幽玄と古稀の旅行記 – 前場②

モーツァルトといえば、ト短調交響曲(40番)である。あえて40番と断ったのは、もう1つト短調交響曲があるからだ。25番の方は17歳の作、40番の方は32歳で、死の3年前に作られている。この年、彼の3大交響曲が立て続けに作曲された。3大交響曲というのは、第39番、第40番、第41番の事で、最後の交響曲は『ジュピター』という名前がついている。我が国では、40番の交響曲が特に有名になった。小林秀雄の名文は、第1楽章についての感想文だが、殊の外日本人に受け、更にジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団の名演によって、この曲がモーツァルトを代表することになった。1970年のセル、クリーヴランド管弦楽団の来日公演でも、シベリウスの第2交響曲の日に、“セルの40番”が演奏されていて、これはライブ録音され、現在CD化されている。

先に書いたように、ミロス・フォアマンの映画『アマデウス』の出だしの部分で、モーツァルトを目の敵にする宮廷作曲家のサリエリが自殺をはかって病院に担ぎ込まれるところ、全く音楽のないシーンに突然、強烈な旋律が、そう、17歳の時に作ったト短調交響曲の第1楽章がアタックする。その想像を絶する音楽の使用は、この映画がいかに優れたものかを予想させる程素晴らしい。よく言われるのは、短調の曲は、モーツァルトの生命線だと。そう、最後の『レクイエム』も、ニ短調なのである。それに疑問を挟む気はないが、長調の曲も素晴らしいのである。例えば私がモーツァルトに開眼した、K622のクラリネット協奏曲はイ長調であるし、K618のアヴェ・ヴェルム・コルプスもニ長調。最後のピアノ協奏曲第27番も変ロ長調と名品揃いだ。更にモーツァルトを知りたいなら、オペラを聴いた方がいい。そうすれば、短調の作曲家モーツァルトのイメージに変化が起きるかもしれない。しかし、映画『アマデウス』の最後、モーツァルトが共同墓地に入れられて、映画が終わり、エンド・ロールが出ている間に流れるのは、ピアノ協奏曲20番の第2楽章である。このニ短調の曲は、27曲あるピアノ協奏曲の中でも特に素晴らしい出来で、出だしの1音から不安なリズムを刻み出し、全曲が“子供っぽくないモーツァルト”を証明する。この恐ろしい曲を書いたモーツァルトについて、小林秀雄の『モオツアルト』から記してみる。

-エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツアルトに就いて一風変わった考へ方をしてゐたようである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時(いつ)か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考へられぬ。元来がさうゆう仕組に出来上ってゐる音楽だからだ。はっきり言って了へば、人間どもをからかふために悪魔が発明した音楽だと言ふのである。ゲエテは決して冗談を言ふ積りではなかった。そのしようこには、かういふ考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断ってゐる。-(エッケルマン『ゲエテとの対話』1829年)

モーツァルトの音楽が、ゲエテの言う“悪魔が発明した音楽”かどうかは定かではないが、確かに、人間の世界とは別の世界が関係している音楽とは言えそうである。

小林秀雄が1964年に書いた『モオツアルト』を読むと、彼のモーツァルト論が見えてくる。

「シンフォニー作者モオツアルトは、オペラ作者モオツアルトから何物も教へられるところはなかった様に思はれる。彼の歌劇は器楽的である。」

確かにそうだ。モーツアルトのピアノ協奏曲第20番は、器楽的な名作である。しかし・・・・

高崎保男は、長い間『レコード芸術』誌でオペラ担当の評論をしてきた。モーツァルトに関する文を引用する。

-モーツァルトのオペラを彼の交響曲や器楽曲と本質的に同質の「純音楽」とみるか、あるいは逆に、彼は器楽曲においてさえ常にその比類ない「人間の歌」を歌った、とみるかは、人によって様々であろう。だが少なくとも、オペラという形態の中で、モーツァルトのこの上なく人間的な音楽が最も生き生きと息づいていることを、誰しも否定出来ないはずである。言い換えるなら「モーツァルトの人間の最も本質的なものが彼のオペラの中に最も現れている(パウル・ベッカー)のである。ト短調交響曲第1楽章の第1主題や、同じくト短調の弦楽五重奏曲のそれにモーツァルトの「疾走する悲しみ」を見出すことは決して間違ってはいない。彼はまたそのオペラのフィナーレを極めて有機的なる調性の連関と統一のもとに書いた。フルートが1本の旋律を奏しても、それがまるで人間の声の様に響くことすら稀ではない。しかし音楽の中に極めて深く、真実な人間感情の息吹を与えずにおかなかったモーツァルトにとってある状況におかれた生身の人間の「歌」ほど真実なものはなかったのである。-(諧調と美と逸楽と、―ベームの《コシ》高崎保男)

「モーツァルトの音楽が嫌いな人」という言葉は、意味がない。何故なら、そんな人間はこの世に存在しないからである。存在しているのは、ただ、モーツァルトの音楽に魂までも捧げつくした人々と、モーツァルトの音楽などまるで無縁の人々との二種類だけである。

《EMI》TOCE6325~27. CD

ベーム-フィルハーモニア管、モーツァルト歌劇“コシ・ファン・トゥッテ”全曲解説書より

我が国におけるモーツァルト像というのは、ト短調交響曲の第1楽章“疾走する悲しみ”と表現した名文句と、“セルの40番”と言われたセル指揮-クリーヴランド管弦楽団の名演があったからだろう。加えてモーツァルトは、器楽を重要視していたという独特な感性にもよる。今回この文を書くにあたって、小林秀雄『モオツアルト』を読み返していて、面白いことに気が付いた。

(小林秀雄全集第8巻/モオツアルト・新潮社)P.82

「若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先何処に行くところがあろうか。例えばチャイコフスキーのカンタアビレまで墜落する必要が何処にあったのだろう。」

特に我らの世代、あるいはその前の世代の人々で、小林秀雄の『モオツアルト』を読まなかった人はいないであろう。勿論音楽通の間の話であるが。私も知らずして、“チャイコフスキーのカンタアビレ”にやられていた1人ではないかと思い返しているところである。モーツァルトのピアノ協奏曲第20番は、ベートーヴェンも気に入っていた曲だが、その内容は異常に暗いのである。暗い第1、第3楽章に挟まれた第2楽章を聴くと、“美しさ”などという軽い表現など無視したくなる“歌”がある。人間と人間との間の歌は、立場によって異なるだろうが、高崎保男が言う“生身の人間の歌”なのである。モーツァルトは、サリエリの言う神が作りたもうたケダモノではないし、天上に住んでいる神でもない。あるのはただ1つ、“生身の人間の歌”だけである。ピアノ協奏曲という器楽の分野にも、“歌”が入ってくることこそ、モーツァルトの真骨頂なのである。更に言うなら、モーツァルトはオペラにおいて、かなりの差別を行っている。女性と異国人に対してである。いや、男性に対してもかもしれない。当時のオーストリアの立場は、オスマン・トルコに近くまで迫られて、持ち堪える国民がいる一方、トルコに対する自虐的な、ブラック・ジョークも流行っていた時代だった。『トルコ行進曲付』ピアノ・ソナタや、バイオリン協奏曲『トルコ風』など有名な曲が書かれ、オペラでも『後宮からの誘拐』や『魔笛』のモノスタートス(悪役)に外国人が現れる。それは一種の遊びとして受け止められるのだが、人間に対する批判は強烈である。特に女性に対する攻撃はすごいものがある。『コシ・ファン・トゥッテ』は日本語訳だと“女は皆こうしたもの”とあからさまだし、『ドン・ジョバンニ』のツェルリーナなど、結婚を前にした乙女が、口のうまいドン・ジョバンニに体をゆるしかける場面もある。そしていざ恋人に知れると、いけ図々しくシラを切る歌「ぶってよ、マゼット」と可憐な声で歌って、真面目な村人のマゼットを煙に巻く。この2曲のオペラだけでも相当なもので、女性に対する不信感がオペラ全体を覆っていると言っていい。私は、歌劇『ドン・ジョバンニ』の序曲が終わってすぐ、ドンナ・アンナが寝室で恋人と間違えて、ドン・ジョバンニと抱き合うシーンからこのオペラが始まることを知っている。それを知って父親の騎士長が逃げてゆくドン・ジョバンニに決闘を申込み、嫌がるドン・ジョバンニに斬りかかって、あえなく老人の方がやられてしまう。このオペラはこの原因から全て始まるのである。もし、今まで言われているように、身持ちの固く、騎士長の美しい娘である、ドンナ・アンナが一方的な犠牲者で、ストーカーのようなドン・ジョバンニが悪者であるという解釈であれば、その後に続くドンナ・アンナの歌は、その意味を失ってしまう。純粋に見えるツェルリーナも、聖女っぽいドンナ・アンナも、実のところ“同じ穴のムジナ”という解釈が成り立っても、あながち間違いではないかもしれない。『コシ・ファン・トゥッテ』(女は皆こうしたもの)の内容はたわいもない。2人の姉妹を愛する2人の士官が、老哲学者ドン・アルフォンゾに唆されて、恋人の貞操の試験をする。変装した男たちが相手を取り換えて求愛すると、恋人たちはあえなく陥落。というもので、結末は“女は皆こうしたもの”と言う言葉で終わる。『フィガロの結婚』は反対に、アルマヴィーバ伯爵の職権の乱用がバレる話だ。これは徹底的に権力を痛めつけるオペラだ。これだけ見ても、モーツァルトの興味の対象が、日常の中にある、人々の織り成す人生模様であることがわかる。4大オペラ『フィガロの結婚』も、『ドン・ジョバンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』も、最後は人々を赦す美しい崇高な音楽で締めくくられる。これは、この人独自のものだ。

手元にある『モーツァルト』田辺秀樹(新潮社)からP158-〈パパゲーノ独白-モーツァルトのオペラを読む(畑中良輔)〉

『コシ・ファン・トゥッテ』も、恋人の変装による浮気試しの笑劇にしてしまった日本初演。どうしてあの中に隠された、モーツァルトの血の涙が読み取れなかったのだろう。モーツァルトが笑っているその瞬間の心の傷みを、どうして素通りしてしまったのだろう。全てが読めてなかったのだとしか云いようのない当時の我々の幼さだったのか。-

もう1つ。

《之を楽しむ者に如かず》吉田秀和(新潮社)モーツァルトとは誰か?-から-モーツァルトでいえば、1つの永遠に変わらぬモーツァルトが本当にいるのか。そうではなくて、モーツァルトは常に創造的に変わっているのではないか、ということなのだ。

-中略-

モーツァルトとは誰か?これはこのごろ自分が『レコード芸術』に書いている原稿の中で、何度も繰り返してきた質問だ。私は今改めて、自分がいかにモーツァルトについて知らないかを思っている。-

吉田秀和は日本を代表する音楽評論家であることは、皆知るところである。小林秀雄、中原中也、青山二郎、白洲正子などのそうそうたるメンバーの一員である吉田秀和は、その中でも最年少であった。日本の音楽評論の最高峰である彼が、モーツァルトについて「私は今改めて、自分がいかにモーツァルトについて知らないかを思っている」と言わしめる“モーツァルト”について、私などの一音楽愛好家が何をも言うことは出来ない。しかし、勿論、素晴らしい器楽曲のことを評価するのに、私もやぶさかではないが、彼の「オペラ」を知らずして、モーツァルトを語ることはあまりに勿体ないとは言える。“オペラなんてくだらない。”という人々に、私も共感しないわけではない。同じことを想うこともある。でもそういう人に、ワグネルの『パルジファル』はどうかと尋ねてみたい。

小林秀雄『モオツアルト』の中(P84)で、「この歌劇の大家の天資には、ワグネルという大家が性格的に劇的であった様なものはないのである。」しかし“ドラマ”は、人間の存在なくしては成立しないものだ。人間についての鋭い観察眼はモーツァルトの専売特許である。そして集中力も。

再度、小林秀雄『モオツアルト』から引用する。(全集P.60)

-プロムドンが、モオツアルトに面識があった人々の記録を沢山集めてゐるが、その中で、特に僕の注意を引いた話が2つある。

-中略-

この偉人の奇癖については、すでに多くのことが書かれてゐるが、私はここで次の事を思ひ出すだけで充分だとしておこう。彼はどう見ても大人物に見えなかったが、特に大事な仕事に没頭してゐる時の奇行は酷いものであった。あれやこれや前後もなく喋り散らすのみならず、この人の口から呆れるようなあらゆる種類の冗談を言ふ。思ひ切ってふざけた無作法な態度をする。自分の事はおろか、凡そ何も考へてはゐないと言う風に見えた。

或いは理由はわからぬが、さういふ軽薄な外見の裏に、わざと内心の苦痛を隠してゐるのかも知れない。あるいは又、その音楽の高貴な思想と日常生活の俗悪さとをらんぼうに対照させて悦に入り、内心、一種のアイロニイを楽しんでゐるたのかも知れぬ。私としては、かういふ卓越した芸術家が自分の芸術を崇めるあまり、自分という人間の方は取るに足らぬと見限って、果てはまるでばか者の様にして了ふ、さういう事もあり得ぬ事ではあるまいと考へた」(ヨゼフ・ランゲ)

モーツァルトの肖像(ランゲ)

これは、モーツァルトの義兄のヨゼフ・ランゲの書いたものである。このランゲが書いたモーツァルトの肖像画はつとに有名であるが、未完に終わった。ヨゼフ・ランゲの文章の後に、小林秀雄はこう記している。

「機かいに故障のない限り動いてゐるこの自動人形のどこにモオツアルトという人間をさがしたらよいか。やがて恋愛、結婚、生活の独立という事になるのだが、僕等は其処に、この非凡な人間にふさわしい何物も見付け出すことは出来ない。彼にとって生活の独立とは、気紛れな注文を次から次へと凡そ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事にほとんど無抵抗に屈従し、その日暮らしをすることであった。成る程、芸術史家に言はせれば、モオツアルトは芸術家が己れの個人生活に関心をもつ様な時代の人ではなかった。芸術は生活体験の表現だとゐう信仰は次の時代にぞくしただろうが、そんなことを言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と、彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。

交通渋滞が酷い。年度末(H31.3月)ということもあって、通常なら50分程で帰宅できるのに、ここのところ1時間30分程を要している。私が首都高速道路を向島で下りて一般道路に入ったのは、目的地までの所要時間が2時間近くかかるという道路の電光掲示板が目に入ったからだった。向島出口から墨堤通りに入るとすぐ、右手に隅田川がある。ここは桜の名所として有名だ。堤の上の道には、ピンクの提灯が一列に並んで花見客を待っているが、意外と人通りが少なく、どこか寂しい。やはり花見といえば、人々で溢れ返っているのを想像する。でもこの場所だって、少し前までは人混みが酷く、桜の時期ともなれば、人間と車のコラボレーションが桜の花に彩りを与え、車窓からだけでも充分に花見気分が味わえたものだった。そういえば場所取りのブルーシートや段ボール、そして新聞紙なども全くなく、ただ通り抜け出来る程の道路に、ところどころ出店している屋台だって寂しげである。この通りを両国方面にまっすぐ行くと、両国国技館があり、両国駅がある。更に直進すると、両国通りとの交差点の向かい側に回向院がある。ここには鼠小僧次郎吉の墓があるが、それよりも相撲発祥の地として有名である。この寺院の境内で相撲が始まったというので、両国に国技館が出来たという。(以前は蔵前にあったので、蔵前国技館と言っていた。)回向院に突き当たって右折すると、すぐ両国橋がある。この下を流れるのが隅田川である。昔の呼び方でなら大川だ。落語の『文七元結(もっとい)』は、この大川に身投げをする男の話である。この人情話は何度聞いても良い。隅田川の花火大会は墨堤通りから両国橋の間が見どころで、さらに浅草を通って駒形辺りも賑やかだ。例の花見の時期の墨堤通りも、隅田川の花火大会の日になると、多くの人々が場所取りで身動きが出来なくなる。現代ではこのような隅田川であるが、足利義満の時代には、武蔵野国、隅田川である。京の都で攫われた梅若丸を探して狂ったようになる母親、道々で少年を連れた人攫いのことを訊いて追い、武蔵野国に来た時には体力も気力も限界だった。誰が見ても狂女である。辿り着いたのは隅田川で、ちょうど船が出るところだった。船頭にバカにされながらも乗船し、梅若丸の事を訊くと、なんと、人買いに捨てられて病死した少年の話と、一周忌の事を聞き、それが我が子であることを知る。狂女の悲しみは墓の前で頂点に達し、人々にこの土を掘り起こしてくれと迫る。皆の勧めで大念仏に加わる母。墓の中から少年の声と幻が聞こえ、二人は抱き合おうとするが幻は消え、立ち尽くす母。

能『隅田川』は、英国の大作曲家ベンジャミン・ブリテンが来日時にこの能に感動して、歌劇『カーリュ・リバー』が書かれた。

狂女が隅田川の小舟に乗って渡ったところは、今でいう向島である。つまり都心から来ると、両国橋を渡ったところが、少年の墓があったところになる。そこは、今では首都高向島線が走っている。私にとって隅田川とは、『文七元結』の“文七”が身投げをしそうになる場所であり、また、“狂女”の悲しみが心に染み込む所なのである。1日に2度この辺りを通っていると、自然とこの2人の事が思い出されるが、文七の方はハッピーエンドだから良いとしても、京から来た狂女の方は、いつもいたたまれない気持ちになる。昔は向島には花街があって、華やかだったと言うが、今は僅かに料亭が残っているものの、寂れた感はぬぐいきれない。両国といえば、江戸時代にはある意味で華やかな街で、それに比べれば新宿や渋谷は田舎であった。時の流れは浅草や上野を置き去りにして、中心地を変えてしまった。そのせいとばかりは言えないが、この一帯に漂う寂寥感は確かにある。それは言葉に出来ぬもので、“ある”ことを感じなければならない。能『隅田川』は正確に言うと、世阿弥の作ではない。息子の観世元雅の作であるが、世阿弥の意見を求めていることも事実だ。この寂しい悲劇の結末は、能の中でも異色のものだ。しかし世阿弥の人生というのも、成人してからは不幸の連続であった。そんなことを考えていると、夏の夜の華やかな花火すらも、寂しくも悲しくもある。

約2時間程かかって帰宅してみると、家の中は薄暗かった。妻の帰りが遅れるということなので、明かりを点けてから再生装置のスイッチを入れ、ソファーに座った。ここのところ続いている不眠のせいで、レコードに針を落とすと、ほとんど同時に眠りに落ちたらしい。スピーカーの間に置いてある、モーツァルトのくすんだ金色のメダルすら目に入らない。このメダルは、随分前にザルツブルグのモーツァルト・ハウスで購入したものだった。何かにつけて、触ってみたり、重さを楽しんだりしているから、その感触は見なくてもわかる。加えて、小さな額に入っているあの有名なモーツァルトの肖像画も飾っていた。この2つは大した理由もないのに、ずっと私の部屋に置かれている。ただモーツァルトの生家で買ったものという理由だけで。レコードが終わったらしく、ゴトン、ゴトンという、周期的な針音がする。部屋の中はどういうわけか薄暗く、ぼ~っとしている。屋内なのに霧がかかっているような感じだ。感覚としては、目覚めたような気もするが、そうでないようでもある。ただし不快感というものはない。そうこうするうちに意識はハッキリしてきて、目の前のものは自然な色彩になっている。ただ、その場所がどこなのかはわからない。いやここは、「アン・デア・ウィーン劇場」のようだ。かつらのようなものを被った小柄な男が、オーケストラ・ボックスから上半身を出して、指揮をしているのが見える。オペラ『魔笛』を指揮しているらしいのだが、随分と息苦しそうだ。顔は白く、額には汗をかき、肩で息をしているのがよく見えた。後方からでも体の動きが手に取るようにわかる。これは、1791年9月30日の魔笛の初演の場面なのだ。ということは、指揮をしている小柄の男が、モーツァルト本人ということになる。記録によると、この公演の途中でモーツァルトは倒れることになっている。そうこうしているうちに、その男はぐらっと前方に倒れそうになった。しかし、譜面台に両手をついて立ち直ったようだった。数分後、今度は客席にあおむけに倒れた。今度は身動きせずに、そのままの状態だった。オーケストラの団員も、歌手たちも、勿論観客も総立ちになった。舞台裏から人々が出てきて、モーツァルトを運んで行った。その中には、あの、シカネーダもいた。自宅に運び込まれたモーツァルトは「今、魔笛はどのあたりだろうか。」とか、「あの歌手は、うまく歌えたんだろうか。」とか、うわごとのように語っていた。勿論これは、後で人伝に聞いた話である。しかしその時の私の目には、モーツァルト本人が見えていた。というより、何かを伝えたい様子が感じられた。そこには笑顔のモーツァルトではなく、苦しさを素直に表したモーツァルトの顔があった。こんな顔をするのかという位、寂しさと、悲しさを満載した顔だった。しかしその顔もすぐに消えて、いつもの屈託のない顔に戻った。こちらの方がずっと楽なのだとでもいうように。その笑顔が戻ったとほぼ同時に、ヴォルフィーは私の前から消え去っていた。私は妻が戻るのを待っていたが、そのことは口外せずにいようと心に決めたのだった。