

ハイリゲンシュタットの遺書の家

1700年代後半でも、音楽家は独立することが出来なかった。先輩のハイドンですら、エステルハージ候の宮廷音楽家だった。束縛はないにしても、それなりの義務は存在していただろう。その意味でも、モーツァルトは独創的だった。この後に続くベートーヴェンも、従来のしきたりから解放され、独立することを考えて、ドイツのボンからウィーンに来たのだった。ベートーヴェンの場合は、ピアノ教師としての能力と、ある程度の支援を得られたのが幸運だったが、モーツァルトの場合彼の性格からして、地道な努力ということが出来ない。それでも、誰にも出来ない“天上の音楽”を作る能力と、現代まで彼を超える音楽家がいないとするなら、これこそが正真正銘の天才といって差し支えない。彼の作る音楽は、人間の作りだす音楽ではない。神はある意味で、軽率な男に音楽に関する全てのものを与えたもうたのである。しかし、芸術家というものは、凡人には理解しづらい側面を持つと同様に、わかりやすい面も持っている。数十年後輩のベートーヴェンといえば、モーツァルトと並ぶ大音楽家であるが、全く異なった個性を持っていることは、誰でも知っている。若い頃のベートーヴェンもウィーンに出てきて、初期の頃はとてもはつらつとした音楽を書いていた。30才を過ぎた頃から耳に異常を感じて、最終的にはほとんど聞こえなくなった。その頃“ハイゲンシュタットの遺書”を書いたのは、音楽家にとって最大の問題が発生したからだ。その「ハイリゲンシュタットの家」というのも現存している。恐らく私だけではないと思うが、この家、とてもロマンチックな少女趣味ともいえる家に見える。その家の2階に住んでいたというが、2階に上がるのに外階段を利用する。外階段も洒落たものだが、2階の窓からも可愛らしい中庭が見える。知っての通り、ベートーヴェンは引っ越し魔だった。この家の大きさからみて、夏の間に利用したのだろう。そしてその側には、有名なホイリゲ(白ワインを呑ませる居酒屋といったところか)があって、よく通っていたという。ロマンチックな2部屋の家には、料理のスペースがあったとは思えない事からも納得できる。ハイリゲンシュタットという小さな村の側を小川が流れている。その小路を、ベートーヴェンは後ろ手に組んで散歩していたという。現在は全て舗装されているが、その村の配置から見て、200年前と変わっているとは思えない。ただ、道は土であっただろう。道の両端には家が建ち並んでいる。ピッタリと。うまく言えないが、小さな村が、まるで区画整理されたように、整然と出来ていると言ったらどうだろう。この小川の側を歩いていたベートーヴェンは、ある着想を持った。第6交響曲「田園」はこうして生まれたという。数十年前、クラッシック音楽ファンは、「こんなにテンポの速い演奏なんてあるか。まるでオートバイに乗っているみたいだ。」とカラヤンを揶揄したが、現地に行ってみると、我々を乗せたタクシーは、この村の中をスイスイと走り抜けて、ウィーンまで運んで行った。ウィーン市内からハイリゲンシュタットまで、市電で約30分位、ホイリゲで有名なグリンツィングまでも同じ位の距離である。現在は地下鉄も走っている。グリンツィングも、ハイリゲンシュタットも、アルプスの麓の村である。風景としても、『サウンド・オブ・ミュージック』(ザルツブルグで撮影)のような感じである。

ベートーヴェン繋がりで言えば、彼が歌劇『フィデリオ』を書いた家というのが残っている。ウィーンといえばリング(環状道路)で、この中と外周に昔の街がある。リングの上を、赤と白の路面電車が走っている。ウィーン国立オペラ座を中心として、ウィーンの街を一周するのである。トラム(路面電車)に乗る為には、あちらこちらにある窓口でチケットを買う。観光の人々は、1日券や2日券を買えば、トラムもバスも乗り放題だ。ウィーンの不思議は、ここで発揮された。ヨーロッパでトラムに乗るのは、1番効率の良い方法だ。重心が低く、何両も連なった大きな車両が、クネクネと蛇のようにうねりながら街中を走る。停留所には電光の時刻表があり、そこに各方面行きのトラムがそれぞれ行き先の番号を付けて入線してくる。運行状況は手に取るように分かる。バスも同じだが、ウィーンのトラムは、他の国のものと少し違う。ここのはトラムというより、路面電車といった方がピンとくる。全体的に車体は細く長い。ヨーロッパでよく見るトラムは、寸胴で一両が短く、それが何両も繋がっているので、蛇状の動きをするが、ここのは昔、東京で走っていた都電に近い。都電をもう少し細くして、1両でなく2,3両繋がった感じ。正面から見ると、私の感覚では、“能”の『若女』の面(おもて)の様。だから私は心の中で、“ウィーンの若女”と名付けている。どうしてウィーンのトラムだけが、こんなに流行遅れの形なのか?それはリングのせいである。ウィーンという街は、1周5kmの内と外に出来た街である。昔、城壁のあった所に、リングという周回道路を造ったのを利用して、その上をトラムが走っている。外回りと内回りの2本の線路は、これ以上広げるわけにいかない。何しろ、車もバスもこの道路を走っている。つまり、トラムを走らせたくても、物理的に無理である。(ただし、現実には新型トラムも走っているが、他の街のものと比べると、少し小さいように思えた。)時代遅れの路面電車は、ウィーンの街にとてもよく似合う。オーストリア国旗と同色の車体の白と赤も可愛い。実はこの路面電車、全て無料なのである、と思うととんでもないことになるらしい。トラムは平らな駅に次々と入線してくる。ドアが開くと(ほとんどが自分で開閉のボタンを押すタイプ)、入口に“打券機”という小さな機械がある。持っているチケットを、この小さな機械に入れると、“ガッチャン”と大きな音がしてマークがつけられる。降りる時も同じだ。しかし、ウィーンで乗客が打券機にチケットを入れるところを、見たことがない。皆、平然と無視して乗り降りする。たまにガッチャンという音がすると、全体がそちらに耳を向ける。その音にひかれてそちらを見ると、どう見ても観光客である。変なところで潔癖症の我ら2人は、それでも駅のキヨスクらしきところで、1日券を買った。キヨスクの人も、当然のように金額を受け取って、チケットを渡す。一体どうなっているのかこの街は。何日もウィーンにいると、いつしかウィーンっ子のように、打券機を無視するようになった。(これに反して、地下鉄は車内にチケットのチェックに来る。空港からウィーン市内までの直行特急列車ではチェックにあった。)ウィーン国立歌劇場駅は、路面電車が各方面から集まってくる中心地だ。ウィーン国立歌劇場を正面に見て、右側の道を北に向かうと、シュテファン寺院がある。この道はケルントナー通りで、人々が集まってくる所だ。モーツァルトがウィーンで死をむかえた家はこの近くで、シュテファン寺院の向こう側にある。モーツァルトの家の窓から外を見ると、シュテファン寺院が目の前に見える。ウィーン国立歌劇場駅から路面電車に乗って左回りに北上すると、約20分程でショッテントーア駅に着く。この駅も大きな駅で、地下駅から38番の路面電車に乗ると、ホイリゲで有名なグリンツイング駅に着く。この駅にも20分強で行ける。途中で分岐すると、ハイリゲンシュタットに着く。(尚、マーラーの墓は、グリンツィングの近くにある。)

話をショッテントーア駅に戻そう。この駅からブルックナーがよく利用したというホテルまで3、4分。私たちはこのホテルに泊まった。このホテルの外壁面には、ブルックナーのレリーフがはめ込まれている。駅から市内に少し戻るように歩くと、ベートーヴェンが住んでいたマンションがある。4階の全フロアを彼は借りていた。4部屋続きで、建物をほぼ1周出来る。この窓から見ると、ショッテントーアの中心部が見晴らせる。目の前には緑があって、このマンション自体、平地から階段を昇って行くので、このあたり一帯も緑が豊かだ。この家も白が基調で、美しい建物だ。ただ、1階の入り口から入って、ベートーヴェンの住んでいた4階まで、螺旋階段で昇るのにかなりの重労働になる。彼は独身だったから、料理を作ったり、ごみを出したり、間違いなくあの階段を昇り降りしていたはずだ。こんな環境のいい住まいであるが、ウィーン市内には近く、アン・デア・ウィーン劇場にも近い。シューベルトも、ウィーン・フォルクス・オーパー(ウィーン国民歌劇場)の近くに住んでいて、これも、路面電車の駅に近い。