院長自己紹介・ブログ

幽玄と古稀の旅行記 – 後場①

4月27日(土)から5月6日(月)は10連休ということで、世の中は落ち着かない。おそらく過ぎてしまえば、皆、何もなかった様に日常に戻るはずだ。今までだって、7,8連休はあったし、それなりに対応してきているのに、と思ってしまう。ただ、こういう考え方が良いとも言えないことは、ここのところの経験によってわかってきた。

4月27日からの我らの旅行は、ロンドンとパリで、昔よく言われた“ロン・パリ”だ。何十年も前、“ロン・パリ・ローマ”というツアーが流行っていて、特に若い女性に人気があった。つまり、1週間ほどで、イギリス、フランス、イタリアを周遊するというわけだ。それも、ヨーロッパを代表する大都市を3つも周るのだから、今風に言えばコスト・パフォーマンスが良い。そんなことを思い出したのは、ロンドンとパリに行くことになったからだ。私は日本史ファンであるが、世界史となると全くダメで、加えて地理すらよくわからない。恥を忍んで言えば、ドイツ音楽好きであることを公言しているのに、ドイツがヨーロッパのどこにあるのか、あるいは、ウィーンにも随分行っているのに正確な位置を知らない。ただ救われるのは、音楽を好きになったおかげで、地名や街の名前はいやに知っているのである。例えば、私の好きなオーケストラの1つである「バンベルク交響楽団」について言えば、バンベルクという人口10万人に満たない小さな街にオーケストラがあることに興味があり、調べてみたことがある。この位の人口の街に世界的オーケストラがあること自体がまず不思議で、それにも興味を持っていたから、このオーケストラが来日にした時にパンフレットを買ってみたのである。このオーケストラの名前は、日本では大抵の音楽ファンは知っている。それは来日する回数がやたらに多いからだ。恐らく数年に1度は来日している。パンフレットを読んで驚いたのは、このオーケストラの来日公演の演奏回数が、ゆうに100回を超えている事である。通常では来日公演の数は来日して5,6回、地方の公演を含めても10回位だから、100回以上の公演をしたというのは想像を絶することなのだ。ドイツが何処にあるのかも定かでない人間が、本場のホールでこのオーケストラを聞こうというのだから尋常ではないが、この街、とても不便なところにあることだけはわかった。東京から飛行機でなら、まずミュンヘンでルフトハンザ航空の国内線に乗り換えて、ニュルンベルクへ。そこから鉄道を使うのだが、これの本数が多くない。地図で見るとニュルンベルクから北東に行けばバイロイト(これも小さな街)、北西に行けばバンベルクで、同じくらいの距離がある。ニュルンベルク空港からバイロイトまで車で1時間半ほどだから、バンベルクまでも同じくらいだろう。視点を変えてみよう。バンベルク交響楽団の人々が日本に来るためには、バンベルクから車でニュルンベルク空港まで行って、国内線でミュンヘンに行き、そこでルフトハンザの国際線に乗り換えて東京まで来ることになる。ただ、現在のニュルンベルクは小さな街だから、ニュルンベルク―ミュンヘン間の便数も少ない。現に私たちがバイロイトに行った時も、ニュルンベルク行きの便に乗るのにミュンヘン空港で2時間以上の待ち時間があった。バンベルク―東京はこれほど不便ではあるが、ドイツの人々から見ると、美しい自慢の古都である。その街自体が世界遺産になっている。いくら美しい世界遺産の国でも、一流のオーケストラであるバンベルク交響楽団を維持することが出来ずに、海外の演奏旅行に出るようになったという。それでも彼らはオーケストラを維持することに一生懸命なのだ。ちなみに10万人弱の市民は、その半数ほどがこの交響楽団の定期会員であるともパンフレットには書かれている。そんなことが発火点になってヨーロッパの地図が徐々に理解できるようになってみると、世界の問題がそれなりに理解できるようになってきた。

ロン・パリ・ローマと一言で言うのは易しいが、私にとってはローマ(イタリア)が殊の外、抵抗のある所なのである。イタリアに行ってみたいとは思うものの、どうにも実現出来ない所でもある。私は前場のモーツァルトの時代のことに僅かに触れている。

「当時のオーストリアの立場は、オスマン・トルコに近くまで迫られて、持ち堪える国民がいる一方、トルコに対する自虐的なブラック・ジョークも流行っていた時代だった」

と書いたまではよかったものの、それは何かで読んだのか、人伝に聞いたものか不安だったのである。大体オスマン・トルコというものがよく分からないのである。モーツァルトの歌劇によく出てくる悪者は、どうもこのオスマン・トルコ人らしいが、それすらもわからない。そこで関連書物を読んでみると、モーツァルトが生きた時代のヨーロッパのことも多少なりとも理解出来てきた。

  • 『オスマン帝国500年の平和』(林 佳世子著 講談社・学術文庫)
  • 『オスマン帝国』(小笠原 弘幸著 中公新書)

モーツァルトは1756年にザルツブルグに生まれて、1791年にウィーンで35歳で亡くなっている。この時代のヨーロッパはどんな時代かといえば、23歳の時にハプスブルグ家の女帝、マリア・テレージアが没して、33歳の時にフランス革命が起きて、パリのバスティーユの襲撃が起きている。ちなみにベートーヴェンは1770年、モーツァルト14歳の時に生まれている。2人の年齢差は14歳である。この位のおおざっぱな知識は誰でも持っているが、当時、オーストリアのウィーンという街が、オスマン・トルコの脅威に対してどう捉えていたかは、ただ漠然としてはいるが我々は知っている。しかし、そのオスマン・トルコがいつ、どこで生まれ、更に東ローマ帝国(ビサンチン帝国)に最後つうちょうを与えて解体させたのかはあまり知られていない。オーストリアのハプスブルグ家は、約600年間ヨーロッパを席巻した。西暦1300年の中頃に生まれた、オスマン帝国も600年もの間、地中海地方を支配し、19世紀になるまで生きながらえ、第一次世界大戦で完全に消滅した。あるいは、オスマン帝国の念願だったコンスタンティノープルの陥落は、どのように成し遂げられたか。(これによって、東ローマ帝国の終焉、つまり、あのローマ帝国が地球上から完全に消えた)強大な西ローマ帝国が400年代の中頃になくなって、その後、東ローマ帝国がどうやって1000年も生きながらえたのか、不思議でならなかったのである。そのオスマン・トルコが、モーツァルトの住んでいたウィーンの目前まで迫り、モーツァルト本人もそれを意識したから、ピアノ・ソナタ(トルコ行進曲付き)や、バイオリン協奏曲『トルコ風』を書いたのである。モーツァルトが活躍したのは1780~1790年頃だから、オスマン帝国も徐々に衰えてきた時期だった。1453年にオスマン帝国はコンスタンティノープルを陥落させた。若いスルタンのマホメッド2世によってである。キリスト教世界と、イスラム世界の覇権争いの結果だった。この時期から100年ほどが最盛期で、1770年~1830年にオスマン体制の終焉を迎えることになる。その後もいくつかの偶然が重なりあって、王家は存続するが、その混乱の中で西洋型の近代国家に生まれ変わったことが、19世紀まで生きながらえた理由だ。繰り返すが、体勢の終焉は1770年~1830年にやってきたのだから、我らのモーツァルトもベートーヴェンもその活動時期に重なる。はっきり言えば、2人の大作曲家の時代には、オスマン帝国は「死に体」だったのである。特にモーツァルトにしてみれば、恐れられていたオスマン帝国も風前の灯だから、少しぐらいおちょくってもどうもなかった、と言える。ちなみに、オスマン・トルコという国の定義は難しい。そもそもオスマン・トルコという呼び方に違和感があるのだそうだ。そして「オスマン帝国はバルカンの大国として出発した国であり、アナトリア(現トルコ)の多くはその後に征服された場所だった。アナトリアを故地とするトルコ系の人々が、アナトリアを拠点にオスマン帝国をつくった、とは言い切れない」―(『オスマン帝国500年の平和』若林 佳世子)

更に「このように、オスマン帝国は現在のトルコに限定して捉えられるべきではない。オスマン帝国下では、トルコ系の人々の大半が、バルカンやアラブの人々同様被支配民だった。―「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としか言いようがない。」

という、何やら分かり辛い説明なのだが、そう理解すると、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のコンスタンティノープルとオスマン帝国(アジア側)間の行き来は古来頻繁にあったことになる。コンスタンティノープルという、ヨーロッパとアジアが接する金角湾を通って黒海に向かう、ジェノバとヴェネツィアの大型商業船がイタリアに利益を与え、又、それによってそれなりの見返りを期待したオスマン側の存在もあった。しかし、オスマン帝国が念願のコンスタンティノープルの陥落を決意してから、キリスト教世界とイスラム世界との激しい覇権闘争になった事は知られている。つまり私にとって、ジェノバとかミラノとかヴェネツィアといった都市は、世界の歴史を大きく変えたところという認識が強い。どうもそれが小骨のように意識に突き刺さっているから、ロン・パリ・ローマというわけにはいかないのかもしれない。

ロンドンの話に戻すのに時間がかかり過ぎた。

コッツウォルズ

コッツウォルズとは「羊の丘」という意味だそうである。ロンドンから西に約170kmの所にある。この羊の丘には沢山の村がある。一概に“村”といってもそれぞれで、本当に小さな素朴な村もあれば、かなり開けた村もあり、観光バス用の広い駐車場を持ち、観光客目当てと思われるレストランが多くある所もあって、日本で見るコッツウォルズ熱で作られた雑誌とは違う。基本的には、1日観光バスの行動が中心で、昼食時に停車するのはレストランがいっぱいある村であるし、コッツウォルズの入口にはバイブリーという写真でよく見る小さな村が存在している。私の感想で言うなら、うまい具合に配置された(あるいはそのように運行された)その一帯は、上手な時間の配置のもとに作られたコース料理の様でもある。最後に着いた村は、チッピング・カムデンという村だった。この村は確かに見ごたえがあり、また、その蜂蜜色の建物も色とりどりであり、旅人の心を最高点に押し上げてくれるほど美しい。ロンドンから日帰りのバス・ツアーは、この村で40分の停車の後、直ぐにロンドンに取って返す。我々は何といってもコッツウォルズに行くことが目的だから、ここに一泊した。ちょうど村の中心部には、古くて、素朴で、小さな建物がある。何ともつまらない、四方に扉のない吹きさらしのこの建築物は、ただただ存在している。それもそのはずで、この小さな建物が“市場”なのである。羊毛とか毛皮が取引される重要なところで、昔も今もその目的に使用されている。このチッピング・カムデンだけが、コッツウォルズの中で飛び抜けて歴史を感じさせて、村というよりは小さな町を思うのは、どことなく、農業よりも商業の方に趣があるからかもしれない。日帰りバスで40分程の時間を与えられても、“村”の半分しか周れず、細長い村の中心部に停車される為に、どちらかの方角に行くしかない。しかし、この村の端と端に見どころがある。片方は教会であり、片方は藁葺屋根の豪邸が多くあり、庭がとても美しく管理されているところだ。正に“イギリス”がここにある。この藁葺屋根の邸宅も、コッツウォルズの写真によく出てくるものだった。つまり日帰りで来た人々には、教会か藁葺屋根の豪邸の選択が求められることになる。私達4人全員は、この「チッピング・カムデン」に魅了された。1人や2人ではなく、4人全員がである。淡い蜂蜜色や、濃い色のもの、あるいはその両方が混ざり合った色調の石は、この地方特有のものらしい。この落ち着いた村には、また高級車が良く似合う。駐車禁止ではないようで、道路のいたるところに判で押したような角度で車が並んでいる。同じベンツやポルシエでも、日本で見るより遥かに景色になっている。茅葺屋根の豪邸がこの村に多いのは、羊毛の取り引きから得る利益が関係あるそうだ。1泊した後、すっかりチッピング・カムデンが気に入って、あの「ストラットフォード・アポン・エイボン」に向かう。シェイクスピアの生誕の地であり、彼の生家と彼の遺骨の埋まっている教会も現存している。この地は、4人で旅行に出るきっかけになった所である。チッピング・カムデンから車で向かうこと約30分。羊の丘には沢山の羊がいる。車が停車したのは、いやに通俗的な街だった。4人の目は固定されて、しばし無言。運転手は、ここで降りろと言っているらしい。と言われても、4人は無言のまま。暫くして、すごすごと4人は動き出した。前方を見ながら指を指しているのは、この道をまっすぐ行ったところにシェイクスピアの生誕の家があるという意味らしい。ふてくされて4人は直進するも、人間の多さと混雑ぶりは並大抵ではない。混雑ぶりというのは、人間が多くいるという意味ではない。喧騒という意味と、その愚劣な状況を言っているのだ。確かに、進行方向左手に、写真で何度も見慣れたシェイクスピアの家はあった。それは周囲の店やらティールームやらレストランやら土産物屋等に挟まれた異様な空間だった。ぽつんと存在しているシェイクスピア生誕の家は、仕方なくそこに建っているようにも見える。シェイクスピアの家は午前中だというのに、人でごった返している。そこは手慣れた工員によって処理される工場の様だ。コンベアに乗せられた見物人はまとめてゴミ袋に入れられ、出口に向かう。その先には、言うまでもないが土産物屋があって、そこを通らなければ出口にさえ行かれない。眩暈と、息苦しさから逃れようと先に進もうにも、自分の意志が通用しない。やっとの思いで脱出すると、出口付近でいざこざが始まったようで、警察官が出動してきた。ストラットフォード・アポン・エイボン(エイボン川の側のストラットフォード)だから、エイボン川の岸辺の教会に埋葬されているシェイクスピアに出会いたいと思う気持ちは、一気に消失した。川岸に近付くにつれて、想像していた田舎の川などどこにもなく、近代的に造成された“川”が広い幅をもって流れている。観光船はその出番を待っていて、その向こうには観覧車が見えたようだった。アポンエイボンの街は、近代化が進んでいて、駅前はビル建築が進んでいる。我々は同じ気持ちになって、その場から逃げる決意をした。念願のストラットフォード・アポン・エイボンに滞在したのは1時間もなく、一目散にロンドン行きの電車に乗り込んで、全員ホッとしたのである。ストラットフォード・アポン・エイボンは、シェイクスピアの故郷で、生誕の家があり、彼もこの地に眠っていることは事実である。かたや、あのザルツブルグという小さな田舎町も現代に甦って、モーツァルト生誕の地として、ザルツブルグ音楽祭という世界的音楽祭をつくった。これも事実である。音楽祭では盛大に盛り上がるが、年間を通してひっそりとしたモーツァルトの“聖地ザルツブルグ”に比べると、ストラットフォードの方は、恐らく年間を通して観光客を呼びこみ、その人数は市役所の壁に貼られたグラフに記入され、毎年その増加を良しとする企業の様子を想像してしまう。それはそれで間違ってはいないだろうが、純真な観光客を裏切るような宣伝を、いや、観光雑誌や“いかにも田舎”を装って口伝することが、はたしてウィリアム・シェイクスピアを喜ばせているかを考えてみる必要はある。と、書きながら思い出したのは、シェイクスピアという人が意外にも商売人であり、他人に金銭を貸していた証書などが残っているのを知ると、単純な見方は控えた方が良いという思いもあらわれた。彼の人生を見ると、おおよそ“聖人”などとは異なる人物の様に見える。それは非難の意味ではなくて、人間的な人間という意味だ。よく知られているように、シェイクスピアは18才の時に26才の女性と性的交渉をもった。相手は妊娠して、慌てて結婚をする。現在では“できちゃった婚”等と言うが400年も前のことだ。数年後にはロンドンに出て、俳優を志す。劇作家の才能も見せて、戯曲も書いた。それが世界的に後世に残ったのである。最近の研究から(シェイクスピア・オフィシャル・ガイドブック)、33才の時にニュー・プレイスという建物を、おおよそ120ポンドでウィリアム・アンダーヒルから買い取ったことがわかってきた。この建物は、ストラットフォードでも1、2を争う豪邸であった。ストラットフォードとロンドンの二重生活であったが、この区間が当時から開けていて、3日程で行き来が出来たという。彼の亡くなる3年程前に、ロンドンでの生活をやめて、シェイクスピアはストラットフォードに戻る。引退後のシェイクスピアは、ストラットフォード市に何件もの投資を行い、その他にも、個人に対する証書も現存している。つまり、投資にかなりの才能を発揮したことになる。現代の我々は、芸術家=清貧の人というイメージを持ちやすいが、もし彼らが清貧の人であるなら、“芸術”という分野は存在しない可能性がある。むしろ、人間の本質を見抜く力があってこそ、成り立つ世界であると言ってもいい。そんなことを考えてみると、あながちストラットフォードの街の発展は、シェイクスピアの生き方とさほど違和感を持たなくて済む。とは言っても、チッピング・カムデンとストラットフォード・アポン・エイボンの感触は異なっているのは致し方ない。

ロンドン行きに飛び乗った我ら4人、誰の顔にも安心感が漂っている。日本を出発する半年も前から、ストラットフォード・アポン・エイボンに憧れて、その為に色々な努力をしてきたのである。何しろ10連休を利用しての旅だから、そう易々とはいかない。4人分の旅行枠を取る事が大変で、すったもんだした挙句の出発だった。それにしてもこの4人組は、大きな感性になると素早く同じ方向に反応し、その判断も同じで、そこには違和感というものがない。車中では何事もなかった様に、遅くなった昼食の話になっていた。終点の駅で降りてから何を食べるかについてだ。シェイクスピアの時代には3日の行程だったものが、2時間足らずで移動できるのは、ストラットフォード・アポン・エイボンがそれなりの街になっていたからかもしれない。コッツウォルズの中でももっとも有名なバイブリーという村からだと、駅に出るだけでも小旅行の様子をていするのである。

ロンドン

コッツウォルズから帰った日の夜、コベントガーデンのロイタル・オペラ・ハウスでの公演は、新作バレエ『フランケンシュタイン』だった。この日を1日ずらすと、バレエ『ロミオとジュリエット』が観られることは記した通りである。ロイヤル・バレエにはこのところ、3年連続で来ているので、嫌味なくらい我ら2人はどっしりと落ち着いている。やはり苦労はするもので、色々と恥をかいてきた歴史は、何よりも重いのである。T夫婦は初めてなので、どこか初々しくて可愛いなぁと思い、微笑んで着席した。今日はオーケストラ・ピットから5番目ほどなので、まぁまぁの席ダナーなどなどと、心の中で思う余裕すらある。しかしこういう気の緩みが得てして、悲劇を誘うのである。例えばいやに体のデカイヤツとか、変に首の長いヤツ、またあるいは座席から乗り出すババアとか、前の人の頭が邪魔になるのかいつも左右に首を動かしているヤツ、あるいは胴が長く足が短いくせにその意識のないヤツ、など様々である。こんなヤツが自分の前に座られでもしたら、もう完全にアウトで、その公演は寝ているか、僅かな隙間をぬって鑑賞するほかない。私たちは比較的というより、わりとこういう輩に出会うのである。だからライブには行きたし、前の障害物は恐しで、ビクビクして行くことになる。ビー、と開演のブザーが鳴ると、舞台全体が見渡せていたのも束の間、ドスンと座ったのは、デブの女と男。これが先程挙げたことを全てやるのである。特に私の席は通路側だったので、前に座っているバカデカイ男は、右側に動けることをよしとして、左右に動くわ、デカイ頭で前方を遮るわ、座席の前に乗り出すわで、もうやりたい放題なのである。私が何よりも願ったのは、このヤローの首を斬りたいの1つであった。休憩に入ってロビーで会うと、T夫婦も同じことを言っていた。特に日本人からすると、ただでさえ大きいヨーロッパ人の中でも、さらにデカイヤツに出会ったが最後、もう諦めるしかない。殊に『ロミオとジュリエット』は舞台の中央で主役2人が踊るから、その場面は前のデカイアタマに遮られて、ズボッと黒い丸が出来て何も見えず、見えるのはその外部、つまり、端役のダンサーの踊りのみなのである。こんな苦しい修行の様な事をされても、首を斬ってはいけない法律があること自体間違っている。相手がこちらに不利益を与えるなら、こちらもそれに対抗する権利は存在するのだから。それでも、アタマノデカイ・クビナガ・デブ・ノリダス男は、第3幕になると疲れてきたようで、右側の方にぐっと体を曲げ、動かなくなったので、その隙間から中心部を見ることが出来たのだが、その時は墓場でロミオとジュリエットが死を迎える場面だから、結局楽しみにしていたプリンシパルのダンスは、ほとんど見ることが出来なかったのである。

その二重の非劇が始まる前、最近出来たロイヤル・オペラ・ハウスの新館で夕食をとることができた。このレストランは、ロイヤル・オペラの観客のみが利用できるものであるが、何しろ1700人程を収容するオペラ・ハウス専用のレストラン、バー、軽食コーナー等があって、開演1時間ほど前になると、満席状態になる。バーとか軽食コーナーはともかく、レストランは本格的で、味も良いし、作りたての料理を出す。この3階にあるレストランだけでも、30席以上はあるようで、PM7:30の開演に少しの遅れも許されない。コンサートはもとより、オペラでもバレエでも、開演のブザーが決定的で、その後の入場は禁止なのである。だからレストランのスタッフも責任重大である。日本の高級ホテルで、100人も集まる結婚式でも手一杯で、同じ料理なのに冷えていたり、硬かったりと、寂しい思いをすることがある。あれだけのワインを客の注文に合わせて出し、客の方も自分の好きなものをその場で注文するのだから、厨房の方はどんなシステムで動いているのか、考えてみてもわかるはずもない。

幽玄と古稀の旅行記 – 間狂言

ベートーヴェンが第6交響曲を『田園』と名付け、それが驚くことにハイリゲンシュタット近くの(すっかり区画整理の出来た)小川の風景だったり、小さな村での出来事の描写だったりという事実を知っても、どうも納得がいかない。“能”が幽霊の話を中心に成り立っている、と言われても同様だ。“能”は日本古来の芸術なのに、子供だましのようなことを言われてもと。しかしこれは本当の事で、“能”の中心を成しているのが、幽霊の話なのである。もう少し正確に言うと、“能”の中には大きく分けて“現在能”と“夢幻能”がある。そして大半の作品が、この“夢幻能”形式をとっているのである。では、この幽霊とは、一体どんなものなのか。少し難しく言うなら、主人公が超非現実的存在という事だ。つまり、シテ(主人公)が、神、男女の霊、鬼畜の霊、物の精なのである。前場(まえば)では、このシテが脇役(ワキ)が演じる名所を訪れた旅人や僧侶などに、その地にまつわる物語や身の上を語るという筋立てを持つ。“夢幻能”は、前後二場に分かれ、同一人物が前場は現実の人間の姿(化身)で、後場(のちば)は在りし日の姿や霊の姿で登場する。最後は、ワキの僧侶の祈りによって、祈り伏せられるというのが、よくあるパターンである。間狂言というのは、二場物の能で、前シテの退場後、後シテの登場までを繋ぐ狂言師の演技の事だ。

しかし、どうして私は突然、“能”のことを書き出したのだろう。それは、シェイクスピアのグローブ座に理由があった。450年程前のグローブ座は、4階建ての劇場で、1階平土間には椅子がなく、舞台をコの字型に取り囲む桟敷があった。ここには椅子席がある、ガッチリと造られた舞台の上には、しっかりとした天井があって、ステージに雨がかかることはない。しかし舞台と桟敷以外は剥き出し(天井がない)だから、風雨どころか寒暖の調節も出来ない。ステージは、1階客席の中に突き出して、大きく四角く、やや高い台が演技をする所である。こんな素朴な造りだから演出などという技は使えなく、シェイクスピアはいちいち場面を説明するように戯曲を作っている。片や能舞台の方は、屋根の付いた舞台だけが、見物の入るところに突き出している。ここもグローブ座と同じように、観客の為の椅子はない。その舞台は左側の橋掛かりと繋がっていて、役者はその橋を使って出たり入ったりする。舞台上には何もないのだから、役者の所作だけが頼りの舞台になる。となると、役者の一挙手一投足が全て能の内容に繋がってくることになる。腰から上をやや前方に傾けた姿は、それだけで能役者の重要な表現になり、足の動きによって制御されたその全身は、場に応じた美しさと直結することになる。一説には、能舞台の下には大きな壺が入れられていると言われる。それは、足を打ち付けることによる音響も大切だからだ。更なる深みは、ぐっと腰を落とした安定感で、これは重力によって地上に縛り付けられたような状態を生み出している。ゆっくりと動くか、ほとんど動かない体勢から、一瞬で立ち位置や姿勢を変える素早い動作は、こちらが息を飲むより素早い。しかし人間の体の構造からして、この何でもないように見える動きは危険でもある。

「能」は舞うだけでなく、謡(うたい)も重要である。能舞台の正面から見て右側には、舞台から張り出した部分に地謡が8人ほど並んで謡をする。能舞台正面には橋掛かりから伸びた後座(あとざ)があって、ここに、笛、小鼓、大鼓、太鼓の道具が並ぶ。足利義満の時代に、世阿弥によって“能”は発展した。

これに比べると、“バレエ”の歴史は浅い。とは言っても、300年とか400年の歴史はある。再三驚かせてばかりで申し訳ないのだが、バレエの元祖は、ルイ14世である。ルイ14世(太陽王)といえば、ベルサイユ宮殿で、正確に言えばルイ13世がこの宮殿の元になる離宮を1624年に造った。これをルイ14世が発展させたのが、今のベルサイユ宮殿だ。このルイ14世、ダンスにかけては「玄人はだし」であったらしい。彼の一声でダンサーが集められ、組織化された。元々バレエはイタリアが発祥の地であるが、大規模なグループの成立は、ルイ14世なくしてはなかった。当時は男性ばかりの集団で、女性の参加は認められなかったから、男だけの舞踏は現在のバレエからすると想像しづらい。1841年パリで初演されたアダンの『ジゼル』は、妖精・ウィリに魅せられた若者が、踊り狂って死ぬという伝説を元に王子・アルブレヒトと、村娘・ジゼルの悲恋を描いたロマンチック・バレエの代表作である。男性中心のバレエは、徐々に女性にも開放されていったが、下品にならないように、舞台上では足首が出ない長いスカートをつけていたという。『ジゼル』は、妖精・ウィリを中心とした妖精たちに憑り殺される王子の場面が後半の見どころで、この場で足首まで隠した長くて重いスカートで踊るダンサーは、妖精には程遠い。『ジゼル』に生命を与える為に考え出されたのが、足首が少し出る程の長さのスカートで、重量感のある生地ではイメージに程遠いから、白くて、そして薄く透けるようなものに変更された。これをロマンチック・チュチュという。現在我々がバレエのイメージとして持っているものは、短いチュチュとトゥシューズであるが、これはロマンチック・チュチュから更に発展したものであり、トゥシューズは本来「この世のものではないもの」とか、「妖精」用のシューズである。最近はこれを拡大解釈して、好んでダンサーが用いるのは、技術の向上によるものだろう。「バレエ」という言葉でイメージする、短いチュチュはクラッシック・チュチュという名前で、比較的最近のコスチュームなのである。かくいう私も、バレリーナ(ダンサー)と呼ばれる人々は皆トゥシューズを履いて踊るものだと思っていた。男性ダンサーでトゥシューズを履く人はいない。女性ダンサーでも、トゥシューズを履くのは限られた役の人達で、むしろトゥシューズを見ることはあまりないと言ってよい。「バレエ」と一括りに言うが、大きく分けると“古典バレエ”と“現代バレエ”に分類され、“現代バレエ”でトゥシューズの使用はほとんどない。そして、チュチュに代表されるように、重量を感じさせない為の工夫とか、軽やかなジャンプは「バレエ」の生命線だ。それに比べると、日本舞踊は重力の世界に属し、我が国最高峰の芸術の1つである「能」は更に重力界の出来事だ。摺り足は能の基本で、一歩進むたびに指先を揃えて上げ、その繰り返しによって動きに意味を持たせる。この僅かな動作によって、京都-江戸を瞬く間に移動することが出来る。上半身の動きは極力制限されるが、そのわずかな動きにこそ、深い意味が込められる。私は知らずうちに“能”と“バレエ”を比較しだしている。これは白洲正子の影響かもしれない。(白洲正子は少女時代から“能”を舞っていた名手であるが、ある時期“能”は男の世界のものだという理由で引退した。)そう見ると、この2つの芸術の間にある共通点があることに気付いた。一見すると全く異なった世界に見えるものが、意外と近しいこともあるのである。誰でも知っているように、能役者の立ち姿の美しさ、そこからの足の動き、更に上半身の動き、更には手の動きだけで、何もない舞台上に能役者の表現したい世界を現出させる。一方、「バレエ」の方は、跳び上がったり、何回転もしたりと、目まぐるしい動きで我々を圧倒する。

今から数年前、パリ・オペラ座の指導者がこんなことを言ったことを覚えている。大訳はこんな話だった。

「バレエは、フィギュアーではありません。何回転するかを競ってはなりません。」

大体こんなことだった。そしてある人は、こうも言っていた。

「表面的なことよりも、ダンサーが何を表現したいのかを、見なければならない。」

バレエ鑑賞歴の浅い私は、この言葉にいたく感じたのだった。意識を変えてみると、「バレエ」の素晴らしさは、静止状態の美しさであると同時に、静止画像の連続の美だ。そう思ってみると、姿勢が大切であることがわかる。それを中心にして、足や手の動きを見ると、その全てがなにかを表現する為のものであることもわかる。しなやかな腕と手が、どの位この芸術に必要なものか。能とバレエという、何のかかわりもないものが、私の中では合体してきたのだ。ただ違うのは、コスチュームの違いである。空中を飛ぶように作られたものと、どっしりと足を地に付けたコスチューム。これを能では「能装束(のうしょうぞく)」という。これは美しいというよりも、絢爛豪華と言った方が良い。その“美”は、それだけで芸術品だ。

どうやら私は、シェイクスピアのグローブ座から話を広げ過ぎたかもしれない。グローブ座の舞台には天井があって、桟敷以外は外。この外というのが、私に「能」を思い出させたのだった。更なる共通点は、張り出した四角い舞台だった。勿論これには幕というものがない。背景がないのも共通。舞台上に楽器を置いて、楽師たちによるライブの音楽。これも共通。ただ、シェイクスピアの時代の音楽というのが、あまり面白くない。というより、あまり必然性がない。なにしろ“オペラの元祖”と言われるモンテヴェルディの歌劇『オルフェオ』が1603年頃だから、シェイクスピアに責任があるわけではない。更に考えてみると、足利義満の時代の世阿弥の能には、必然的な音楽がつけられている。世阿弥の言葉に「先聞後見」という言葉があるが、これは「先ず聞いて、その後に見る」という意味である。その位、音楽との一体感を重視している。事実“シテ”だけでなく、楽器の演奏者、地謡によっても、相当能舞台の出来に差がつくことになる。

私にはこんな思い出がある。大学に入った頃、私の母は能をやっていた。彼女はド近眼だが気取っていたので、街を歩くのにも眼鏡をかけていない。だから、向うから歩いてくる人の顔が見えない。その為「ツンとして感じの悪い女」で通っていたのだが、能を始めてどうにも困っていた。面には目らしきものが開いているが、ただでさえその“目”から外は見えないらしい。見えるのは足元より数10センチ先のみ。勿論眼鏡をかけて面をつけるわけにはいかない。で、面をつけると、ド近眼の彼女はほとんど何も見えない。物事はよく出来たもので、能の基本は摺り足なのである。「大丈夫よ、能舞台って、床板の出っ張り具合で、どこにいるのかわかるのよ。」とのたまっていた。確かに、これには一理ある。というのは、シテ(主役)が面を付ける1つの意味は、自分と外界を分離して(僅かな繋がりは殆ど外部の見えない眼)、それによって、トランス状態を作り出すことだ。そんなことをしなくても、元々トランス状態で生活しているのだから、二重のトランス状態でさぞかし名演をしたかといえば、そんなことはない。ビデオを見ると、体がグラグラと左右に揺れていて、いつ舞台から落ちるか分からないという、恐ろしい光景が映し出されていた。母は能が好きで、よく謡っていてうるさかったが、私の方も例のごとくワーグナーの楽劇をボリュームを上げて聴いていたので、どっちもどっちであったが、ばあさんはいつも、「ワーグナーってうるさいねぇ。」とは言っていた。

「能」の基本にはなから反している私の母はさておき、この世界は、“楽器”と“舞”と“謡”で成り立っている。音楽の内容は、意外と多彩である。楽器は“囃子”といって、笛、小鼓、大鼓、太鼓だが、太鼓の使用は神や鬼、天女や妖精、または怨霊、あるいは戦いの場面で使われるから、通常は笛、小鼓、大鼓で行う。能が独特なのは、囃子方の出す掛け声で、「ヤ」「ヤァ」「ヤオー」「イヤーッ」「ヨーイ」など、そのタイミングや鋭さ等、能の緊張感を作り出す。そして右端の8人の地謡の低音は、いやがうえにも全体をひきしめる。

私には、この地謡の低音とその響きが、ワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』の合唱を思い出させるのである。それが、あれだけ嫌っていた能にはまる原点だった。間狂言は、夢幻能の前場(まえば)と後場(のちば)を繋ぐ狂言師の演技だった。そのことに話を戻すことになろうとは考えてもみなかったのだが、どうもここのところ幻の様に、モーツァルトの音楽が浮かんでは消え、或いは、彼のオペラの旋律が、断片的ではあるにしろ繰り返されるのである。それは単に“いい音楽”だからというのでもない。加えて、ウィーンの街を、はつらつとした若いベートーヴェンが飛び跳ねるように歩いている姿も見えるようになってきた。恐らくそれは、モーツァルトのことを調べて文章にし、彼の住んでいたマンションを訪ねたり、ベートーヴェンゆかりの劇場(アン・デア・ウィーン)でパパゲーノ門に触れたり、折角だからというのでモーツァルトの曲を沢山聴いている所為かもしれない。ただそれが、如何にも生々しく感じられるが、どことなく不気味なのである。これはひょっとして偶然にしても、多くの大作曲家の“墓”に参っていることに関係するのかもしれぬ。バッハ、ワーグナー、マーラー、ウェーバーなど、超有名人の墓地に迷い込んだことによるのだ、と自分に言い聞かせてみると、やっと落ち着きを取り戻すことが出来る。あるいは、昔、学校の音楽室に飾ってあった“絵”の人達が、そこから抜け出して、私の頭の中に定着してしまったのではないかと考えてみるが、ただ1人、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだけは、正面に立っていて、何かを言いたそうな視線を私に向けている。その様子は、どことなく、恨めしい感じと、寂しさが混じったように見える。私の頭に過ったのは、死に直面したモーツァルトの状況だった。金の為に必死に作曲する彼は、持てる力をすべて出し切っても、『レクイエム』を完成させることができなかった。そして死んでしまうと、簡素な葬儀のみで、土中に埋められてしまった。煙るような雨の降っている中、共同墓地の入口で、関係者は全員引き返してしまったのだ。2人の墓守によって土がかけられた彼の棺桶は、泥だらけになって埋められた。そんなことになったのは、皆が言うように、彼は愚かであり、統一のない、殆ど愚劣な人間だからなのだろうか。

モーツァルトは200年以上前に活躍した人だ。歴史に興味のない人からすると随分昔であるが、実のところそれ程過去の事ではない。モーツァルトの住んでいたマンションも、ベートーヴェンが歌劇『フィデリオ』を初演した「アン・デア・ウィーン」という劇場も、とても綺麗に保存されて、連日のように公演が行われている。ザルツブルグでは、モーツァルトが洗礼を受けた教会も現存していて、そこには彼の名前も記されている。それにしても、当人の墓がわからないという、少なくともモーツァルトほどの人の墓が何処にあるのかわからないというのは、驚くほかない。遺体を入れる為の穴を掘って、そこにごみクズの様に投げ入れたなど更に考えられない。映画『アマデウス』では、その場面も映像化されている。ここではさらに酷い。棺桶の前方に蝶番の付いた“蓋”があって、ゴミ捨て場のような穴に向かって、45°程傾けると、半分ほど蓋が開いて、そこからいっきに袋に包まれた遺体が穴に向かって滑り落ちる。つまり、この棺桶はまた別の遺体にも使うから、埋めてしまうのが惜しいのだ。墓掘り人夫は何もなかった様にその上に土をかけて、埋めてしまう。勿論墓標もなしに。そんなことをした人々に、ヴォルフィ(モーツァルト)は何を感じただろうか。もしモーツァルトが日本人であるなら、怨霊になって復活するのではないか?そんな例は沢山あり、それが能になっている。そして、これは夢幻能にはうってつけの題材である。

幽玄と古稀の旅行記 – 前場②

モーツァルトといえば、ト短調交響曲(40番)である。あえて40番と断ったのは、もう1つト短調交響曲があるからだ。25番の方は17歳の作、40番の方は32歳で、死の3年前に作られている。この年、彼の3大交響曲が立て続けに作曲された。3大交響曲というのは、第39番、第40番、第41番の事で、最後の交響曲は『ジュピター』という名前がついている。我が国では、40番の交響曲が特に有名になった。小林秀雄の名文は、第1楽章についての感想文だが、殊の外日本人に受け、更にジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団の名演によって、この曲がモーツァルトを代表することになった。1970年のセル、クリーヴランド管弦楽団の来日公演でも、シベリウスの第2交響曲の日に、“セルの40番”が演奏されていて、これはライブ録音され、現在CD化されている。

先に書いたように、ミロス・フォアマンの映画『アマデウス』の出だしの部分で、モーツァルトを目の敵にする宮廷作曲家のサリエリが自殺をはかって病院に担ぎ込まれるところ、全く音楽のないシーンに突然、強烈な旋律が、そう、17歳の時に作ったト短調交響曲の第1楽章がアタックする。その想像を絶する音楽の使用は、この映画がいかに優れたものかを予想させる程素晴らしい。よく言われるのは、短調の曲は、モーツァルトの生命線だと。そう、最後の『レクイエム』も、ニ短調なのである。それに疑問を挟む気はないが、長調の曲も素晴らしいのである。例えば私がモーツァルトに開眼した、K622のクラリネット協奏曲はイ長調であるし、K618のアヴェ・ヴェルム・コルプスもニ長調。最後のピアノ協奏曲第27番も変ロ長調と名品揃いだ。更にモーツァルトを知りたいなら、オペラを聴いた方がいい。そうすれば、短調の作曲家モーツァルトのイメージに変化が起きるかもしれない。しかし、映画『アマデウス』の最後、モーツァルトが共同墓地に入れられて、映画が終わり、エンド・ロールが出ている間に流れるのは、ピアノ協奏曲20番の第2楽章である。このニ短調の曲は、27曲あるピアノ協奏曲の中でも特に素晴らしい出来で、出だしの1音から不安なリズムを刻み出し、全曲が“子供っぽくないモーツァルト”を証明する。この恐ろしい曲を書いたモーツァルトについて、小林秀雄の『モオツアルト』から記してみる。

-エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツアルトに就いて一風変わった考へ方をしてゐたようである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時(いつ)か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考へられぬ。元来がさうゆう仕組に出来上ってゐる音楽だからだ。はっきり言って了へば、人間どもをからかふために悪魔が発明した音楽だと言ふのである。ゲエテは決して冗談を言ふ積りではなかった。そのしようこには、かういふ考え方は、青年時代には出来ぬものだ、と断ってゐる。-(エッケルマン『ゲエテとの対話』1829年)

モーツァルトの音楽が、ゲエテの言う“悪魔が発明した音楽”かどうかは定かではないが、確かに、人間の世界とは別の世界が関係している音楽とは言えそうである。

小林秀雄が1964年に書いた『モオツアルト』を読むと、彼のモーツァルト論が見えてくる。

「シンフォニー作者モオツアルトは、オペラ作者モオツアルトから何物も教へられるところはなかった様に思はれる。彼の歌劇は器楽的である。」

確かにそうだ。モーツアルトのピアノ協奏曲第20番は、器楽的な名作である。しかし・・・・

高崎保男は、長い間『レコード芸術』誌でオペラ担当の評論をしてきた。モーツァルトに関する文を引用する。

-モーツァルトのオペラを彼の交響曲や器楽曲と本質的に同質の「純音楽」とみるか、あるいは逆に、彼は器楽曲においてさえ常にその比類ない「人間の歌」を歌った、とみるかは、人によって様々であろう。だが少なくとも、オペラという形態の中で、モーツァルトのこの上なく人間的な音楽が最も生き生きと息づいていることを、誰しも否定出来ないはずである。言い換えるなら「モーツァルトの人間の最も本質的なものが彼のオペラの中に最も現れている(パウル・ベッカー)のである。ト短調交響曲第1楽章の第1主題や、同じくト短調の弦楽五重奏曲のそれにモーツァルトの「疾走する悲しみ」を見出すことは決して間違ってはいない。彼はまたそのオペラのフィナーレを極めて有機的なる調性の連関と統一のもとに書いた。フルートが1本の旋律を奏しても、それがまるで人間の声の様に響くことすら稀ではない。しかし音楽の中に極めて深く、真実な人間感情の息吹を与えずにおかなかったモーツァルトにとってある状況におかれた生身の人間の「歌」ほど真実なものはなかったのである。-(諧調と美と逸楽と、―ベームの《コシ》高崎保男)

「モーツァルトの音楽が嫌いな人」という言葉は、意味がない。何故なら、そんな人間はこの世に存在しないからである。存在しているのは、ただ、モーツァルトの音楽に魂までも捧げつくした人々と、モーツァルトの音楽などまるで無縁の人々との二種類だけである。

《EMI》TOCE6325~27. CD

ベーム-フィルハーモニア管、モーツァルト歌劇“コシ・ファン・トゥッテ”全曲解説書より

我が国におけるモーツァルト像というのは、ト短調交響曲の第1楽章“疾走する悲しみ”と表現した名文句と、“セルの40番”と言われたセル指揮-クリーヴランド管弦楽団の名演があったからだろう。加えてモーツァルトは、器楽を重要視していたという独特な感性にもよる。今回この文を書くにあたって、小林秀雄『モオツアルト』を読み返していて、面白いことに気が付いた。

(小林秀雄全集第8巻/モオツアルト・新潮社)P.82

「若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先何処に行くところがあろうか。例えばチャイコフスキーのカンタアビレまで墜落する必要が何処にあったのだろう。」

特に我らの世代、あるいはその前の世代の人々で、小林秀雄の『モオツアルト』を読まなかった人はいないであろう。勿論音楽通の間の話であるが。私も知らずして、“チャイコフスキーのカンタアビレ”にやられていた1人ではないかと思い返しているところである。モーツァルトのピアノ協奏曲第20番は、ベートーヴェンも気に入っていた曲だが、その内容は異常に暗いのである。暗い第1、第3楽章に挟まれた第2楽章を聴くと、“美しさ”などという軽い表現など無視したくなる“歌”がある。人間と人間との間の歌は、立場によって異なるだろうが、高崎保男が言う“生身の人間の歌”なのである。モーツァルトは、サリエリの言う神が作りたもうたケダモノではないし、天上に住んでいる神でもない。あるのはただ1つ、“生身の人間の歌”だけである。ピアノ協奏曲という器楽の分野にも、“歌”が入ってくることこそ、モーツァルトの真骨頂なのである。更に言うなら、モーツァルトはオペラにおいて、かなりの差別を行っている。女性と異国人に対してである。いや、男性に対してもかもしれない。当時のオーストリアの立場は、オスマン・トルコに近くまで迫られて、持ち堪える国民がいる一方、トルコに対する自虐的な、ブラック・ジョークも流行っていた時代だった。『トルコ行進曲付』ピアノ・ソナタや、バイオリン協奏曲『トルコ風』など有名な曲が書かれ、オペラでも『後宮からの誘拐』や『魔笛』のモノスタートス(悪役)に外国人が現れる。それは一種の遊びとして受け止められるのだが、人間に対する批判は強烈である。特に女性に対する攻撃はすごいものがある。『コシ・ファン・トゥッテ』は日本語訳だと“女は皆こうしたもの”とあからさまだし、『ドン・ジョバンニ』のツェルリーナなど、結婚を前にした乙女が、口のうまいドン・ジョバンニに体をゆるしかける場面もある。そしていざ恋人に知れると、いけ図々しくシラを切る歌「ぶってよ、マゼット」と可憐な声で歌って、真面目な村人のマゼットを煙に巻く。この2曲のオペラだけでも相当なもので、女性に対する不信感がオペラ全体を覆っていると言っていい。私は、歌劇『ドン・ジョバンニ』の序曲が終わってすぐ、ドンナ・アンナが寝室で恋人と間違えて、ドン・ジョバンニと抱き合うシーンからこのオペラが始まることを知っている。それを知って父親の騎士長が逃げてゆくドン・ジョバンニに決闘を申込み、嫌がるドン・ジョバンニに斬りかかって、あえなく老人の方がやられてしまう。このオペラはこの原因から全て始まるのである。もし、今まで言われているように、身持ちの固く、騎士長の美しい娘である、ドンナ・アンナが一方的な犠牲者で、ストーカーのようなドン・ジョバンニが悪者であるという解釈であれば、その後に続くドンナ・アンナの歌は、その意味を失ってしまう。純粋に見えるツェルリーナも、聖女っぽいドンナ・アンナも、実のところ“同じ穴のムジナ”という解釈が成り立っても、あながち間違いではないかもしれない。『コシ・ファン・トゥッテ』(女は皆こうしたもの)の内容はたわいもない。2人の姉妹を愛する2人の士官が、老哲学者ドン・アルフォンゾに唆されて、恋人の貞操の試験をする。変装した男たちが相手を取り換えて求愛すると、恋人たちはあえなく陥落。というもので、結末は“女は皆こうしたもの”と言う言葉で終わる。『フィガロの結婚』は反対に、アルマヴィーバ伯爵の職権の乱用がバレる話だ。これは徹底的に権力を痛めつけるオペラだ。これだけ見ても、モーツァルトの興味の対象が、日常の中にある、人々の織り成す人生模様であることがわかる。4大オペラ『フィガロの結婚』も、『ドン・ジョバンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』も、最後は人々を赦す美しい崇高な音楽で締めくくられる。これは、この人独自のものだ。

手元にある『モーツァルト』田辺秀樹(新潮社)からP158-〈パパゲーノ独白-モーツァルトのオペラを読む(畑中良輔)〉

『コシ・ファン・トゥッテ』も、恋人の変装による浮気試しの笑劇にしてしまった日本初演。どうしてあの中に隠された、モーツァルトの血の涙が読み取れなかったのだろう。モーツァルトが笑っているその瞬間の心の傷みを、どうして素通りしてしまったのだろう。全てが読めてなかったのだとしか云いようのない当時の我々の幼さだったのか。-

もう1つ。

《之を楽しむ者に如かず》吉田秀和(新潮社)モーツァルトとは誰か?-から-モーツァルトでいえば、1つの永遠に変わらぬモーツァルトが本当にいるのか。そうではなくて、モーツァルトは常に創造的に変わっているのではないか、ということなのだ。

-中略-

モーツァルトとは誰か?これはこのごろ自分が『レコード芸術』に書いている原稿の中で、何度も繰り返してきた質問だ。私は今改めて、自分がいかにモーツァルトについて知らないかを思っている。-

吉田秀和は日本を代表する音楽評論家であることは、皆知るところである。小林秀雄、中原中也、青山二郎、白洲正子などのそうそうたるメンバーの一員である吉田秀和は、その中でも最年少であった。日本の音楽評論の最高峰である彼が、モーツァルトについて「私は今改めて、自分がいかにモーツァルトについて知らないかを思っている」と言わしめる“モーツァルト”について、私などの一音楽愛好家が何をも言うことは出来ない。しかし、勿論、素晴らしい器楽曲のことを評価するのに、私もやぶさかではないが、彼の「オペラ」を知らずして、モーツァルトを語ることはあまりに勿体ないとは言える。“オペラなんてくだらない。”という人々に、私も共感しないわけではない。同じことを想うこともある。でもそういう人に、ワグネルの『パルジファル』はどうかと尋ねてみたい。

小林秀雄『モオツアルト』の中(P84)で、「この歌劇の大家の天資には、ワグネルという大家が性格的に劇的であった様なものはないのである。」しかし“ドラマ”は、人間の存在なくしては成立しないものだ。人間についての鋭い観察眼はモーツァルトの専売特許である。そして集中力も。

再度、小林秀雄『モオツアルト』から引用する。(全集P.60)

-プロムドンが、モオツアルトに面識があった人々の記録を沢山集めてゐるが、その中で、特に僕の注意を引いた話が2つある。

-中略-

この偉人の奇癖については、すでに多くのことが書かれてゐるが、私はここで次の事を思ひ出すだけで充分だとしておこう。彼はどう見ても大人物に見えなかったが、特に大事な仕事に没頭してゐる時の奇行は酷いものであった。あれやこれや前後もなく喋り散らすのみならず、この人の口から呆れるようなあらゆる種類の冗談を言ふ。思ひ切ってふざけた無作法な態度をする。自分の事はおろか、凡そ何も考へてはゐないと言う風に見えた。

或いは理由はわからぬが、さういふ軽薄な外見の裏に、わざと内心の苦痛を隠してゐるのかも知れない。あるいは又、その音楽の高貴な思想と日常生活の俗悪さとをらんぼうに対照させて悦に入り、内心、一種のアイロニイを楽しんでゐるたのかも知れぬ。私としては、かういふ卓越した芸術家が自分の芸術を崇めるあまり、自分という人間の方は取るに足らぬと見限って、果てはまるでばか者の様にして了ふ、さういう事もあり得ぬ事ではあるまいと考へた」(ヨゼフ・ランゲ)

モーツァルトの肖像(ランゲ)

これは、モーツァルトの義兄のヨゼフ・ランゲの書いたものである。このランゲが書いたモーツァルトの肖像画はつとに有名であるが、未完に終わった。ヨゼフ・ランゲの文章の後に、小林秀雄はこう記している。

「機かいに故障のない限り動いてゐるこの自動人形のどこにモオツアルトという人間をさがしたらよいか。やがて恋愛、結婚、生活の独立という事になるのだが、僕等は其処に、この非凡な人間にふさわしい何物も見付け出すことは出来ない。彼にとって生活の独立とは、気紛れな注文を次から次へと凡そ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事にほとんど無抵抗に屈従し、その日暮らしをすることであった。成る程、芸術史家に言はせれば、モオツアルトは芸術家が己れの個人生活に関心をもつ様な時代の人ではなかった。芸術は生活体験の表現だとゐう信仰は次の時代にぞくしただろうが、そんなことを言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と、彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。

交通渋滞が酷い。年度末(H31.3月)ということもあって、通常なら50分程で帰宅できるのに、ここのところ1時間30分程を要している。私が首都高速道路を向島で下りて一般道路に入ったのは、目的地までの所要時間が2時間近くかかるという道路の電光掲示板が目に入ったからだった。向島出口から墨堤通りに入るとすぐ、右手に隅田川がある。ここは桜の名所として有名だ。堤の上の道には、ピンクの提灯が一列に並んで花見客を待っているが、意外と人通りが少なく、どこか寂しい。やはり花見といえば、人々で溢れ返っているのを想像する。でもこの場所だって、少し前までは人混みが酷く、桜の時期ともなれば、人間と車のコラボレーションが桜の花に彩りを与え、車窓からだけでも充分に花見気分が味わえたものだった。そういえば場所取りのブルーシートや段ボール、そして新聞紙なども全くなく、ただ通り抜け出来る程の道路に、ところどころ出店している屋台だって寂しげである。この通りを両国方面にまっすぐ行くと、両国国技館があり、両国駅がある。更に直進すると、両国通りとの交差点の向かい側に回向院がある。ここには鼠小僧次郎吉の墓があるが、それよりも相撲発祥の地として有名である。この寺院の境内で相撲が始まったというので、両国に国技館が出来たという。(以前は蔵前にあったので、蔵前国技館と言っていた。)回向院に突き当たって右折すると、すぐ両国橋がある。この下を流れるのが隅田川である。昔の呼び方でなら大川だ。落語の『文七元結(もっとい)』は、この大川に身投げをする男の話である。この人情話は何度聞いても良い。隅田川の花火大会は墨堤通りから両国橋の間が見どころで、さらに浅草を通って駒形辺りも賑やかだ。例の花見の時期の墨堤通りも、隅田川の花火大会の日になると、多くの人々が場所取りで身動きが出来なくなる。現代ではこのような隅田川であるが、足利義満の時代には、武蔵野国、隅田川である。京の都で攫われた梅若丸を探して狂ったようになる母親、道々で少年を連れた人攫いのことを訊いて追い、武蔵野国に来た時には体力も気力も限界だった。誰が見ても狂女である。辿り着いたのは隅田川で、ちょうど船が出るところだった。船頭にバカにされながらも乗船し、梅若丸の事を訊くと、なんと、人買いに捨てられて病死した少年の話と、一周忌の事を聞き、それが我が子であることを知る。狂女の悲しみは墓の前で頂点に達し、人々にこの土を掘り起こしてくれと迫る。皆の勧めで大念仏に加わる母。墓の中から少年の声と幻が聞こえ、二人は抱き合おうとするが幻は消え、立ち尽くす母。

能『隅田川』は、英国の大作曲家ベンジャミン・ブリテンが来日時にこの能に感動して、歌劇『カーリュ・リバー』が書かれた。

狂女が隅田川の小舟に乗って渡ったところは、今でいう向島である。つまり都心から来ると、両国橋を渡ったところが、少年の墓があったところになる。そこは、今では首都高向島線が走っている。私にとって隅田川とは、『文七元結』の“文七”が身投げをしそうになる場所であり、また、“狂女”の悲しみが心に染み込む所なのである。1日に2度この辺りを通っていると、自然とこの2人の事が思い出されるが、文七の方はハッピーエンドだから良いとしても、京から来た狂女の方は、いつもいたたまれない気持ちになる。昔は向島には花街があって、華やかだったと言うが、今は僅かに料亭が残っているものの、寂れた感はぬぐいきれない。両国といえば、江戸時代にはある意味で華やかな街で、それに比べれば新宿や渋谷は田舎であった。時の流れは浅草や上野を置き去りにして、中心地を変えてしまった。そのせいとばかりは言えないが、この一帯に漂う寂寥感は確かにある。それは言葉に出来ぬもので、“ある”ことを感じなければならない。能『隅田川』は正確に言うと、世阿弥の作ではない。息子の観世元雅の作であるが、世阿弥の意見を求めていることも事実だ。この寂しい悲劇の結末は、能の中でも異色のものだ。しかし世阿弥の人生というのも、成人してからは不幸の連続であった。そんなことを考えていると、夏の夜の華やかな花火すらも、寂しくも悲しくもある。

約2時間程かかって帰宅してみると、家の中は薄暗かった。妻の帰りが遅れるということなので、明かりを点けてから再生装置のスイッチを入れ、ソファーに座った。ここのところ続いている不眠のせいで、レコードに針を落とすと、ほとんど同時に眠りに落ちたらしい。スピーカーの間に置いてある、モーツァルトのくすんだ金色のメダルすら目に入らない。このメダルは、随分前にザルツブルグのモーツァルト・ハウスで購入したものだった。何かにつけて、触ってみたり、重さを楽しんだりしているから、その感触は見なくてもわかる。加えて、小さな額に入っているあの有名なモーツァルトの肖像画も飾っていた。この2つは大した理由もないのに、ずっと私の部屋に置かれている。ただモーツァルトの生家で買ったものという理由だけで。レコードが終わったらしく、ゴトン、ゴトンという、周期的な針音がする。部屋の中はどういうわけか薄暗く、ぼ~っとしている。屋内なのに霧がかかっているような感じだ。感覚としては、目覚めたような気もするが、そうでないようでもある。ただし不快感というものはない。そうこうするうちに意識はハッキリしてきて、目の前のものは自然な色彩になっている。ただ、その場所がどこなのかはわからない。いやここは、「アン・デア・ウィーン劇場」のようだ。かつらのようなものを被った小柄な男が、オーケストラ・ボックスから上半身を出して、指揮をしているのが見える。オペラ『魔笛』を指揮しているらしいのだが、随分と息苦しそうだ。顔は白く、額には汗をかき、肩で息をしているのがよく見えた。後方からでも体の動きが手に取るようにわかる。これは、1791年9月30日の魔笛の初演の場面なのだ。ということは、指揮をしている小柄の男が、モーツァルト本人ということになる。記録によると、この公演の途中でモーツァルトは倒れることになっている。そうこうしているうちに、その男はぐらっと前方に倒れそうになった。しかし、譜面台に両手をついて立ち直ったようだった。数分後、今度は客席にあおむけに倒れた。今度は身動きせずに、そのままの状態だった。オーケストラの団員も、歌手たちも、勿論観客も総立ちになった。舞台裏から人々が出てきて、モーツァルトを運んで行った。その中には、あの、シカネーダもいた。自宅に運び込まれたモーツァルトは「今、魔笛はどのあたりだろうか。」とか、「あの歌手は、うまく歌えたんだろうか。」とか、うわごとのように語っていた。勿論これは、後で人伝に聞いた話である。しかしその時の私の目には、モーツァルト本人が見えていた。というより、何かを伝えたい様子が感じられた。そこには笑顔のモーツァルトではなく、苦しさを素直に表したモーツァルトの顔があった。こんな顔をするのかという位、寂しさと、悲しさを満載した顔だった。しかしその顔もすぐに消えて、いつもの屈託のない顔に戻った。こちらの方がずっと楽なのだとでもいうように。その笑顔が戻ったとほぼ同時に、ヴォルフィーは私の前から消え去っていた。私は妻が戻るのを待っていたが、そのことは口外せずにいようと心に決めたのだった。

幽玄と古稀の旅行記 – 前場①

「モーツァルトの音楽って子供っぽい?」という質問に対して、音楽に興味のない人なら、「うん、うん。」と首を縦に振るはずである。しかし、コアなクラッシック音楽ファンに同じ質問をするなら、「あんた何言ってるの、バカじゃねぇ?」という答えが返ってくることは請け合いだ。更に、「モーツァルトわかんないなんて、音楽を聴く資格なし。」という厳しい反発に遭うはずだ。

実のところ、かくいう私も、モーツァルトが分からなかった1人なのである。私の音楽愛好家歴は長い。何しろ中学生の頃から聴き始めて、20年以上理解できなかったのである。40歳を前にして、初めて「おや!」っという反応が体の中に生まれた記憶は生々しい。曲目は、モーツァルトの「クラリネット協奏曲」の第2楽章。名曲中の名曲で、その美しさたるやこの世のものではない、と言われている曲である。しかし、その曲に集中しないで聴くなら、何の変哲もない音楽に聴こえる。というより、淡々と流れゆくのだから、どうしても捉えづらい。それは、下関のフグの様な味わい、あるいは、フランス産の白アスパラガスの様な味わいで、鼻の中にふわっと薫る感覚であるといってよい。例えば白アスパラガスが、ビネガーソースの味次第で生きるも死ぬも自在であるのと同じように、第2楽章の演奏の仕方でその評価は全く変わってしまう。モーツァルトを演奏するとなると、クラッシック音楽の演奏家も聴き手側も、同様に緊張し、全能力をもって対峙する姿勢に変わる。その理由は追々記していくが、彼の音楽には無駄な音というものが殆どないから、演奏者も聴き手も、X線写真の様に見透かされてしまい、誤魔かしがきかない。シンプルイズベストの典型がここにある。これも後の話にするが、彼の“オペラ”はモーツァルトの本質を非常によく表している。

コッツウォルズの村

今回の旅行は、友人夫婦と私ども2人の4人で行くことになった。同業者であるT夫婦との4人の旅行は、考えただけでも楽しいだろうという思いがある。私がバレエ・ファンになってみて、そういえばMさんがバレエに入れ込んでいたことをふと思い出したのだ。勿論それまでも年に1度や2度は会食をしてきた仲だから、言いたい放題でやってきた仲間である。しかし去年は、1年間で3回というメチャクチャの予定を立てて、海外に行ったことを話してみると、呆れられて、すったもんだした挙句、何しに行ったんだと言うから、バレエと美術と、オペラと答えた。Mさんはかねてから、バレエはボリショイという本格派だから、どこのバレエに行ったかというので、ロンドンのロイヤル・バレエと言うと、フゥ~ンという気のない反応だった。ただイギリスには興味があるらしく、話がそちらの方へと進むと、「私も、イギリスには行ってみたかったんだ。」と言う。今度はこちらがへぇ~っと言ったら、「“コッツウォルズ”に行きたいのよ。」とのたまった。ええ?あの“コッツウォルズ”?と言うと、今度は向こうが、「え~~~っ!知ってるの?」と上から目線で答えた。私は何年も前から、コッツウォルズに行きたくて、妻にそのことを言うと、「そんなとこ、寒くてしょうがない。」と言われ続けてきた人間なのである。何しろ仕事の合間にロンドンに行ったのは、年末年始の休みに2回程だ。ロンドンに行っても、街の中にいるしかない、というよりは、寒いから外出してホテルに戻るの繰り返しなのだ。コッツウォルズ地方というのは、世界中で最も美しい村、と言われ、ロンドンから約170km程の田舎の村の集合体なのである。私は40年程前、ビートルズ・ツアーというのに参加して、ビートルズの故郷のリバプールに行ったことがある。リバプールもロンドンからバスで同程度で、ほぼ同じだ。この時はリバプールで2泊したからいいが、コッツウォルズへは日帰りバスツアーしかない。勿論ロンドンから列車もあるが、この広大なコッツウォルズ地方を尻目に、迂回するように走る。たとえ最寄駅に着いたとしても、そこからの足が殆どない。小さな村が点在しているから、歩くなど問題外だ。考えてみれば、そんな僻地だから、昔のままの美しさを保っているのだろう。170kmの往復と、やっと着いても1つの村に30分の滞在で、早朝に出発して、夜にロンドンに戻ってくる。話によると、市内が渋滞すると、更に到着が遅れると言う。何年も前から計画倒れを繰り返しているので、その辺のことはいやに詳しい。だから、沢山ある日帰りコースを敬遠して、1泊旅行に決めていたのである。それほど行ってみたかったコッツウォルズなので、4人の会食の時にその旨を話すと、Mさんは「え~っ、本当に行きたいんだァ~~~。でもどうしても信じられない。」という。彼女の心の中はおそらく、自分は昔から憧れていたのに、相手が割って入ってきた(私の事)のが許せないらしい。「私、ここに行ったら、近くにあるストラットフォード・アポン・エイボンに行きたい。」と言い始めた。勿論私も行ってみたかったのだが、そこは大人の対応で、“ふぅ~ん”とやりすごした。

シェイクスピアの生家

去年のロンドン旅行の際に、どうしても行きたかった「グローブ座」に行くことが出来た。あのシェイクスピアが、沢山の芝居をやったところだ。彼は作品も沢山書いたが、役者としても成功者だった。そのグローブ座が再建されて、テムズ川のほとりにある。年末年始の寒い最中、ホテルからバスに乗って、やっとたどり着いたのは、予想を超えた劇場だった。立派な建物は舞台を取り囲む座席と、空が見える1階席の空間から成っていた。どう見ても、椅子らしいものはない。当時はこの空間に人は立って見ていたという説明を聞いても、釈然としない。何しろシェイクスピアの演劇は、2時間はかかる。昔の舞台はかなり早口だったというが、それでも立ち見とは・・・。私はシェイクスピアが好きで、殆どの作品を読んでいる。37編の戯曲と、157編のソネット(14行詩)を書いたシェイクスピアだが、流石に中にはつまらないものもある。しかし、それらも含めてシェイクスピアであって、そういう作品に触れると、4大悲劇をはじめとする有名作品が、いかに優れているかよく理解できる。などと、知ったようなことを考えている私にとって、彼女の発した地名は深く胸に刺さったのである。大体ストラットフォード・アポン・エイボンなどという言葉がすっと出てくること自体が面白くない。私はアポン・エイボンという名前だって、やっと覚えたのである。どうせ旅行会社か何かのパンフレットを見て覚えたんだろう、と高をくくったのだった。「アポン・エイボンに、シェイクスピアの生家が今も残ってるの知ってる?だから行きたいのよ、やぁねぇ。」ときた。この女の正体は何者なのだろうと考えていると、妻が口を挟んだ。「Mさんの大学の卒業論文、シェイクスピアなの知らなかったの?」

アポン・エイボンの教会に、シェイクスピアは埋葬されている。その地は、コッツウォルズから北へ向かった小さな村で、今回の1泊旅行でも充分行けるので、行くことになった。それが発火点になって、イギリス行きが決まったと言っていい。そうなると、折角ロンドンに行くのだから、ということで、“ロイヤル・バレエ”を観ることになった。Mさんの言うには、ロイヤル・バレエはコール・ド・バレエ(群舞)が良くないと言う。確かにボリショイ・バレエに比べれば、良くないかもしれないが、ボリショイ・バレエが世界で群を抜いていると言った方が正しい。10日間の旅行は、つまり、ロンドンに5日間、パリに3日間ということになると、ロイヤル・バレエが観られる日も限られている。予定を調べながら、妻が言った。「いやだぁ、行ける日は『フランケンシュタイン』よ。」『フランケンシュタイン』は、ロイヤル・バレエの新作である。第1幕は解剖室の設え。主役のフランケンシュタインは、人間の興味によって作られた怪物である。しかし作品は、悲劇の主人公フランケンシュタインにスポットライトを当てる。最後には、同情をもって作品が終わるが、やはりあまり気持ちの良いものではない。しかしこれが意外と人気があるらしく、再演が繰り返されている。コッツウォルズから帰った次の日にバレエ鑑賞を予定していたが、その日の演目がこのフランケンシュタインだったのだ。1日ずらすと『ロミオとジュリエット』が上演されるので、この日に行くことにした。ロイヤル・バレエのチケットは約2ヶ月前に発売される。発売日になんとしても取らないといけない。手元にあるダンス・マガジン誌3月号のロイヤル・バレエ『フランケンシュタイン』のカレンダーを見ると、3月5日、8日、11日、12日、15日、18日、20日、23日は昼夜2公演と記されている。つまり9公演。勿論バレエ・ダンサーはほぼ日替わりで、プリンシパルは2回から4回程出演する。体をめいっぱい使うバレエでは、連続して公演するのは無理である。5月1日の『ロミオとジュリエット』も人気公演で、10公演近く予定されている。1日の違いで『フランケンシュタイン』の呪いを逃れた私達は、次の苦労に直面することになった。2月末日、いよいよチケットの発売日。時差の関係から、PM6:00に、テーブルの上に置かれたノートパソコンのスイッチを入れた。

「あれっ?!なんでこんなに売れてるの?!色がついてるところが空席?」

色のついている座席表は無残にも虫食い状態で、4人並びの席は全くない。1階席は15枚程度、2,3階席の正面は全くなく、両サイドに5,6席ずつ。2人ずつに分ける作戦で見ると、何とか1階両サイドに2枚ずつ残っている。早く取らないと誰かに取られてしまう、と私が言うと、「大丈夫だよ」と妻が言うので、問答してもう一度取るつもりの席を見ると、色のついた2席が目の前で白色に変化。「大丈夫じゃないじゃん!」と私。2人ともいきり立っている。やっと取れたのは、2席つながりの4枚。他の日は観られない(パリに行くので)が、一応見てみると、殆どが同じ状態だった。発券当日の売り出し開始時間に、この状態だった。「そういえば、今日は一般発売開始だけど、会員とか、オペラ・ハウスのサポーター達の発売は、1ヶ月前からやっているんだよ。」と妻は言った。

日本でバレエが好きというと、相手はなにか独特の反応を示す。しかし、ロイヤル・オペラハウスの観客は、男性が多い。プリンシパルが難度の高いダンスを踊ると、ブラボー!の嵐。カーテン・コールの時は、立ち上がってブラボー!と拍手の嵐。これは、ボリショイ・バレエも同様。男性客が多く、騒ぐのはここでも男性のみ。ロンドンでは、ロイヤル・バレエの『ロミオとジュリエット』、パリでは、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)で新作バレエ。新しい方のパリ・オペラ座(バスティーユ)でオペラを2回、『カルメン』と『魔笛(まてき)』を観ることになった。パリには国立のパリ・オペラ座が2つある。有名なパリ・オペラ座は、“ガルニエ宮”という名前だ。ここはパリの中心部にあって、オペラ座通りにある。絢爛豪華なガルニエ宮は、誰でも知っている。オペラ座といえば、「パリ・オペラ座」で、外観も内部もその凄さに圧倒される。正にオペラ座の王である。しかし面白いことに、このオペラ座、あまりオペラをやらない。バレエが中心なのである。年々オペラの演出は凝ってきて、更に収容人数の問題もあって、オペラ座のオペラは、バスティーユにある超近代的なオペラ座でやっている。

モーツァルトのピアノ(モーツァルト・ハウス)

さて、パリのオペラ座(バスティーユ)で観ることになった2つのオペラのうちの1つ、モーツァルトの『魔笛』について記してみよう。所謂4大オペラというのは、『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』『ドン・ジョバンニ』『魔笛』であるが、彼のオペラは20作品を数える。上演されるか、CDの録音は圧倒的にこの4作品が多いが、それでも『イドメネオ』『後宮からの誘拐』『ティート帝の慈悲』なども、CDカタログには結構な数で載っている。ちなみに、4大オペラの1曲の演奏時間は、3時間前後を要する。彼は35年の生涯に、626曲を作っている。モーツァルトの正式名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトで、生まれはオーストリアのザルツブルグ。音楽に興味のある人は、ピンとくるはずである。“ザルツブルグ音楽祭”は、モーツァルトの生まれた故郷の音楽祭だ。残念ながら、当のモーツァルトはこの地が嫌いで、後にウィーンに出ていく。この音楽祭は、モーツァルトを元手にして作られたものだが、誰もが知っているように、1920年に作られた街おこし的発想による。確かにこの街に行ってみると、かなり狭い地域に全てのものが密集している。彼の生家も残っているから、観光地として、夏は音楽祭で世界の注目を集めている。音楽の世界では名前が轟いているにしては、どこか寒々しい雰囲気を感じる。大指揮者カラヤンも同地の出身。彼の家も残っている。この地を嫌ってウィーンに出て行ったモーツァルトは、たがが緩んだように浪費を始める。亡くなる頃には、借金生活者となって、人生を転げ落ちるようにして最期を迎える。最後の作品は、超名曲の『レクイエム』K626。35歳で亡くなる僅か前、ねずみ色の外套を羽織った男が、モーツァルトの家のドアを叩く。彼が注文したのがこの『レクイエム』。喉から手が出るほど金が欲しいモーツァルトは、命を削って、最後はベッドの中でも作曲を続けた。全体の半分ほど作曲して、亡くなってしまったから、未完の作品。しかしこの『レクイエム』の美しさと、恐ろしさは、言葉でも文章でも表現不能。その『レクイエム』と平行して作曲したのが、歌劇『魔笛』K620である。こちらは一転して童話仕立ての作品。つまり、近づく死に向かいながら、死の世界の音楽と、童話的なオペラを作曲していたことになる。『魔笛』とは、読んだ通りで、魔法の笛の事だ。この笛を持って、苦難に直面し、数多の試練を通って、王子タミーノと、夜の女王の娘タミーナが結ばれるという話だ。この中心を成すのが、モーツァルトも属していたと言われるフリーメイソンからの影響だ。例えば“3”の重用とか、友愛や沈黙、忍耐といったものが中心的部分を成す。その台本は、シカネーダが書いた。このオペラの音楽というのが、やたらに楽しい曲で、すぐに口ずさみたくなる一方、崇高な音楽も繰り返し出てくるので、2時間50分程の曲は瞬く間に終わってしまう。初演は死の2ヶ月前、指揮はモーツァルト本人。シカネーダもパパゲーノ役で出演した。ウィーンにあるアン・デア・ウィーンという劇場は現在も残っていて、毎日のように公演が行われている。入口付近は現代風に改築されているが、一足内部に入って細い階段を昇ると、何と200年前の舞台と客席が入場者を圧倒する。現代の劇場からすると、中劇場程度の大きさだが、これほど豪華で、かつ、美しく保存されている事自体感動を呼ぶ。この劇場、ウィーンの中心部といっても、かなりわかりづらい場所にある。正面から見ると、近代建築風なので、昔のオペラ・ハウスには見えない。後ろに回ったり、側方から見るなら、200年前の建物である。劇場正面から見て右側にも入口があって、この入口はパパゲーノ門という名前がついている。正確な事は分からないが、この劇場はモーツァルトが死んで10年程後に、シカネーダも参加して造られたと言われている。シカネーダは多才な男であり、シカネーダが芝居一座を率いて、それなりの人物であったとしても、彼個人の力でこんな建物が出来るわけがない。しかしパパゲーノ門という名前がついているのは、シカネーダの台本で作られた『魔笛』に関係していることを暗示している。尚、このアン・デア・ウィーン劇場ではベートーヴェンも自作を初演している。

アン・デア・ウィーン劇場、パパゲーノ門

ここまでモーツァルトに関して、その一部を駆け足で記した。『アマデウス』という大作映画は、観るに堪える作品であり、私自身も何度となく観ているが、終盤になって“ねずみ色の外套を羽織った男に注文された”とする『レクイエム』と『魔笛』が描かれている。そして選曲も憎いほど的確で、涙を誘う。妻・コンスタンツェはとんでもない女である、というと、反論があるかもしれない。しかしモーツァルトの墓がなく、共同墓地に埋葬された場所すら特定できないのは、葬儀当日に雨が降っていた為に、墓地の門までしか付いて行かず、そこから直ぐに引き返してしまったという話も、あながち作り話とも思えない。タイトル・ロールの流れる間、演奏されるのは彼のピアノ協奏曲第20番の第2楽章である。この映画で使われている音楽を聴けば、モーツァルトの凄さが理解出来ること請け合いである。

ザルツブルグの市内に、モーツァルトの生家というのが残っている。生家というのだから、この家は両親の住んでいた家ということだ。モーツァルトがザルツブルグの大司教と大喧嘩をして、ウィーンに出たのは自分の意志だった。彼の住んだ家というのも残っていて、これはウィーンの中心地にある。映画で観るほど豪華ではないが、それでも間取りは広く、当時としては立派な住居だ。希望に溢れて、憧れの地に住み、天才と謳われた青年は、人気があった。それは子供の頃から、父・レオポルドに連れられ、ヨーロッパを周って、早熟さをアピールし、作曲をし、また曲芸のようなピアノを弾いていたからだ。一説によると、最高年収は日本円にして、3千万円程だったという。

ハイリゲンシュタットの遺書の家

1700年代後半でも、音楽家は独立することが出来なかった。先輩のハイドンですら、エステルハージ候の宮廷音楽家だった。束縛はないにしても、それなりの義務は存在していただろう。その意味でも、モーツァルトは独創的だった。この後に続くベートーヴェンも、従来のしきたりから解放され、独立することを考えて、ドイツのボンからウィーンに来たのだった。ベートーヴェンの場合は、ピアノ教師としての能力と、ある程度の支援を得られたのが幸運だったが、モーツァルトの場合彼の性格からして、地道な努力ということが出来ない。それでも、誰にも出来ない“天上の音楽”を作る能力と、現代まで彼を超える音楽家がいないとするなら、これこそが正真正銘の天才といって差し支えない。彼の作る音楽は、人間の作りだす音楽ではない。神はある意味で、軽率な男に音楽に関する全てのものを与えたもうたのである。しかし、芸術家というものは、凡人には理解しづらい側面を持つと同様に、わかりやすい面も持っている。数十年後輩のベートーヴェンといえば、モーツァルトと並ぶ大音楽家であるが、全く異なった個性を持っていることは、誰でも知っている。若い頃のベートーヴェンもウィーンに出てきて、初期の頃はとてもはつらつとした音楽を書いていた。30才を過ぎた頃から耳に異常を感じて、最終的にはほとんど聞こえなくなった。その頃“ハイゲンシュタットの遺書”を書いたのは、音楽家にとって最大の問題が発生したからだ。その「ハイリゲンシュタットの家」というのも現存している。恐らく私だけではないと思うが、この家、とてもロマンチックな少女趣味ともいえる家に見える。その家の2階に住んでいたというが、2階に上がるのに外階段を利用する。外階段も洒落たものだが、2階の窓からも可愛らしい中庭が見える。知っての通り、ベートーヴェンは引っ越し魔だった。この家の大きさからみて、夏の間に利用したのだろう。そしてその側には、有名なホイリゲ(白ワインを呑ませる居酒屋といったところか)があって、よく通っていたという。ロマンチックな2部屋の家には、料理のスペースがあったとは思えない事からも納得できる。ハイリゲンシュタットという小さな村の側を小川が流れている。その小路を、ベートーヴェンは後ろ手に組んで散歩していたという。現在は全て舗装されているが、その村の配置から見て、200年前と変わっているとは思えない。ただ、道は土であっただろう。道の両端には家が建ち並んでいる。ピッタリと。うまく言えないが、小さな村が、まるで区画整理されたように、整然と出来ていると言ったらどうだろう。この小川の側を歩いていたベートーヴェンは、ある着想を持った。第6交響曲「田園」はこうして生まれたという。数十年前、クラッシック音楽ファンは、「こんなにテンポの速い演奏なんてあるか。まるでオートバイに乗っているみたいだ。」とカラヤンを揶揄したが、現地に行ってみると、我々を乗せたタクシーは、この村の中をスイスイと走り抜けて、ウィーンまで運んで行った。ウィーン市内からハイリゲンシュタットまで、市電で約30分位、ホイリゲで有名なグリンツィングまでも同じ位の距離である。現在は地下鉄も走っている。グリンツィングも、ハイリゲンシュタットも、アルプスの麓の村である。風景としても、『サウンド・オブ・ミュージック』(ザルツブルグで撮影)のような感じである。

ベートーヴェン繋がりで言えば、彼が歌劇『フィデリオ』を書いた家というのが残っている。ウィーンといえばリング(環状道路)で、この中と外周に昔の街がある。リングの上を、赤と白の路面電車が走っている。ウィーン国立オペラ座を中心として、ウィーンの街を一周するのである。トラム(路面電車)に乗る為には、あちらこちらにある窓口でチケットを買う。観光の人々は、1日券や2日券を買えば、トラムもバスも乗り放題だ。ウィーンの不思議は、ここで発揮された。ヨーロッパでトラムに乗るのは、1番効率の良い方法だ。重心が低く、何両も連なった大きな車両が、クネクネと蛇のようにうねりながら街中を走る。停留所には電光の時刻表があり、そこに各方面行きのトラムがそれぞれ行き先の番号を付けて入線してくる。運行状況は手に取るように分かる。バスも同じだが、ウィーンのトラムは、他の国のものと少し違う。ここのはトラムというより、路面電車といった方がピンとくる。全体的に車体は細く長い。ヨーロッパでよく見るトラムは、寸胴で一両が短く、それが何両も繋がっているので、蛇状の動きをするが、ここのは昔、東京で走っていた都電に近い。都電をもう少し細くして、1両でなく2,3両繋がった感じ。正面から見ると、私の感覚では、“能”の『若女』の面(おもて)の様。だから私は心の中で、“ウィーンの若女”と名付けている。どうしてウィーンのトラムだけが、こんなに流行遅れの形なのか?それはリングのせいである。ウィーンという街は、1周5kmの内と外に出来た街である。昔、城壁のあった所に、リングという周回道路を造ったのを利用して、その上をトラムが走っている。外回りと内回りの2本の線路は、これ以上広げるわけにいかない。何しろ、車もバスもこの道路を走っている。つまり、トラムを走らせたくても、物理的に無理である。(ただし、現実には新型トラムも走っているが、他の街のものと比べると、少し小さいように思えた。)時代遅れの路面電車は、ウィーンの街にとてもよく似合う。オーストリア国旗と同色の車体の白と赤も可愛い。実はこの路面電車、全て無料なのである、と思うととんでもないことになるらしい。トラムは平らな駅に次々と入線してくる。ドアが開くと(ほとんどが自分で開閉のボタンを押すタイプ)、入口に“打券機”という小さな機械がある。持っているチケットを、この小さな機械に入れると、“ガッチャン”と大きな音がしてマークがつけられる。降りる時も同じだ。しかし、ウィーンで乗客が打券機にチケットを入れるところを、見たことがない。皆、平然と無視して乗り降りする。たまにガッチャンという音がすると、全体がそちらに耳を向ける。その音にひかれてそちらを見ると、どう見ても観光客である。変なところで潔癖症の我ら2人は、それでも駅のキヨスクらしきところで、1日券を買った。キヨスクの人も、当然のように金額を受け取って、チケットを渡す。一体どうなっているのかこの街は。何日もウィーンにいると、いつしかウィーンっ子のように、打券機を無視するようになった。(これに反して、地下鉄は車内にチケットのチェックに来る。空港からウィーン市内までの直行特急列車ではチェックにあった。)ウィーン国立歌劇場駅は、路面電車が各方面から集まってくる中心地だ。ウィーン国立歌劇場を正面に見て、右側の道を北に向かうと、シュテファン寺院がある。この道はケルントナー通りで、人々が集まってくる所だ。モーツァルトがウィーンで死をむかえた家はこの近くで、シュテファン寺院の向こう側にある。モーツァルトの家の窓から外を見ると、シュテファン寺院が目の前に見える。ウィーン国立歌劇場駅から路面電車に乗って左回りに北上すると、約20分程でショッテントーア駅に着く。この駅も大きな駅で、地下駅から38番の路面電車に乗ると、ホイリゲで有名なグリンツイング駅に着く。この駅にも20分強で行ける。途中で分岐すると、ハイリゲンシュタットに着く。(尚、マーラーの墓は、グリンツィングの近くにある。)

話をショッテントーア駅に戻そう。この駅からブルックナーがよく利用したというホテルまで3、4分。私たちはこのホテルに泊まった。このホテルの外壁面には、ブルックナーのレリーフがはめ込まれている。駅から市内に少し戻るように歩くと、ベートーヴェンが住んでいたマンションがある。4階の全フロアを彼は借りていた。4部屋続きで、建物をほぼ1周出来る。この窓から見ると、ショッテントーアの中心部が見晴らせる。目の前には緑があって、このマンション自体、平地から階段を昇って行くので、このあたり一帯も緑が豊かだ。この家も白が基調で、美しい建物だ。ただ、1階の入り口から入って、ベートーヴェンの住んでいた4階まで、螺旋階段で昇るのにかなりの重労働になる。彼は独身だったから、料理を作ったり、ごみを出したり、間違いなくあの階段を昇り降りしていたはずだ。こんな環境のいい住まいであるが、ウィーン市内には近く、アン・デア・ウィーン劇場にも近い。シューベルトも、ウィーン・フォルクス・オーパー(ウィーン国民歌劇場)の近くに住んでいて、これも、路面電車の駅に近い。

おらんだァー③

フランスのワインといえば、ボルドーワインとブルゴーニュワインだ。ボルドー市は大きな街だ。ワイン好きからすると、街よりもブドウ畑を想像するだろう。実はこの古くて立派な街の側を、ガロンヌ川と、ドルドーニュ川が流れ、その周辺にあるブドウ畑で産出されるのである。ガロンヌ川にはグラーブ、貴腐ワインのソーテルヌ。ドルドーニュ川には、ポムロールやサン・テミリオンなどがある。この2つの川は、ボルドー市の少し下流で合流してジロンド川になって、大西洋に注いでいる。ここのワインは赤ワインが中心で、基本的にはカベルネ・ソーヴィニオンかメルロー(ブドウの種)をベースにして、ブレンドして作る。味は濃厚で、渋みもある。色は深いワイン・レッドである。

片やブルゴーニュワインは、フランスの中央部東寄りに細長く伸びている地方である。

現在ではディジョンからリヨンの北辺りまでだが、昔はディジョンの北西部まで伸びていた。最盛期には、フランドル地方(オランダ南西部、ベルギー西部、フランス北部)まで拡がっていた。ブルゴーニュワインは、ピノ・ノワール単品が主で、フルーティで色調も薄い。私はここでワインの話をするつもりはないが、しかし、ブルゴーニュといえばワインを連想するのは自然な事だ。この地方は、昔、ブルゴーニュ公国と言っていた所であることに気付く人は多いだろう。フランス・ワインといえば、ボルドーとブルゴーニュがすぐ思いつくのだが、そのロケーションは明らかに違う。ボルドーの方は、ジロンド川の側であるから大西洋に面している地域である。片やブルゴーニュは、フランス北部、ベルギー西部、オランダ南西部に接している。これらにルクセンブルクを加えると、ベネルクスである。オランダを語るにはベネルクス三国を知らねばならないだろう。それを更に深めるのには、ベルギーを知る必要がある。地図で見ると、ヨーロッパの中央に位置するのが、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの国々だ。ヨーロッパの交差点と言われるベルギーは、複雑な国だ。そもそも、オランダ語を話す人々と、フランス語を話す人々が同居していることから、話が込み入ってくる。ベルギーは、ドーバー海峡を渡るとイギリス、南に向かえばフランス、東にはドイツという地域にある。ヨーロッパの交差点に位置するこの国は、紆余曲折の中、やっと1830年に独立した。しかし、常に不安定な国情は、現在でも変わっていない。EU本部、NATOなどの機関が集まっているのは、この国が内政、外政共に中立をもって和を成しているからである。そもそもこの国は、15世紀にブルゴーニュ公国として初めて国らしいまとまりを見せたが長続きせず、1568年に始まるスペインからの独立戦争によって、決定的に分裂することになった。オランダは宗教改革時にプロテスタントの国として独立し市民国家になるが、一方スペイン領として残った南部カトリック地域は、オーストリア、フランス、オランダに支配された。歴史に良く出てくるブルゴーニュ公国は戦争に敗けて、フランスに吸収されたから、フランスの2大ワインの産地となっているのである。オランダは日本の九州ぐらいの面積で人口1600万人ほど、ベルギーは四国より少し大きい国で人口は1100万人ほど、ルクセンブルクにいたっては神奈川県ほどのところに人口60万人だ。フランスから見れば、隣の小さな国がベルギーであり、その隣はオランダということになる。ちなみに、フランス・パリ北駅からブリュッセル南駅まで電車で1時間30分程、ブリュッセルからアムステルダム中央駅まで高速列車タリスで1時間50分ほどかかる。ブルゴーニュワインは、そんなところで産出されている。ブルゴーニュワインの中心地は、コート・ドール地区の都市ボーヌだ。ブルゴーニュワインの優れたものは、この地区から産出する。つまり、長いブルゴーニュのほぼ上半分が高級ワインの産地である。それはコート・ド・○○という名称を持っているものが多い。シャブリは世界中で飲まれる白ワインだが、ここだけディジョンの北西部の小地区である。ついでに言うと、ボジョレー・ヌーボーで有名なボジョレーワインは、長いブルゴーニュの最下端にあり、リヨンに近い。オランダやイギリスに行くと、文化的な喜びを得られる代わりに、食生活に困り果てる。それを覚悟で行ってもである。フランスでも特にリヨンというところは、美食の街であるという。あのポール・ボキューズの出身地であり、街並みも食べ物も、群を抜いているように見える。(私個人の考えではあるが、いつかリヨンに行ってみたいと考えている。そこまで行けば、アムステルダムにまた行けないこともないだろう。)

話が逸れた。“ボーヌ”はワイン好きにはたまらない響きだ。所謂コート・ド・ボーヌである。ブルゴーニュワインの中心地、コート・ド・ボーヌは、フランスの東の外れにある。ということは、ベルギーに接するように存在しているはずである。なにしろ昔は“ブルゴーニュ公国”だったのだから。で、その右隣はオランダだ。ボーヌは一度行ったことのある地である。「ワインの旅」でだ。随分昔の事だからはっきりしないが、オスピス・ド・ボーヌ(慈善施設院)に行った記憶があり、その中庭(?)でモーツァルトのハ長調ミサを聴いたことを覚えている。つまりこういうことになる。今回意を決して行ったオランダは、数十年前に行ったボーヌと近くであるという、驚くべきことがわかったのである。なにしろ、ブリュッセルからアムステルダム中央駅まで、1時間50分だ。多く見積もっても3時間とかからない。物を知らないというのはこういうことなのか・・・と、呆れかえってオシマイ!!

おらんだァー②

クレラー・ミュラー美術館

コンセルトヘボゥ管弦楽団の作りだす音楽は、このオーケストラにしか出せないものだ。というよりは、このオーケストラによって発酵させられた何か、である。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団には、ウィーンの宮廷のテンポとリズムが、芳しい音と相まって現在に伝えられ、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団にも、古式豊かな音楽が伝わっている。これは最近言われるように、以前と比べると、その特徴が弱まっていることは認めるものの、かといって、その他のオーケストラでは代用できない。このオーケストラのCDの録音と、その最新処理されたCDを比べると、意外なことに気付かされる。大げさな言い方をするなら、オーケストラの音が良くなってしまったのである。音が良くなったというのは、かなり誤解を生む言葉だが、オーディオ的に良くなったと言い換えた方がいいかもしれない。

一つの例を挙げてみよう。1951年録音のブラームス。正確に言うなら、1951年にアムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団が、ファン・ベイヌムと入れた、ブラームスの第一交響曲(日本ではロンドン盤モノラル)。当時の録音としては、モノラルながら優秀である。この古い録音盤は、リマスタリングなど施されていないから、きわめて自然な音楽が聴ける貴重なものだ。ここから聴こえる音楽は、正にコンセルトヘボゥ管弦楽団そのものである。モノラルであっても、古い録音であっても(音が悪い録音であっても)。現在の技術をもってすれば、この録音を更に優秀な録音にすることは可能である。そして、現にどこのCD会社も(SACD等)、手を変え品を変えて、再発売を繰り返している。これらを聴いてみて、やはり“最新技術ってすごいなぁ~”とは思いながらも、どこかに違和感をもっているのも事実だ。くま取りのはっきりした、低音が強調され、中域がはっきり前方に出てくるような、うるさい位に高音が騒ぎ立てる音は、一聴すると“流石”と思わせるが、二度と聴く気にさせられない音楽でもある。そういうやり方を好む人々がいるから、手を変えて再発売を繰り返すのだろう。オーディオ的にはいい音であっても、音楽的にいい音でなければ、芸術という世界は再現させられないとするなら、手を加えれば加えるほど、“濃い音楽”は出来るものの、実際の姿から徐々に遠のいていく。私は、クレラー・ミュラー美術館でそのことを考えながら、ゴッホを見たのである。パリに出てきてから、彼の芸術は明るくなり、色調も変わったことは事実である。それは初期の作品、「馬鈴薯を食べる人々」の暗さから、後期に向かって変化をし、印象派に影響されたものの、大都会を去った後の「夜のカフェテラス」の鮮やかな黄色や青、その劇的な色彩に目を見張るのは、誰でも同じだろう。やはり自分もそうしてきた。それが、加工された写真や、画像処理をされたものとは露知らずである。それを知ったのは、クレラー・ミュラー美術館の自然光によってである。

天井から入り込む光たちが「夜のカフェテラス」や「星月夜の糸杉のある道」、更には、「郵便配達夫ルーラン」をしっとりとさせていた。それらの絵は、ごくひっそりと美術館の壁にかかっており、傍に近付いて確認しなければならないほど、控え目に見えた。しかしながら一度その絵に見入ると、時を忘れるほど見続けていて、館内を一周してそこに戻り、更にもう一度という風になってしまう。目が痛くなるほどの強烈な明るさや、神経に触るようなトゲトゲしさは全く感じさせない色調は、この人がやはりオランダ人であることを再認識させたのである。「馬鈴薯を食べる人々」のどうにもならない暗さは、小国オランダの人々の強さであり、そこで育った人は、どこに行こうと、やはりオランダ人なのではないか、とも思った。

アムステルダム美術館

アムステルダム国立美術館は、寸詰まりのアムステルダム中央駅のように見える。というより、中央駅があまりに立派なのである。この2つの建物はカイベルスの設計である。寸詰まりではあるが、その正面に立って見ると、驚くほど美しい建物で、17世紀オランダ黄金時代の絵画コレクションでは、世界随一を誇っている。ここでは、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」、レンブラントの「夜警」、同じくレンブラントの「ユダヤの花嫁」が必見だ。

1634年、28才のレンブラントは、美人妻として知られるサスキアと結婚した。その後、33才で豪邸を購入。1642年、あの「夜警」を描いた。この頃日本では、徳川家光の治世である。家光は社会の安定を図っていたが、旗本の処遇、浪人の増加など、苦労の種が途絶えなかった。しかし、特に京、大阪では、商人が台頭し、1639年には俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が描かれた。オランダも日本も、商人の力が台頭して、芸術文化が発展した。

レンブラントの「夜警」は、巨大な絵画で見るものを圧倒する。画家絶頂期の大作で、36才の時に描かれた。これはこの美術館を代表する作品である。30才で他界した妻サスキアの後で注文されたという。

次にフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。あまりに有名だから、簡単に書こう。画面左側の窓から射し込む淡い光。当時の厚いガラスによって効果的だ。人物はいやでも浮かび上がっている。青(ラピスラズリ)と黄色の対比、流れ出る牛乳の永遠さ、光の反射は白い絵の具で表現している。先に記したデルフトの「フェルメールの窓」からの光がこの光だろう。

レンブラントの「ユダヤの花嫁」は、晩年の傑作だ。光と陰で劇的な“瞬間”を表現したレンブラントが、ここでは金と赤を多用している。絵の具の厚塗りによって、立体的なイメージにもなっている。

他にフェルメール「デルフトの小路」、「青衣の女」「恋文」

ヴァン・ダイクの「王子ウィレム2世とメアリー・スチュアート」がある。

そして、

フランス・ハルス「陽気な酔いどれ」、「イサーク・マッサ夫妻の結婚肖像画」

ロイスダール「ウェイク・ベイ・デュールステーデの風車のある風景」

※17世紀後半の風景画である。これ以前は、宗教画などの背景にすぎなかったものが主役になり、見た通りの自然な色で描くようになった。

マウリッツハイス美術館

アムステルダム国立美術館と、マウリッツハイス美術館には、レンブラントの自画像がある。マウリッツハイス美術館は、小さいながらも素晴らしい作品揃いだ。何と言っても、1669年に描かれた、レンブラントの《自画像》が素晴らしい。同年に自画像を2枚描いていて、それがロンドンとフィレンツェにあるが、この《自画像》はことのほかいい。ここの絵は、年老いながらも残酷な人生の仕打ちに耐えてなお前向きな意思を感じさせ、また、技術的にも意欲においても、この時彼がしっかりしていたことを表している。1669年は、レンブラントが亡くなった年だから、これが最期の作品になったかもしれない。その目でじっとこちらを見られると、おろおろする自分に気付く。かたやアムステルダム国立美術館のレンブラントの自画像は、《聖パウロに扮した自画像》である。これは55才の自画像である。55才といえば、“破産宣告”を受けた後の自画像だ。つまり、豪邸を手放して、屈辱のうちになお生きようとしている自画像だが、その内面の葛藤と諦め、あるいは、自虐的な感情が、見るものを圧倒する。

しかし、何よりもこの美術館の売りは、フェルメールの〈真珠の耳飾りの少女〉である。

あまりにも有名な絵画だ。これが1881年のハーグの美術競売所に出るまで、全く無名の作品であり、デ・トンプは2ギルダーと手数料30セントで入手したという。1902年、彼の死後、マウリッツハイス美術館に寄贈したものである。もう1つのフェルメールは〈デルフトの眺望〉だ。これも説明の必要がない位、有名なものである。

日常生活を描いたヤン・ステーンのものもある。

ヤン・ステーン
〈牡蠣を食べる娘〉
〈養鶏場〉
〈老いが歌えば、若きは笛吹く〉
〈モーセとファラオの王冠〉
ファン・オスターデ
〈ヴァイオリン弾き〉
フランス・ハルス
〈笑う少年〉

と、この小さな美術館の内容は素晴らしいが、その建築がまたすごい。外観はもとより、内装の素晴らしさは、そう見られるものではない。ヨーロッパでも有数の美しい美術館として知られている。

おらんだァー①

おらんだァー

日本からほぼ1万キロ。ヨーロッパの国々までの距離である。

「これだれんだぁ~」

「おらんだァ」

というのが、私の小さい頃よく下町で使われていた。たわいのない子供の掛け合いである。戦後すぐに生まれた私たちの世代、いわゆる“団塊の世代”では、特に有名だった。これを知らない人は、この世代にあらずと言っていい。まさかこの“おらんだ”に、自分が行くことになるとはつゆ知らず、生活をしてきた人間にとっては、青天の霹靂なのである。私が知っているのはKLMオランダ航空、チューリップ、風車、ぐらいなもので、大体ヨーロッパのどの辺りにある国かさえも知らなかったのだから世話もない。

私の父は東急百貨店勤務(元は日本橋白木屋に入ったが、後年、東急系列に買収)で、婦人服の専門をしていたらしい。どういうわけか、この父がなにかにつけて、“オランダ人はデカイ”というのも聴き慣れた言葉だったから、これもオランダに加えていいだろう。その後オランダとは何のかかわりもなかったのだが、18才の時に「さまよえるオランダ人」という歌劇を聴いた。ワーグナーの初期の歌劇で彼特有の「愛の救済」の物語である。この筋書きは、これから書き進める文に多少なりとも関係を持つから、簡単に記しておく。

「1843年に作曲されたこの曲は、バイロイト音楽祭では、初期のオペラとして上演され、それ以前の曲は、寡作という分類にされていて、上演はされない」

18世紀のノルウェーの港町。貞節を捧げる女性が現れるまで、7つの荒海を彷徨うことを運命づけられた、幽霊船のオランダ人船長が、7年に一度だけ許される上陸の機会に、港町の娘・ゼンタの献身的な愛によって、神への冒涜を解かれる、というもの。

この序曲は、初期ワーグナーの名曲で、よく演奏される。出だしから強烈な音楽で、小さなオランダ船が、荒れ狂う海の中をさ迷い歩く風景を描写し、コーダに入ると、オランダ人船長とゼンタの愛の救済の音楽が高らかに奏される。どう解釈しても、この曲には暗いイメージがあるが、ある意味でワーグナーらしいともいえる。繰り返し聴いているうちに、オランダ人→幽霊船→デカイ男→暗い、という連想になってしまっていた。その思いを持って、入国審査を済ませてホテルに着くと、PM4:00を過ぎていたから、外は真っ暗。予約していたレストランの中は明るいものの、街全体が暗く、レストランの多くある地域にも、人がいるようにも見えない。イギリスの「地方」も暗いが、それに輪をかけて暗いのである。レストランに入っても、ホテルに入っても暗いが、よく見ると、照明器具はかなり点いているが、一つ一つの光がとにかく暗い。正に幽霊船をイメージするよう。レストランでの食事も美味しいとは言えない。これもイギリスと同じである。それでもとにかく、次の日は、憧れのアムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団が聴けるのだから、多少の事はガマンが大事だと思い直す。今回の旅行は、コンセルトヘボゥ管弦楽団を聴くための、3泊の旅行なのである。(コンセルトヘボゥとは、オランダ語でコンサート・ホールの意)

明日11月22日は、「ベートーヴェンのバイオリン協奏曲」(バイオリン イザベラ・ファウスト)と、「シューマンの第二交響曲」。指揮はヘレヴェッヘ。いつものことだが、コンサートの演奏時間は約1時間20分、休憩20分。アンコールがあっても、約2時間だ。言いかえると1時間20分の音楽を聴くために来た、ことになる。同年の4月に行った、パリ、ミュンヘンの旅も、やはり3泊で、パリでオペラ座でのバレエの公演、その次の日にはミュンヘンの国立歌劇場で「パルジファル」、これがスケジュールの限界だった。大体、バレエ公演は2時間前後、オペラもほとんどが2時間半前後だが、ワーグナーの「パルジファル」は、なんと演奏時間が4時間を超え、休憩2回で、合わせて約6時間の拘束時間になるのである。下世話な話ではあるが、4月のパリ、ミュンヘンの時は、それなりに元をとったようだった。しかしそう考えると、今回のアムステルダム行きは、1時間20分のコンサートだけだから勿体ないことになる。が、しかし、私も抜け目がないのである。オランダといえば、レンブラント、フェルメール、ゴッホ等の国でもある。調べてみると、コンセルトヘボゥ(コンサート・ホール)の近くに、『アムステルダム国立美術館』と、『ファン・ゴッホ美術館』があり、アムステルダム中央駅から電車で50分程のところにハーグという街があって、そこには『マウリッツハイス美術館』、ハーグから更に電車で10分程のところには、あのデルフトがある。この街には美術館はないが、フェルメールの家があり、そこで父親が簡易宿屋と酒場を開いていたという。現在同地には、ほぼ同じ型の建物が造られていて、2階の角部屋には“フェルメールの窓”があり、その脇に『フェルメールの家』というプレートがはまっている。誰でも知っているように、画面の左側の窓から差し込む淡い光は、この窓からのものであるという。この窓は北側に開いていて、薄暗いオランダの空とあいまって、仄かな光の変化を部屋の内側に写し出していたとも言われている。

彼の30何枚かの絵の中に、風景画が2枚あるが、その2枚は、この、デルフトの風景なのである。1枚は“デルフトの小路”、もう1枚は“デルフトの眺望”。この“デルフトの眺望”の方は、現在でもその場所が残っている。ここは観光地としても有名で、フェルメールその人が、ほぼ400年弱前に立って観ていた風景を、我々も見ることが出来る。ここにも、その場所にその旨を知らせるプレートが立っていた。「フェルメールの家」との繋がりで言うなら、「レンブラントの家」というのもある。これもやはり町の中心部に現存している。ほぼ400年を経た建物は、驚くほど美しい。デルフトという小さな街と、アムステルダムという都会では、地価もかなり差があったろう。その地のほぼ中央部にあるレンブラントの豪邸は、工房も兼ねていたと言われる。「夜警」もここで描かれ、後年の作品もこの工房で画かれたのだそうだ。1639年、33歳だったレンブラントは、この豪邸をローンで購入し、弟子の数も40~50人いたと言われる。1656年、50才の時、破産宣告を受けたのは、肖像画の注文が減り、借金の返済が出来なかったからだ。美術品コレクションや、自身の作品の一部を手放すが間に合わず、豪邸も処分せざるを得なくなったのだ。更なる不幸が彼を襲う。62才の時だ。妻サスキアの残した一人息子、テイトウスに先立たれてしまう。26才だった。残された妻は身籠っており、翌年、レンブラントには孫娘が誕生した。それを見ると、急速に衰えたレンブラントは、困窮のうちに死去してしまう。50才で豪邸を手放して、街の西の外れ、ローゼンフラウトの家でのことだったという。63才だった。しかし、愛するサスキアが30才で亡くなった後、レンブラントは若い使用人に手を出したり、関係が切れる前に、また別の女性に手を出したりしている。それは裁判にもなって、有名にもなってしまった。そこだけを見れば、いわゆる結婚詐欺ともとれる内容である。ゴッホも自画像をかなり残しているが、レンブラントも相当残している。共に人生の厳しさを見事に表現しているが、レンブラントの最後の自画像は、見る者の目を固着させてしまう。あんな表情は、どうやったって出来るものではない。人間の内面にたくわえられた表情が、じわじわと滲み出ているのだ。良いことも、悪いことも含めて。そうだった。レンブラントは、人間の内面を表現する画家だったのだ。現在では”レンブラント・ライト”というほど、彼の使った光のマジックは有名だ。そのことを考えると、フェルメールも同じで、あの窓から入り込む光の具合を見事にとらえていた。

オランダの空と、寒さと、日の当たり具合は微妙で、直接の光はほとんど望めない。霧か霞がかかったような冬の1日は、朝9時頃にやっと明けて、もう4時を待たずに薄暗くなってくる。本当に、4日間の滞在で太陽光が射しこんだのは、30分もなかった。暗いか、明るくなってもボーっとした1日。我々日本人にとって、とても考えられるものではない。

アムステルダムに17年程住んでいる日本人の女性ガイド(Aさん)がこう言ったのはとても納得ができた。

「こちらの方は、仕事をしている中に休憩時間が何回もあって、のんびりしているんです。時間にもあまり頓着しないので、待ち合わせをしても、ピッタリとか早目に来ることはあまりないです。お店に行って会計をして、間違っていても向うから謝るということは少ないです。レシートを渡したんだから、チェックするのは客の方だ。だから間違っていたらその場で言うのが当然、と考えるのです。だからレジに並ぶと、客の方が一生懸命にレシートをチェックするのです。」

もう一人の男性ガイドBさんは、2年前に日本から家族5人(ご夫婦と女の子3人)で移住されたのだが、

「私は英語もオランダ語も話せないんです。でも思い切って、2年前に家族5人でこちらにやって来ました。なぜかって?どこでも良かったんですけど、でもオランダに決めたんです。女の子3人いるでしょう?あ、また1人増えますからね。子供の教育費を考えますよ。こっちは教育費ってものがないんです。」(奥さんは英語が話せるとも言っていた。)

17年住んでいるという女性ガイドAさん

「こっちは住みやすいんです。何しろ医療費が無料なんです。でもこっちの政府もしっかりしていて、何年間か住んでいて、オランダに貢献しないと、国外に出されちゃうって人もいます。国が色んなことをやってくれていいですけど、税金が52%とられるんです。こちらの王室は素晴らしいですヨ。ご夫婦揃って我々民間の人々と積極的に交流します。皆大好きなんです。こちらでは学校に試験ってものがないんです。宿題もない。で、子供たちに結果を求めるのではなくて、なにごとにつけても、どうしてそうするのかを訊く。それが教育の中心部を占めているようです。大学に行く、行かないなどどうでもよくて、好きな人は行けばいいし・・・・」

女性ガイドAさんと男性ガイドBさん共通の話

「日本で英語話せる人って、どのくらいいます?義務教育で。オランダで去年発表されたんですけど、この国、世界第2位で国民全員が話せます。それも、ネイティブにも負けないんです。ただ、通常は自分の国の言葉、つまりオランダ語ですけど。こちらでエクスキューズミーと言うと、すぐに英語に切り替えます。日本にいる時、『数学』なんて意味ないと思っていたんですが、こちらでは自分たちと思いは同じらしく、そんなもの必要なしというのです。とにかくこちらでは、日本で考えたことのないような発想をします。ところで、アムステルダムって所、つまり、アムステル川に沿ったダムという意味なんですよ。道路すれすれのところに運河が走っているでしょ?日本じゃ考えられないですよ。どこ行ったって、転落防止の柵なんて一つもないでしょ?ちょっと踏み外すと水の中ですよ。」

アムステルダム中央駅というのがとてつもなく巨大で美しい。日本の東京駅が、これを似せたと言うが、その規模は大人と小人の違いである。この周りは海だったのを、後年になって駅後方部の埋め立てをしたという。この中央駅を中心に後ろ側は海(つまり北海)。前面に5本の運河が走っていて、それが中央駅を取り囲むように走っている。なので、水の都と言うのだろう。この水路は、物の運搬のために必要なものだそうだ。

「運河に子供が落ちるでしょ?そしたら日本じゃ大騒ぎですよ。でもこの国じゃそれを見込んでましてね。学校の方針として、洋服を着て泳ぐ練習をするのです。風車って、何であるか知ってますか?あれは、治水の為のものなんです。オランダは水の高さと、街の高さがほぼ同じなので、溜まった、あるいは増えた水を掻き出すためのものなのです。そもそもネーデルランド(オランダ)って名前は、こっちの言葉で“低い土地”って意味です。あ、それから、こんなことがありました。最近、世界中に白くて大きな、4枚くらい羽の付いた風車みたいなのがあるでしょ?オランダは、あれが異常に多くあるんです。この間、日本のおエライさんが来て、何かの学会みたいなところで、その話のディスカッションっていうんですか?折角知り合ったんだから、一緒に出席してみないかって言うから出たんです。話はわかりませんでしたけどね。車に乗ってから訊いてみたんです。そしたら、こちらの質問に対して、まともに答えないって言うんです。それで再度訊いてみたら、こういう質問をしたというのです。」

日本側の質問

「あんなに大きいプロペラみたいなものをぎっしりと横に並べて設置して、危険はないのか。倒れたら誰が責任を取るのだ。」

おおまか、こんな感じだったそうです。

オランダ側の言い分

「どうしてそういう質問をするのだ。倒れてもいない物に危険があるというのがまずおかしい。我々は、倒れないように設計をして、設置をしている。」

と、険もほろろに答えたのだそうです。

男性ガイド(Bさん)

それを聴きましてね、なるほどって考えちゃいましたよ。そりゃぁ私も日本人ですから、日本側の気持ちもわかりますけど、オランダ側のように、倒れたら考えるって答えも面白かったですね。これにも、一理も二理もあると思いました。

つまり、積極的に考えるか否かなのだが、そこにオランダという小国が、世界一の海洋国になった理由があるように思えたのだった。これは、レンブラントもフェルメールにも関係のあることとも言える。世界一の海洋国だったということは、国が豊かになるということと同義語とするなら、このことがあって初めて、宗教画から市民社会中心の画家が誕生した理由であると考えることは出来ないものだろうか。

いつもの癖でこんなことを考えていたら、「風車」と「水車」が重なってイメージされてきた。私はオランダの風車を、治水の為のものだと言った。が、その反動で、日本の田舎にあった水車が出てきたのかもしれない。新ためて、小川のほとりにある水車がコトコトと音を立てる様を思い出してみると、これが治水のものであるはずがなく、何かをつく動力にしていることに気付いた。更に、シューベルトの三大歌曲集の中に、「美しき水車屋の娘」があり、青年が恋する娘は、確か粉を挽く水車小屋にいたはずだ。やはりヨーロッパでも、小川のほとりで動力として使われていたのだった。チューリップはオランダのイメージであり、風車もそうだ。それはのどかな風景であって、我々の心を和ませてくれていた。しかし現実のオランダは、暗い雲に覆われた灰色の空なのだ。女性ガイドAさんはこうも言った。チューリップって、オランダのものではないのです。それにジャガイモ、こっちのは美味しいですけど。これもアメリカって言いましたかねぇ。輸入品だそうです。それまでのオランダ人、にんじんが主食ってきいてます。流石の私も、にんじんが主食であったことに同意しかねるが、ニシンの酢漬けは、オランダの名物であり、好んで食することは知っている。豆のスープ(エルタン・スープ)等、豆も有名でアムステルダムに到着してすぐに食する機会をもった。

女性ガイドAさんはこうも言う。

「こちらの人は、食べ物あまり興味がないみたいで、お腹が満腹になることが大切なのです。」どこに行っても、煮込んだ料理とイモ、あるいはフライドポテトが大きな皿にうず高く盛り上げてある。誰でもあの量を食べるのかという質問に、あっさりとこう言った。

「あれだけの大きな体ですからねぇ。女性でも170cm以上はあるし、男性は190~200cmはあるでしょう。でも、街の中心部に行くと、大勢人々がいますが、それほど大きい人はあまり見かけないんじゃありません?ということは、ダム広場(アムステルダム中央駅の目の前の広場)辺りにも、多くのオランダ人がいるのでしょうが、殆どが観光客です。17年もこちらに住んでいると、一目でオランダ人を見極めることが出来ます。彼らの髪の毛は、あんなに黒くなくって、栗色をしているのです(栗色と言ったのかどうかははっきりしないが)。オランダ政府の目論見が見事に当たり過ぎて、外国からどんどん人々が入ってくる、これに市民はいくらか困っているのです。アムステルダムという街は、この数年で劇的変化をしています。街の中には、自動車、バス等の出入りを禁止するよう呼びかけています。いえ、政府の方針ではなくて、市民がそう訴えているのです。市街は、トラム、自転車のみにしようと。ですから、市民が政府を指導しているようなものです。」

確かに、アムステルダムは自転車が多い。自転車専用道路も立派で、車道の隣に自転車専用道路、そしてその隣に人の専用歩道がある。公害の少ない落ち着いた街を求める住人にとって、外国人の増加による落ち着きのない街は、迷惑千万なのだ。といっても、オランダ人はとても親切だという。東洋人などがちょっと困って道をさがしていると、すぐに何人も寄ってきて、世話をしてくれるのだそうだ。ただ、その奥には、自分の世界には立ち入らせないという気質もしっかりと持っている、とも言っていた。

何の知識もない私にとって、オランダという国は、どうでもよい国であったことは事実で、音楽を聴き始めても、レコードやCDに記されている“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”という名称は目にしていたものの、それ程の興味もなく、絵画に反応しだしたのも比較的最近だから、レンブラントやフェルメールもこんなものか、と見ていたのが正直なところだった。学生の時から好きだったのは、“ドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)”で、これにはまっていたから、何とか本場で(つまりドレスデン国立歌劇場で)聴けないものかと思っていたところ、一生行けないと考えていた“バイロイト音楽祭”に行けてしまったことから火が点いたのだった。驚くことに、数年の間に2回もドレスデン国立歌劇場に行って、充分その音楽を堪能して落ち着いてみると、“アムステルダム・コンセルトヘボゥ管弦楽団”のことが、気になり始めたのだった。その気になって聴いてみると、地味ながら、どこかドレスデンの音楽から得る感覚を覚えるようになったことを、白状しなければならない。ドレスデンの音と、コンセルトヘボゥの音が、全く違うのは当たり前だが、確かに共通点もある。「上品な音と、音楽づくり」、この、言葉にするのが極めて難しい感覚は、“いぶし銀の音”という、わかったような、わからないような表現でなされる事が多い。音楽好き達も、これに似たり寄ったりの表現をするのだが、お互い通じ合うのである。元来オランダに行くという選択肢は全くなかったから、知識もない事は話した通りである。だからガイドさんの話を素直に聴いてきたのである。しかしその中には、「本当?」というものもあった。そこで、「物語 オランダの歴史」(桜田美津夫著中公新書)と、私は子供の頃から、長崎の出島にオランダ船が来たことに、異常に興味があったから、「東インド会社」(浅田實著 講談社現代新書)を読んでみたのである。確かに、風車についての説明の一部は正しいのだが、重要な事が抜けていたのである。「物語 オランダの歴史」(P.57)を読んでみると、

―元々風車は、干拓地の排水と穀物の製粉に使われてきた。ところが16世紀末頃、アムステルダム北方のザーン地方、つまり現在のザーンダム周辺に新しい工業用風車が出現する。輸入木材を製材する風車と、近郊の埋め立て地で栽培された菜種や亜麻仁から油を搾る為の風車である。―彼は風車の回転運動をクランクによって往復運動に変えることに成功し、製材の効率を30倍以上出高めたのである。―この製材業と結びついて、ザーン地方では造船業が急成長を遂げ、それにともなって、帆布、ロープ、タール、船用乾パンなどの製造業も盛んとなった。―

なんと、風車が製材業を活発にし、造船が急成長を遂げたのである。船舶が漁業に用いられるようになると、ニシン漁、捕鯨が活発になって、これを輸出品として運ぶ海運事業が興った。漁に出て操舵術に習熟し、沿岸貿易も行われるようになる。当時、ニシンは大切な輸出品であるから、一般の人々は内陸水路で獲れる、コイ、スズキ、ウナギを食していたという。オランダの黄金時代は17世紀である。オランダは「低地諸州の反乱」(スペインとの)で、ヨーロッパ各国で行われた、王権と身分制議会との主導権争いの勝者になった、珍しい国だった。議会主権国家は、王権の束縛から解放され、自由な経済活動によって他に例をみない繁栄を築いたのである。多数の商人は、自らの国が小さいことを充分自覚していた。独立した小国の発展は彼らの中心的テーマで、周囲の国々との競争にいかに勝利するか。結論は目の前にぶら下がっていた。海外貿易の技術も、船の操船技術も、日々の事柄で優秀である。しかし先陣を切ったのは、ポルトガルとスペインだった。それに刺激されて、イングランドも海外貿易に乗り出していく。1580年のスペインによるポルトガル併合は、オランダに決断を迫った。つまり、ポルトガルを通してアジア物産を入手していたオランダの前に、スペインが立ちはだかった形になったのだ。このような理由で、オランダは東インドを目指すようになる。1600年末にイギリス東インド会社、1602年3月にオランダ東インド会社が設立されるが、なんとイングランドの会社の規模に対して、オランダは10倍の大きさをもっていた。共に彼らの目的は、スパイス、特に胡椒(ペッパー)で、これがインドネシアで採れることから、目的地が東インドと言われていたのだ。当時のヨーロッパでは、香料が不足していて、産地の限られている物産は当然ながら高価な取引が出来た。そのことを抜きにしては、オランダ船が長崎の出島に来航した意味が分からない。相当な危険を承知の上で、ヨーロッパとインドを往復していた人々は、更にゴア(インド)から中国、と、日本への旅に興味を持つようになる。「東方案内記」の著者で、旅行家のリンスホーテンは、故国への手紙でこう記している。

「僕は、中国と日本へ行きたいです。そこはゴアからリスボンまでと同じくらい遠い国々です。往復3年の航路です。(中略)親友は、砲手としてそこへ向かいました。(中略)その砲手は以前にもそこへ行ったことがあり、これらの国々の素晴らしい話を沢山聴かせてくれました。」『日蘭交流400年の歴史と展望』より

それが1568年のことであるから、1600年に九州に辿り着いた、リーフデ号のイングランド人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)は、最初の来日外国人でない事になる。このアダムズを徳川家康が優遇したことは有名である。

最初の来日外国人、ヘリッツソーンは、2度目の来日の際、1585年夏から、約8ヶ月間長崎に滞在し、1590年4月にオランダに帰り着いている。

ところで、蘭学というと、私たちは医学と同義語として捉えるが、実のところ、西洋の学術、文化、技術、そのほか西洋についての知識一切を含めたものである。かつて、医術はポルトガル人から南蛮流術として伝わったが、今度はオランダ人から学ぶようになっていて、1649年に来日した医師、シャンベルゲルもオランダ人という触れ込みであったが、実はドイツ人である。その他医師として来日した人々は、現代風にみれば、ベルギー人、スウェーデン人であるが、オランダ語を使っていたのでオランダ人とされている。蘭学のもう1つの大きな柱は、砲術であった。1639年には平戸で鋳造した大砲を、江戸幕府に献上している。いずれにしても、蘭学から西洋の最新の学術、文化、技術を吸収していたことは事実で、出島が現代の野球場の広さであっても、それが幕府とほとんど直結していることを考えると、その後の日本にとっては、大きな意味をもったことになる。

どういうわけか、子供の頃から気になっていた長崎出島であったから、長崎旅行で見た出島の小ささに驚き、また、西洋のオランダという国からこんな所までやってきたのに、隔離されるような状態におかれたオランダ人にも、申し訳ないように思って過ごしてきた半世紀後、何と、その船が出港した港と、小さな帆船の復元船に乗ることができて、何とも言えぬ感情に浸ったのは致し方ないだろう。

国立オランダ海洋博物館に、その復元船はあって、それも東インド会社の所有していた物の精密な複製だった。この博物館は、1657年に海運補給庁として建築されたものを、改築して使われている。ここで繰り返しを許して頂こう。アムステルダム中央駅というのは、世界的に有名な建築で、その豪華さ、大きさは、周囲を圧倒する。姉妹駅の東京駅と比べると、子供と大人の差がある。この駅は意外や、海の上に建っている。1886年建築の駅は、西方に向かって正面になっていて、アムステルダムの街は扇の形をしている。つまり、要の部分が中央駅で、5つの運河が走る街は、裾野を広げているように見える。その裾野の一番広がったところに、コンセルトヘボゥ、アムステルダム国立美術館、ファン・ゴッホ美術館のある、ミュージアム広場がある。

この街を見ると、その歴史を感じざるを得ないが、中央駅の裏側に回るとすぐ海で、アムステルダム港だ。私はこんなアンバランスな景色を見たことがない。北海の寒々しい水の色は、覗き込みたくなる気持ちをさえぎってしまう。この港の比較的近距離に、国立オランダ海洋博物館があるから、この場所から東洋に向かう帆船が出港していたことになる。その帆船は大きくはないが、風車によって製材された、ガッチリとした木材でできていた。しかし、3、4艘がまとまって航海に出るが、全員が帰港できない状況の中、ほぼ定期的に出港し、数年を要する危険な航海の事を考えると、400年の時間はその距離を一気に縮めてしまった。直行便なら、東京?アムステルダム片道11時間前後である。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ⑤

クナッパーツブッシュのエピソード

テューバ

ミュンヘン・オペラの楽団員は皆優れた人達であるが、テューバ奏者

クーゲルマンも素晴らしい存在であった。クナはテューバを重要に考えていたので、クーゲルマンにはいつも特に注目していたのだ。

「ジークフリート」を演奏していたある晩のこと、テューバのパートにいくつも出てくる難しい箇所を見事に吹き終えたところで、クーゲルマンは思った。

「今日はまずお誉めにあずかれるだろうさ。」幕が下りて、オーケストラの間を縫ってクナがそそくさと退場しようとする。ちょうどテューバの席にさしかかるとクナはしばし立ち止まり、楽器を見下ろした。いよいよ賞賛の言葉をもらえる、とクーゲルマンは待ち構えた。

クナはにこりともしないで言った。

「お宅の便器・・・・・・そろそろ磨き直したらいかがですかな!」

 

 

街の女

ある時、アン・デア・ウィーン劇場でクナは演奏会を指揮した。ワーグナーの<トリスタンとイゾルデ>「前奏曲と愛の死」を、マルタ・メードルが歌った。演奏会が終わると、クナが食事をいつもとっていたホテルは劇場からそう遠くはなかったので、彼はメードル他何人かと一緒にホテルまで歩いていった。

一行は途中、「街の女」がうろついている通りを横切らねばならなかった。女たちはクナッパーツブッシュのことなどもちろん何も知らない。その内の一人がクナに声をかけた。クナは無視して歩き続けたが、3メートル程行った後、くるりと向き直り、きょとんとする女にしゃがれた声で言った

「ごめんよ、ねぇちゃん。今日はムスコが一緒じゃないんでね!」

 

 

フランス語

バイロイトで<パルジファル>を練習していたときのこと、あるフランス人女性歌手の出来がひどかった。クナはオーケストラ・ピットから上の舞台に向けて例によって「このクソばばぁめが!」と怒鳴った。

しかし彼女はそれを解さず下に向かって

「フランス語デオネガイシマース!」

彼女がまたも演奏をしくじった時、クナは怒鳴った。

「フランス語のクソばばあめが!」

 

 

短い練習

クナッパーツブッシュは厳格だったが、慈愛深くもあった。

練習で彼は最小の労力で最大の成果を得たので、有能な音楽家から高く評価されていた。

ミュンヘンの演奏会でのこと。ブルックナーの第8交響曲のためにわずか1日の練習が予定されていた。クナは第1楽章を始めたが途中で止め指揮棒を置き、

その特徴的ななガラガラ声で言った。

「皆さんはこの曲をご存知だ。わしもそうだ。お互い辛いことは止めましょうや。ではまた今夜8時の本番で。」

練習はそれで終わりだった。

そしてその夜はいつものように輝かしい成功をおさめたのである。

 

(ミュンヘン・フィルハーモニーのソロ・ホルン奏者

               アルトゥール・アイトラー氏の小冊子より)

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ④

今回は、ペトレンコ指揮の「パルジファル」を聴くためにミュンヘンに行ったことはすでに述べた通りである。私たちの鑑賞日は5回の公演の中で一番チケットが取れやすいだろうという7月5日に決まった。この日を中心にして、

パリ・オペラ座バレエを調べてみると幸運にも、ガルニエ宮で「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」(リーズの結婚)が観られる。それとさらに幸せなことに、このバレエ団のエトワールであるジルベールがリーズを踊る日にピタリと当てはまっている。当日リーズの相手役が変更になっていて、さらに加えて、ルーベという超豪華なステージを観ることになった。

仕事の関係上、この2公演を観て、とんぼ返りすることになった。3泊5日の行程である。3泊といっても 東京―パリ は12時間40分かかるから日本を昼前の直行便に乗ってもパリに着くのは同日の午後5時半ごろになる。

入国審査と荷物を受け取って市内に入る頃は公演が始まってしまう。つまり

その日1日はまるまる無駄になるわけだ。そうなると時間を自由に使えるのは正味2日、その2日の夜の公演を観ようというわけである。

しかし、パリ・オペラ座の公演が終わってホテルに戻ると午後10時。

次の日の朝8時50分の便に乗らなければ昼にミュンヘンに着かないので、その3時間前、6時にホテルを出なければならない。我々は早朝4時に起きて準備をして出発した。

バイエルン国立歌劇場の「パルジファル」は午後5時開演である。そして、終演が午後10時20分。いくら好きな「パルジファル」だって、休憩時間を入れると5時間20分はキツイ。加えて、時差ボケ人間なのである。

歌劇場のすぐそばのレストランに予約をいれてあったので安心していたのだが、歌劇場を出ると、雨がポツポツと降っていた。急いでレストランの入り口に立った。案内された席は何と前回来た時と同じ席だった。

雨がポツポツと、同じ席と、食べ終わって小雨の中を同じ道を急ぎ足で通るのも、全く同じで驚くほかはない。前回は、クリスティアン・ゲルハーエルのシューベルト「冬の旅」を聴くために来たのだが、今回の「パルジファル」で

アムフォルタス王を歌ったのもゲルハーエル、これも同じであった。

前回のリートの時も歌劇場内は、ブラボーの嵐だったが、今回の「パルジファル」では、バイロイトと同じでドスドス、ドスドスと床をさかんに足で踏み鳴らし、あちらこちらからブラボーが飛び、最後はほとんどの人が立ち上がって、スタンディングオベーションだ。時差ボケと空腹で、皆が騒いでいる中で席を立って、レストランに駆け込み、ホッとしていると、後から後から人が入ってくる。みんな同じパンフレットを持っているので同族であることが知れる。完全な時差ボケ人間はビールを飲んでも、バイエルンの地方料理を食べても全く美味しくないのだった。

しかし、明日はどうしても行かなければならない場所があるのである。

朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。

しかし、こんな雨に負けてはいられないのだ。

私には目的がある。

恐らく、1965年10月25日、彼は77才の生涯をこの地で終えたはずだ。彼はミュンヘンに住んでいたと人は言う。もちろん、芸能人や世界的な映画スターでもないからどこに住んでいようが、人は興味がないだろう。生粋のドイツ人であり、生涯のほとんどを国内で過ごし、外国には出なかったらしい彼もフランスには行ったようだった。それは、パリ音楽院管弦楽団とのワーグナーのレコードも出ていることからも知れた。その後知ったのは、イタリアにも行っていてけっこう国外にも出ていることだった。そのレコードと出会った頃の私は、恥ずかしながら、ヨーロッパのことなどほとんど知らなかった。

「外国へ行かなかったって、フランスには行ってるじゃん」とつまらないことで反発して、そのレコードのジャケットを見ていた。今では航空会社にもよるが、日本から南ドイツに行くとなると、たいていフランクフルトかミュンヘンで乗り換えることになる。

これらの空港はフランクフルトもミュンヘンも国際空港である。現実に行ってみると、ターミナル間を電車が走っている程大きい。ミュンヘンという街は、古い建物と緑がとても多い。南ドイツの香りがプンプンと匂う。

現代都市のベルリンと比べると、同じドイツ?!と突っ込みたくなるほど違う。それに人間も違うらしい。ミュンヘンの人々はどこか、のんびりしていてやさしい感じがある。日本人からみると、いつも怒っているように見えるドイツ人は実はいい人達なのかも知れない。

ホテルを出ると、雨はしとしとと降り続いていた。空の1/3ほどが明るくなって、ほっとしたが、用心のために傘を持って出た。ホテルの傘だ。

トラム(市街電車)の19番に乗って、ウェバー・プラッツまで来た。ここでトラムを乗り換えろと地図は言っている。

実はこの地図、ライプツィッヒに住んでいる友人が作ってくれたものだ。

その地までのトラムの路線図、着いてからの目的地までの地図と丁寧である。

私たちは、同じドイツなのだからと、気軽に頼んでしまったが、ライプツィッヒとミュンヘンでは、違う。地図を見ながら、トラム17番というのを探すが、どういうわけ電車が来ない。電光掲示板にもその番号だけが出てこない。

よく調べてみると、17番の行く方向は線路が工事中であった。仕方なく、またトラムに乗ってホテルの前まで戻った。ミュンヘンは、流しのタクシーもあるという話だったが、走っているのは客を乗せたタクシーばかりでホテルから乗ることにしたのだ。

地図を見せて、

Bringen  Sie  mich  bitte  zu

ブリンゲン    ズイ   ミッヒ   ビッテ    ツウ

dieser  Adresse

ディーザー    アドレッセ

(この住所へ行って下さい)

とやってみた。

地図を見たものの、タクシードライバーは、ほとんど反応しない。

<こいつ、感じ悪し!>と心の中で思った。

それにしては、スイスイと広い道路を走っている。

妻と目配せして、帰りは違うタクシーにしようと決めた。細い道を入っては考え込み、首をひねって、もう一度見せろというジェスチャーをする。

ドライバーも困っているらしく、車を停めて人に訊いている。

<こいつ、ひょっとして。>

と思っていると、ついにその地を見つけたらしく、「kirche(キルヒエ)」

と言っている。タクシーの窓から見えたのは、小さな建物だった。

不信感を露わにすると、車内から前上方を指差している。確かに小さな十字架が見える。私の体に力がこもった。ここかも知れない。

周囲を見ると、ちょっとした高級住宅地で、前には幼稚園らしきものも見え、幼児の声がしている。この場所は、トラムの走っている線路からだとかなり遠いことはわかる。こんな所で降ろされたら帰るに帰れないという気持ちでいっぱいになった。

だいだいこんな所にある教会など誰が知るだろう。しかしわが家の事を考えてみても、近くのお寺に先祖は埋葬されている。もちろん大きな墓地には遠いところから人々はやって来るが、どちらかと言うと、それは比較的最近の傾向だろう。

裕福な家々のなかにある墓地は思ったよりかなり小さかった。雨が上がって、7月初旬の日が射して、緑が本当に美しい。

墓地の入口に立ってみて、タクシードライバーの気持ちが理解できるように思った。ミュンヘンの中心部にあるホテルから、ここを指示されても、誰だってとまどうだろう。それがあの態度であるなら理解出来なくはない。それで私は

気持ちを入れ替えて、ここで待って欲しい旨を彼に伝えた。

しかしかれの方もこの場所で良かったのかどうか迷っているようであった。おずおずと入口を入ってみると、右に回るように道がついている。友人がくれた墓地の地図だと、中心にある小さな教会を取り巻くように墓が並んでいる。そこへタクシードライバーが入ってきて、私たちが墓標の前で写真を撮っているのを見てニコッと笑った。

不確かな情報によると、あの指揮者のケンペもこの墓地に埋葬されていると言うが、こんな小さな教会に世界的指揮者が2人まで、という気持ちがケンペの墓を探す気持ちを萎えさせた。ただ、ケンペもミュンヘンの人だった。

昔、写真で見た墓は確かにあった。正面に立ってみると、左側に

ハンス・クナッパーツブッシュ、右側に生前のクナさんが“小リスちゃん”だか“小鹿ちゃん”と呼んだ愛妻、マリオン・クナッパーツブッシュが埋葬されている。彼と彼女は、10才違いでクナッパーツブッシュが亡くなった後、彼女は19年間生きていたことになる。

クナッパーツブッシュの墓の前に立った時、私の体は異常な反応を示しだした。

涙が出そうで出ない、ガクガク足が震える。声が出そうなる。呼びたい気持ちを抑えると、上半身が震える等々の反応だった。

私の反応にいち早く妻は反応して、その場から消えた。

私の引きつった顔は、明らかに1965年10月25日のことを思い出していた。

その場の光景とともに。

NHKの朝のニュースは、世界的大指揮者、ハンス。クナッパーツブッシュが亡くなったことを伝えた。呆然とした私は遠い日本から彼のことを想った。

15才と77才の歳の差を乗り越えて。

考えてもみなかったことが起こったのだ。私は早速『ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(ウェスト・ミンスター盤)』のジャケットからクナッパーツブッシュの写真をブロマイドにすることにした。

(ジャケットの左側がクナッパーツブッシュ、右側がブルックナー)

親しい写真屋に頼んで小さな枠を付けて、壁にかけられるようにした。

「こんなジジィの写真、ブロマイドにしてどうすんだ。お前おかしいんじゃない?」と下町言葉で言うから、「バカヤロー、お前なんかに何がわかるんだ」と怒鳴ってやったら、次の日に母親に苦情がきたらしい。

「お宅のお子さんだからまぁいいけど、それがうるさいんですよ。こんなんじゃダメだとか何だとかさんざん苦労しました。」

とこぼしていったらしい。

恐らくそんな時に、クナッパーツブッシュはここに埋蔵されたのだろう。

東京、ミュンヘン1万kmを乗り越えて、やっとクナッパーツブッシュの墓にきたのである。私はもう69才になっていた。

でも墓に来た充実感と、安心感は何にも変えられない。

(クナッパーツブッシュは聖ゲオルグ教会に隣接する、ボーゲン・ハウゼン墓地に埋葬されている。)

 

私の先祖の墓は仕事場からタクシーを利用すれば10分程で行ける距離にある。

しかし私はこの10年一度も行ったことがない。

又、今後も行くつもりもないのだが、私は本当の愚か者だろうか。

罪悪感を持って、人に訊くと、『けっこうそういう人もいるんじゃない』という答えが返ってきた。

その言葉が嬉しくもあり、悲しくもあった。

ハンス・クナッパーツブッシュの墓 ③

この文章のテーマは

「ハンス・クナッパーツブッシュの墓」だった。

このいやに長い名前は、クナッパーツブッシュだけでも相当長く、発音もしづらいが、れっきとしたドイツ人の名前なのである。日本の音楽ファンは彼のことを“クナ”と呼ぶ。さて、この人は何者なのだろうか。そして、その人の「墓」

とはなんなんだろう。今までの文面からすると、どうも音楽に関係することとは、わかるだろう。現代ではこの人のことをあまり知らない音楽ファンも多く存在するはずである。何しろ、1888年生まれ、1965年の10月25日に亡くなっているのだから、53年前に没した人だ。この人のワーグナー演奏は現在ではあまり評価が高くないのだが、実はバイロイト音楽祭の主なのである。

バイロイト音楽祭は1951年に再開され、その年からクナは「パルジファル」を演奏し、亡くなる1年前の1964年まで毎年演奏した。1953は、演出家と意見が合わずキャンセルしたが、他は全て指揮をしている。

つまりワーグナーの権化なのだ。

それを証明するように、1953年以外の全ての「パルジファル」の公演が、バイロイトでライブ録音されて発売されている。クラシック音楽の世界ではめずらしいことだ。ここでしばらく私個人の過去を話すことにしよう。

ハンス・クナッパ-ツブッシュという大指揮者は、私の心の中に突然やって来た。1964年のことだった。(「ブルックナーの交響曲第8番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団」(ウエストミンスター盤)というレコードは現在も所有している。)

このレコードが私とクナッパーツブッシュとの出会いだったのである。

このレコードをどこで買ったのか、又、なぜ買ったのかも忘れてしまった。

ただ、1965年の10月25日の朝、NHKラジオから流れてきたアナウンサーの声は覚えている。「昨日、ドイツの大指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュ氏が亡くなりました。享年77歳でした。」

大げさではなく、目の前が真っ暗になってガクガクと震えが体を伝わった。

頭の中では、クナッパーツブッシュが死んだって?死んだって何?いろんな言葉が飛び交っている。ほぼ1年前からクラシック音楽を聴くようになってレコードを買っていたのだが、この人が指揮したブルックナーの第8番交響曲はいたく気に入っていたのである。高校1年生は帽子をとって無言である。こういう状態を呆然とした、というのであろう。

私は母親にこう言った。

「今日は学校に行かない」

そしてその騒ぎが一段落して、クナッパーツブッシュの「パルジファル」の全曲レコードを買った。もちろん1962年、バイロイト音楽祭のライブ録音で“レコード大賞”をとった名盤である。

それから私のワーグナー好きが始まったのである。そして、一時期を除いて

“ハンス・クナッパーツブッシュ命”が始まったといってもいい。

“クナ”はワーグナー指揮者であるからその関係から、ワーグナーの曲にのめり込み、またクナを聴いた。そしてそれは今でも続いている。

現在では、一部の人々は彼について相当批判的であるが、その反面CD屋に行くと、彼のCDは人気があり、手を変え品を変えて、あるいはSACD化したり、リマスタリングをして売り出す。その都度CDは売れるからCDメーカーはウハウハだろう。現代からみると彼の演奏は、つまりオーケストラコントロールという意味からみてもかなり大雑把であり、先日聴いたバイエルン国立歌劇場とペトレンコの完成度の高いものとは比較にならないのだが、聞き手に与えるインパクト、あるいは感動はそれとは無関係なのである。ペトレンコは次期ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者になるが、あのベルリン・フィルを4年も待たせるほどの実力者である。

皆が聴いたことのないタイプの現代指揮者と、ハンス・クナッパーツブッシュいう大時代的ドイツ人指揮者は、純粋に音楽という立場に立つと、クナの方に分が悪いが芸術という視点からみると、彼の方が孤高の存在に見える。

ゆっくりとしたテンポ、正にドイツ系の分厚い響き、がっちりとした構成力、つまらない細工などに興味のない、あるいは、周囲を睥睨し、自己の道をただただ歩き続ける巨人、どこか人間をなめているジョークとユーモア、それでいて人懐っこいところを感じさせる巨人、大作曲家の交響曲をかなり個性的に演奏するが、“くるみ割り人形”の美しさにはのめり込む。

クナッパーツブッシュにかかると、ベートーヴェンだってモーツァルトだってバッハだってどこか見下されている感じがある。ただ、ワーグナーにだけは、全力で対応するのである。

彼の中ではワーグナーの作品だけが、正面から組み合える作品なのだ。

そんな人に私はとりつかれてしまったのだった。この人の音楽は迷える少年の目の前にドスンという音と共に現れたと言ってよい。だから、いつかクナッパーツブッシュの墓に行ってみたかったのである。

ところで私は随分、音楽家の“家”とか“墓”に行っている。バッハはライプツィヒのトーマス教会の祭壇の前に眠っているが、誰でもすぐそばまで行くことが出来る。ドレスデンにはウェーバーの墓がありその小さな墓石の左右には彼の一族が眠っている。これらは本当に質素で気の毒になるほど実にわびしい。もちろん墓石の前に柵などないから、手で触ることも出来るし足で触れることも出来る。あのマーラーの墓はウィーン郊外のグリンツィングにある。これも大作曲家の墓とは思えぬ位、控えめなものだ。マーラー・ファンの私は、マーラーの墓のそばにマーラーを捨てて何人もの男と関係をもった悪妻アルマ・マーラーの墓があるのには呆れ果てたことを覚えている。さてワーグナーの墓の前で我ら5人はどうしていのか迷ってしまった。

5人というのはバイロイト音楽祭「ニーベルングの指環コース」のツアーの人々の中の5人である。

この5人はどういう訳か気が合うようで演奏終演後、ホテルのレストランで深夜まで語り合った人々である。

バイロイト音楽祭は、4時から始まって終演が10時から10時半になる。それからホテルに帰り、そこから夕食になるわけだ。

私は一考した。一週間は同じホテルに泊まるのだから、11時から毎日レストランの同じテーブルを予約すれば皆で会食が出来るのではないかと。これにみな賛同して毎夜楽しい時間を過ごした。何しろ89万円也を払って日本からやって来た、筋金入りのワーグナー・ファン達だ。その中の1人が超筋金入りの人で、ドイツに留学もしていて、ニュルンベルクでもバイロイトでもやたらに詳しい。

この人がワーグナー博物館にみんなで行こうと言うのでついていくとそれは、

写真で見たことのある建物だった。ワーグナーがヴァンフリートと呼んでいた自宅だ。正面切っては言われないが、これもあのルートヴィヒ二世が関係している。それは正面玄関に向かって右側にルートヴィヒ二世の像が立っているからわかる。

ワーグナーという人は若い頃、つまり1849年にドレスデンの革命に参加し逮捕状が出て、ドイツを脱出、チューリッヒ、パリ、チューリッヒと亡命生活をしている。いわゆるおたずね者だった。女性との関係も華やかで、初婚後何人もの女性、それもパトロンだとか友人だとかの妻と関係をもった。

二度目の結婚は、あのリストの娘コージマだ。

彼の自宅ヴァンフリートという立派な建物をおたずね物で浪費家のワーグナーが建てられるはずがない。金もないのに一流ホテルの最上級の部屋を使う神経も尋常ではないが、そこだけでも一般人とはどこか違う。

それをふまえてワーグナーをみると、想像を絶した強運の持ち主という人種なのだ。通常なら自己破産している人間なのである。煮詰まってしまい、にっちもさっちもいかなくなった頃にピタッとルートヴィッヒ二世が現れたのだから、これほどの強運はないだろう。

ここで、私は素直に告白しなければならないだろうと思う。ヴァンフリートという自宅は現在公開されているので、ワーグナー博物館でもある。

私がその中でみたものとは・・・。

「これって何、いやに小さいけど」 という言葉に妻も

「本当に随分」 と言った。

ガラスケースの中に入っている洋服はワーグナー本人の物であり、その他日常使っていた品物が多数陳列されている。

どうしてもその小ささが理解できないのである。

「でもこれ本人のものでしょ」と妻が言う。

自分の好きなものは誰だって立派であって欲しいと願うのは人情だろう。

でもどう見ても小さい。

ワーグナーという人は恋愛事件を多く起こし、最後は弟子ビユーローの夫人コージマと結婚した。今で言う「出来ちゃった婚」であり、有無を言わせぬ行為である。しかし3年後ミュンヘンで「トリスタンとイゾルデ」を初演した時は、弟子のビユーローが指揮している。

つまり、寝取られた元夫がワーグナーの初演を行ったということになる。

今私はミュンヘンでビユーローが指揮をしてワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」を初演したと書いた。その歌劇場こそ、今回「パルジファル」を観た「バイエルン国立歌劇場」なのだ。

ヴァンフリートという名の彼の館は立派なものであるが、その後ろには小さな林がある。その庭には、ワーグナーの墓がある。ここには妻コージマも眠っていて微笑ましい。

バイロイトツアーで一緒になった5名はその墓の前に立って、どうやって祈るか迷っていて、日本風でもいいのかなどと話し合っていた。土を盛り上げた上に置かれたグレーの平たい大きな石版は周囲の木々とよく調和してリヒヤルトとコージマの愛が本物であったように私には思われた。

断っておくが、墓巡りは決して私の趣味ではない。

偶然が重なり合って行ってみただけなのである。

しかし、足元にそれらの人々を感じるのはある意味で辛い事であった。

私は音楽が好きである。そして最近はバレエにもハマっている。

例えばバレエ好きになるまで、つまり数年前まで“バレエ”なるものに全く興味がなかった。本心を言うなら「あんなもの何がいいんだろう」と思っていた。

クラシックチャンネルに入会したのはベルチャ弦楽四重奏団の「ベートーベン弦楽四重奏曲の全曲」演奏を放送するという広告を見たからだ。

チャンネルを回してみると、あまりに美しい画像が飛び込んできて、音楽もいいがその演奏の素晴らしさに目を見張った。白いコスチュームを着た何十人もの女性の踊りは始めて観るものだったし、よく聞いてきた「白鳥の湖」の音楽も生き返ったようにピッタリと、踊りに密着している。

バレエ音楽「白鳥の湖」は、バレエあっての音楽だったのだ。

私には“バレエ”という誰でも知っている世界に初めて触れた感動があった。

私の困った性格は、今に始まったことではない。

興味があることには徹底してのめり込むが、興味がないものには全く反応しない。全くである。

だから皆が知っていることを私は全く知らない。最低の知識もないのである。

“バレエ”について言えば、そのことが良かったかもしれない。何も知らないということは、真っ白であることに通じる。だから一度火がつくとそればかりに集中する。一種の吸い取り紙なのだ。

「すごいね集中力」というのはよく我が妻が言う言葉だ。

しかし一方周囲の人は迷惑である。毎日毎日バレエを観ている。夕食が終わると観る。これは高校生の頃の自分と同じなのである。ワーグナーについていえば学校から帰ると第一幕、夕食後第二幕と第三幕、終わると11時頃、まるでバイロイト音楽祭のようだ。

これを毎日繰り返す。バイロイトだって7月25日から8月末までなのだ。

こんなことを言えば音楽ファンから怒られるに決まっている。でもあえて言う。

ワーグナーの方がバッハやベートーヴェン、モーツァルトよりもはるかに難しい音楽だと。

私が言いたいのは、音楽のレベルの話をしているのではない。音楽の作り方のことを言っているのだ。あの無限旋律とライト・モチーフは1度や2度聴いたってとても覚えられるものではない。必死になって聴き取らなければならないし、1曲4時間はかかる歌劇全曲を覚えるとなると聴き手側にも相当の能力が要求される。

さて、ベルチャ弦楽四重奏団のおかげで、バレエ・ファンになった私は集中する分成長もあったのだろう。あんなにバカにしていたバレエの難しさを知り、ダンサーたちの努力を思うようになった。例えば今回のパリ・オペラ座バレエは、世界のバレエの最高峰の一つである。たとえその舞台に群舞の中の端役であっても、出演することなど奇跡に近い。

街を歩いていて、その気になってビルの看板を見れば“バレエ教室”がどの位あるかわかる。それが世界中にあるのだから、その頂点に立つなど考えるだけでも気が遠くなる。

そういう目でバレエを観ると、彼らのやっているダンスというものがどのくらい高度なものなのか理解出来るようになった。

「男のくせに白タイツはいてキモチワルイ」

と思っていた男の考えていたことは所詮何も知らないアホな男のたわ言だったのだ。

それはどんな分野にも言えて、真剣に取り組めた人だけに理解されることなのだろう。

私が大作曲家の墓の前に立って、つま先を向けていることを自体いたたまれなかった、理由がここにある。

何百年にも渡って演奏され続けている作曲家となれば、心死に努力する

ダンサーの比ではないだろう。

彼らにとって天才であることは当然のこと、努力も当たり前のことであるが彼らの強い個性はことあるごとに周囲の人とぶつかり合って、戦い、落ち込み、苦しい精神を鼓舞して再起してきたのだ。そんな人達の前に立つ自分に対して怒りがこみ上げてきたのは当然のことなのだ。